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■安倍総理とヒットラーを結ぶ『魂の殺人』

 一朝一夕には、変わらないものがある。
 それは、子どもの成長と、国の文化だ。
 どちらも、年月を経て、少しずつ変わっていく。
 変えているのは、人間の日々の仕事のありようだ。

 1日1日、僕らが何をするかによって、子どもも、国(社会)の文化もどこかへ方向づけられ、日々の蓄積の結果として、やがて成熟した姿を見せる。
 それは、国の行方を決める総理も同じことだ。
 では、安倍総理は、どんな環境で育ったのだろう?
 僕は今、子どもの頃の安倍総理を想像してる。

 親族一同に政治家になるのを期待され、ものごころがつく前から進路を決められ、大学まで同じ系列の学校に通った彼は、他を圧倒する金持ちとして友人から距離を置かれた付き合いしかできず、人知れず、孤独に陥っていったのかもしれない。
 持て余した承認欲求を支配欲求に転じさせたのは、彼自身の生存戦略だった。
 そう考えると、現役政治家として年を食った彼にとって、祖父と肩を並べるような歴史的な政策転換をやり遂げることをことさらに急いだこともうなづける気がする。

 安倍総理の生い立ちを見ると、子育てが社会の現実を作るという重要性を思わずにはいられない。
 子育ては、一大事業だ。
 しかし、それを見たくない・関心を持ちたくないという政治家は、自分自身の生い立ちを見つめたくないかもしれないね。

 そうなると、安保関連法の強行可決も、安倍少年に対する文化的虐待の結果である可能性を考えておく必要がありそうだ。

 (祖父・岸信介の膝の上に座る少年の安倍晋三/ウォールストリートジャーナルより)

●虐待の被害者は、支配欲求で権力を求める

 文化的虐待とは、身体的虐待・心理的虐待・性的虐待・ネグレクト(育児放棄)に加えて、僕が提案している「5番目の虐待」だ。

 よのなかには、親が極端な政治思想や宗教の教えを子どもに強いたり、あるいは親自身が軽度発達障がいなどの障害や病気をもっているという現実がある。
 そういう家庭の子どもは、学校や一般社会で教えられる常識的な通念とは異質の育ちを強いられる。
 当然、非常識な言動をみんなの前で見せるから、ふつうの人たちとの対人関係に自信が持てなくなったり、孤独をこじらせるなどして、生き苦しさを持て余すことになってしまう。

 それが文化的虐待の実態なのだが、大人になってからでないと認知しにくい。
 その時点では手遅れなほど、被虐待の当事者は孤独のうちに葛藤を抱えている場合が多い。
 大人になっている当事者は、周囲に話しても理解を得られず、納得できないまま「親は良かれと思って自分にしてくれたんだ」と自分を責めることしかできずに苦しみ続けるしかないからだ。

 その苦しみから楽になるには、親の言った通りの人生を進むしかない。
 そして、親に受容されるまで、親のリクエストを実現するしかない。
(そのまま親が亡くなれば、親のリクエストを達成していなくても、達成できたとしても、むなしさばかりが残るのが恐ろしい)

 裕福な家では帝王学を仕込まれ、学校でも教育投資され、周囲の友人たちからも「俺たちとは違う人」という距離でしか付き合えなかった男。
 それが、安倍晋三ではないか?

 自ら公言するように、祖父・岸信介を深く尊敬し、保守思想に深く傾倒した、その特異な思想や政治手法には、彼の生い立ちが深く関わっている。
 そう指摘する新刊本安倍晋三 沈黙の仮面: その血脈と生い立ちの秘密』(小学館)が、2015年11月に発売された。

 Amazonの内容紹介には、以下のように書かれている。
●父母の愛に飢え、中学生まで教育係のふとんで寝た少年
●父母と離れて生育し、祖父と教育係の女性に依存し、勉学を嫌って奔放に育った
●父との確執を抱えて政界入り

 上記の生い立ちを読んで、ドイツの独裁者ヒットラーの生い立ちから戦争や大虐殺の動機を描いた名著『魂の殺人 親は子どもに何をしたか』(アリス・ミラー・著/新曜社)という本を思い出したのは、僕だけではないだろう。

