『絶歌』の出版元である太田出版自身が、著者の身元を確認してないことを認めている。
なのに、『絶歌』はテレビや新聞、雑誌で「元少年A=酒鬼薔薇聖斗」と断定的に報道された。
断定しておいた方が、人々をメディアに関心をクギ付けにし、それによって広告スポンサーを獲得できるからなのだ。
だから、メディア業界人たちが、真実を確かめるというジャーナリズムの仕事よりも、自分たちの生存戦略を優先してしまう(=真実をグレーのままにしておく)さもしい働き方になっていることを、僕ら読者や視聴者は気づく必要がある。
それについては、このブログでも嘆いておいたが、一度読者や視聴者に刷り込まれた盲信は、なかなか取り除くことが難しい。
だから、10月15日付の「元少年Aの有料ブロマガが閲覧不能に」という日刊ゲンダイの記事でも、以下のように断定的に報じられた。
●自分で確かめてないことは「わからない」で判断を保留しよう
「元少年A」の身元が不明である以上、「元少年A」のブロマガも、ホームページも、実際には誰が書いているのか、わからない。
誰にもわからない人が書いている。
なのに、「元少年A」という自称の人物名だけが一人歩きしているのだ。
こんなオバケをつかむような状況で、有料のコンテンツを買うバカがいるのだとしたら、「私が安倍総理です」と自称して本を出すことも許されるのだろうし、「俺がキムタクだぜ」という手記を出版することだってできるだろう。
「メディア・リテラシーのないバカ、集まれ!」と呼びかけられて、ほいほいカモになってるわけだね。
僕はここで、小学校の頃に教科書で読んだ『ひときれのパン』という物語を思い出す。
逃亡する人に紙袋を渡した人が、言う。
「このパンは到着してから食べるんだよ。それまで袋を開けないで」と。
到着し、袋を開けると、パンではなく、木片だったというオチだ。
ニセモノでも「本物だ」と思い込むことが、希望というものの正体だという教訓だ。
この物語は、共産圏で生まれた。
真実を確かめる自由のない国ほど、希望が盲信にすぎなくなるのだ。
日本は資本主義国家で、自由に真実を確かめる権利だって保証されているのに、テレビや新聞、雑誌などは、その権利すら放棄して、国民にグレーなことを断定して伝えてしまう。
しかも、そのことに国民の多くが気づかない。
せめて、確認できてないものは、「わからない」で判断を保留する構えを学ぼう。
現実のよのなかは、「黒でなければ白」という具合にハッキリ分けられるものではないし、希望だと思っていたことが、同時に絶望的な現実を意味していることもあるのだから。
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