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■支援は、なぜ「支配」になりがちなのか?

 よのなかには、世間受けはするけど、当事者の一部からは嫌がられるアクションがある。
 その一つが、アウトリーチだ。

 厚生労働省は2013年度から、ひきこもっている人がいる家庭に、元ひきこもりやその家族を「ひきこもりサポーター」として養成、派遣する事業を始めた。
 養成された「サポーター」は、国のお墨付きを得て、堂々とひきこもり当事者の自宅を訪問するのだが、これに対し、ひきこもり当事者の一部から懸念や不安の声が上がった。



 こうした支援が、結果的に成功することが無いわけではない。
 しかし、テレビや新聞では成功事例だけを報道するので、あたかもアウトリーチの試みで当事者の悩みを万事解決しているかのような勘違いをしてしまう人もいるだろう。
 そのようにして、失敗事例や、「自分の部屋を知らない人に訪問されるなんてイヤだ」という声は、かき消される。

 こうした「幸せの一元化」は、ひきこもり支援だけでなく、ニート支援、貧困者支援、10代支援、障がい者支援など、さまざまなシーンで観られることだ。

 それを思う時、「当事者は声を上げられないからこっちからアウトリーチするしかない」という構えは、一見やさしそうだが、ひどく支配的な振る舞いにも見えてくる。

 確かに、孤立して苦しんでいても、その声を公にはあげられない人はいるだろう。
 でも、そうした当事者の中にも、「この人ならわかってくれる」と見込んだ限られた人には、そっと本音をうち明けてる人もいる。
 特定の誰かに話せなくても、ネットの片隅で人知れず匿名で小さくつぶやいてる人もいる。

 そうした声を上げにくい人にとって、「結果的に救われれば文句ないだろ」と言わんばかりにズカズカと土足で心の中に踏み込んでくるような言動は、どんなに正しくても、傲慢さが付きまとう。
 その人の境遇を一方的に「かわいそう」「不幸」「問題」と決めつける傲慢さだ。

●当事者に嫌がられる支援に正当性はあるか?

 「何が問題か?」を当事者に会う前から決めてかかる支援には、「世間の良識」という既得権益的な価値観がある。

「いつまでもひきこもっているなんて、いけません」
「どんな親であろうとも、子どもが家出することはいけません」
「いつまでも貧しければ、困るのはあなたですよ」
「健常者と同じ幸せを求めて不幸になるのはあなたですよ」
「早く元気になって、治ろうとしないといけません」
「何があろうと、売春はいけません」
「とにかく自殺は、いけません」
 …など、世間の多数派を味方にしたキレイゴトは、当事者の気持ちを逆なでする場合がある。

 それどころか、「お前は俺の敵だ」「こっちの事情も知らないくせに」と感じる当事者だっている。
 不信感を持った当事者の中には、「そういう支援がまかり通る社会がもう全部イヤだ!」と自暴自棄になってしまう人も出てくるだろう。

 10年間も巨額な税金を投入しながら、たいした成果を上げてない日本の自殺対策を見れば、従来の支援がいかに役立たずかがわかるし、むしろ生きづらい当事者を自殺へと追い詰めてるような恐れすら感じる。
 そこで従来の支援の決定的な間違いを1つ挙げるなら、世間の多数派を味方にしたキレイゴトを業務上、捨てられないことだろう。

 死にたい人に「死ぬな」という構えを見せれば、それは敵対するのと同じだ。
 「死ぬな」と言う以上、その人の持っている苦しみを解決するまで深く付き合う覚悟を見せないなら、無責任としか感じない当事者もいるのだから。

 支援者は、アウトリーチをする前に、当事者が本音をうち明けやすい構えを日頃から見せておくことが必須の課題だろう。
 それには、当事者が人知れず抱えてきた「どうしようもなさ」を本気で受け止めようとすることだ。
 言い換えるなら、自分があまりにも当事者各自について知らないことを認め、真摯に「教えてください」という構えをとることだ。
 

●仕事で当事者とスポット的にしか付き合えないことの限界

 僕は、ある時、家出して売春しながら放浪してる若い女性から、こんな言葉を聞いた。
「父親にレイプされる家にいるより、売春してる方がマシ。お金もらえるし」

 彼女は居場所を転々として暮らしていたが、それは一か所に居続けても、ちっとも落ち着かないからだった。
 家庭で安心を覚えることのなかった彼女にとって、同じ場所に居続けることは危険を意味していたし、素性を安易に語ることは男の暴力に屈服させられる現実を引き寄せることと同じだった。

 彼女自身の口から「父親にレイプされる」という言葉を聞いたのは、出会ってから数年経ってからのことだった。
 「何を言っても、この人はドン引きしない」と考えてくれたのかどうかは、わからない。
 しかし、僕が彼女の言動について何もとがめなかったのは事実だ。

 「ああしろ」「こうするな」という正論で誘導する説き伏せ方は、校内暴力が一番ひどかった中学時代を過ごしてヤンキーの友人たちがいた僕にとって、支持できるものではなかったから。

 どんなに過酷な社会であろうと、今持っている何かによって生き残っていくしかない。
 学力がなければ体力で、体力もなければ愛想で、愛想もなければ若さで、若さもなければ世間知で、世間知もなければ何かを盗んでも、人は生きようとする。
 それが他人から見ればどんなに痛い生き方であっても、その人にとっては、それしかないと思うからこそ、それをせざるを得ないのだ。

 その「どうしようもなさ」に向き合わず、自分ができるから相手もできると思ったり、自分が幸せだと思うことを相手も幸せだと思ってくれると期待するのでは、「支援者側の一方的な都合」を押し付けられていると当事者が感じるのも当然だろう。

 「どうしようもなさ」は、にわかには解消しないし、解決を急がされても困るものかもしれない。
 それを思う時、僕はあるマンガのキャッチコピーを思い出す。

「救われるより、ここにいたい」

 一緒にバカな話で笑い合い、同じ音楽で踊り、何も考えずカラオケで大声で歌いまくる。
 そんな付き合いしか僕にはできないのだが、そういうプライベートな付き合いの積み重ねの中からしか、苦しんでる当事者の気持ちを少しでも知ることはできないような気がするのだ。

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