 良い親や立派な教師は、しつけと教育の名の下に子どもを殴り傷つけ、人間性を破壊し、支配欲を満たしてきた。
 そしてある日、凄惨な事件が発覚して、世間は騒然とする。

 『魂の殺人』は、―独裁者の子ども時代を暴き、子どもの権利と尊厳を説くものだ。
 読まれた方の感想が、このブログにあるので、参考にしてみてほしい。

 僕は初めて読んだ時、かなりショックを覚えた。
 虐待のひどさを描く部分よりも、家父長的な家庭での愛情飢餓→承認欲求→孤独→支配欲求→権力への渇望→独裁者→戦争・大量虐殺というヒットラーの成長に戦慄を覚えたのだ。



●子育てとは、親がいなくても生きていけるようにすること

 日本でも、金がある家では、当たり前のように子どもに教育投資をする。
 幼稚園から優秀な有名私立に入れて大学まで進ませる。

 そういう環境で育てられる子どもには、貧乏な家庭の子どもはもちろん、一般的な所得層の家庭の子どもとも日常的に付き合うチャンスが減り、多様性に鈍感な人材になりかねない。
 事実、大学時代に発展途上国まで旅して、初めて「よのなかには貧困の子がいるんだ!」と驚いて、途上国支援のNPOに参加する若者が後を絶たない

 安倍総理は、成蹊小成蹊中成蹊高成蹊大学法学部政治学科卒と、見事に均質な属性の人間関係の中で、ものごころつく前から大人になるまでを過ごした。

 安倍総理自身、「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。
 安倍は、政治は知っていたが、多様な社会を知らなかったのだ。
 なるほど国民を「活用」したがるわけだね。

 スポ根マンガの金字塔とされてる「巨人の星」ですら、老いた父・星一徹は自分の子育てに無茶があったことを真摯に反省する。

 子育ての責任は親にはとれない。
 それを悟ることによって、親は自分が良いことだけを与えてきたわけではない現実に向き合う。

 国連大学も含め、ダイバーシティを学術的に語る機会は、大学では増えては来ている。

 しかし、それを教える先生たちの日常的な人間関係が多様な友人たちになってるかどうかは、かなり疑問だ。

 LGBTや障がい者、ホームレスや外国人、中卒の労働者や難民など、よのなかには、さまざまな人々が生きている。

 そうした多様な人たちと日常的に付き合おうとする構えのない社会では、教条主義的な多様性しか育たない。

 国民の税金で仕事をする政治家が、苦しんでいるさまざまなマイノリティたちと付き合うことが無いまま、総理にまで上り詰めたら…!?

 妻が世界初の「家庭内野党を公言するファーストレディ」になるどころの悲劇ではない。
 最悪の場合、国民を次々に楯にして政治家たちだけを守る戦争を平気でやりかねないのだ。

 安倍総理が10代の頃、「家族・親族から背負った重い期待をかなぐり捨てて、個人として心から満足できる人生に進んでいってもいいんだよ」という教えを与える教師がいたり、そういう人生を実際に歩いている多くの人たちと出会っていたなら、クーデターによる強行採決という強引なやり方で安保関連法が可決されることは無かっただろう。

 そう考えると、僕ら日本人が「子育て=親の責任」と考えたり、「子ども=親の所有物」のように感じてきたことのツケが、権力の暴走を招いたとも言えるんじゃないか?

 子育ては、親だけでなく誰もが対等に担うもの。
 子どもは、子ども自身のもの。
 そういう考えに切り替えていく人が増えれば、少しずつこの社会は変わるだろう。

 「安倍晋三」という名が、後年、日本の政治史の汚点として教科書に刻み込まれるのは必至だ。
 子どもの頃に、自分自身の人生を生きるという自尊心(魂)を殺されてしまった人間が、今なおこの国のトップにいるなんて、恐ろしくてたまらない。
 総理より強い権力者など、この国にはいないのだから。
 
 家族より個人を大事にできない男が、国家より国民を大事にできるだろうか?
 みんなの期待とは裏腹に、安倍総理は想像を上回る悲劇と不安にこの国を導こうとしているのかもしれない。

 子育てとは、子どもが自発的に親を捨て、親の子育ての間違いから自由になり、今より苦しくない社会を作るために働きたくなるように仕向けることではなかったか?

 子ども側から言えば、育ちとは、親からの重すぎる期待を裏切ることなんだ。 

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