なんだか時間とカネを無駄にした気分が癒せないので、ブログにまとめてみる。
TOHOシネマズ市原という地元のシネコンで、夜の6時50分の上映での観客は5人のみ。
ちゃんと1800円も払ったんだから、それなりに楽しませてくれるだろうと期待した。
結論から言うと、カタルシスや感動までは至らなかった。
本編上映の前に観た今後のアメリカ映画のSF巨編の方がとてつもなく面白い特撮のように見えていたから、嫌な予感はしていたのだ。
それでも、前編でとにかく伏線をいろいろちりばめていたので、後編を観ざるを得なかった。
前編もカタルシスや感動までは至らなかったけど、「壮大なる序章」なら仕方ないと思ったし、あのアツい語り口の映画評論家・町山智浩さんが脚本にからんでるんだから、どんなに樋口監督が人間ドラマを演出するのが下手でも、なんとか挽回できるかもしれないと一縷の望みを賭けていた。
でも、町山さん、あれじゃ、泣けませんて。
町山さんが考えたバットマン(ダークナイト・ライジング)の話(※25分頃から聞こう)の方がよっぽど良かった。
もちろん、映画は監督も含め、撮影現場でいかようにも脚本が無視されたり、解釈を変えられたりするのはわかるし、町山さん自身も今回の現場に口を出さなかった事情もわかる。
●ラストで爆発した原発をクローズアップで見せたらよかった
巨人が人間の作り出した兵器だってことは、前編を観たので想像の範囲だったし、それゆえに戦争が起こり、過剰な発展を自制し、あえて中央集権的で前近代的な文化に甘んじているという世界観も理解できる。
しかし、体制派か反体制派かという二択の先に、「自分たちの社会は自分たち自身で作る」ということをアクションで見せていかないと、「先行世代VS若者たち」という構図が生かされない。
それが、この映画では、超大型巨人を倒した後でも、強力な管理社会の内側で家畜のままだという視点を提供して終わる。
エンドクレジットで監督の名前が出た後で、だ。
そのテーマの方が日本にとっては極めて現代的なんだから、それを物語内でやってくれよと感じたのは、僕だけではないだろう。
(※最高の見せ場は、往年の怪獣映画『サンダ対ガイラ』だし、どうやらこの版権をとったらしい)
ラストで、高い壁に上ったエレンは初めて壁の向こうに海を見る。
せめて、その風景にかつて爆発しただろう原発が描かれていて、クローズアップで見せたのなら、この映画は極めて現代批評的な映画になっただろうし、命懸けの闘いの後に僕らが何のために働き、何のために戦うべきなのかをもっと考えさせたに違いない。
徹底した現地取材をふまえたこの映画の後で、血みどろの戦いをする大義に納得できるとしたら、「自分たちの社会は自分たち自身で作る」がど真ん中のテーマとして描かれなければ空虚だ。
だってさ、「100年以上も現れず、突然現れた正体不明の災厄」って、日本人にとってみれば、大地震であり、それに備えるどころか、さらなる悲劇をもたらすものは海岸沿いに作りまくった原発じゃん。
だってさ、「100年以上も現れず、突然現れた正体不明の災厄」って、日本人にとってみれば、大地震であり、それに備えるどころか、さらなる悲劇をもたらすものは海岸沿いに作りまくった原発じゃん。
「絶対に勝つ」という無根拠なままで始めた太平洋戦争が広島・長崎への原爆投下で終わったように、「絶対に事故らない」という無根拠なままで原発を全国に作りまくって、ついに事故を迎えた日本が、過去を清算し、生まれ変わる期待を若い世代に込めるなら、爆発した原発を「先行世代の過ちを繰り返してはいけないという教訓」の象徴として出しても良かったのではないか?
特定秘密保護法をもじったような「特定知識保護法」を設定に組み込んでいる以上、そんな先行世代の作った仕組みではない新しい仕組みを自分たちの世代が作るために血を流して戦うならば、若者たちが主人公になる意義がくっきり浮かび上がったはずなのだ。
さらに言えば、脚本の町山さんが「壁に囲まれている小説、どこかで観たな」と思った発想から、スキーター・デイヴィスの歌う『the End of the World』(邦題『この世の果てまで』)」の歌詞が引用され、村上春樹さんの小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』自体に壁に囲まれた世界のイラスト(下記)が収録されてる点を観れば、個人の自意識で世界を認知する「セカイ系」から解放された現実の社会のリアルへと目覚めさせるための戦いとして描く必要があったのではないか?
さらに言えば、脚本の町山さんが「壁に囲まれている小説、どこかで観たな」と思った発想から、スキーター・デイヴィスの歌う『the End of the World』(邦題『この世の果てまで』)」の歌詞が引用され、村上春樹さんの小説『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』自体に壁に囲まれた世界のイラスト(下記)が収録されてる点を観れば、個人の自意識で世界を認知する「セカイ系」から解放された現実の社会のリアルへと目覚めさせるための戦いとして描く必要があったのではないか?
不思議に思ったのは、誰もが巨人になりうる恐怖があったはずなのに、それを知ったエレンが知る前と変わらず仲間と巨人退治に動機づけられていた点だ。
もし仲間が突然、知性のない巨人に変化しても退治するの?
その恐れは、自分が巨人になって人間に敵視されたエレンには、一番わかってるはずなのに。
その恐れは、自分が巨人になって人間に敵視されたエレンには、一番わかってるはずなのに。
他にもいろいろ残念な映画だった。
観た後でファミレスで1人、お茶しながら、twitterで『進撃の巨人』で検索すると、いやはや酷評のオンパレード。
僕は、この原作マンガは1巻しか読んでない。
マンガのファンが怒るのは当然としても、原作マンガのファンではない僕のような一般客まで「やれやれ」な気分にさせたのは、DVDを売る際にもまずかったように思う。観た後でファミレスで1人、お茶しながら、twitterで『進撃の巨人』で検索すると、いやはや酷評のオンパレード。
僕は、この原作マンガは1巻しか読んでない。
【関連ブログ記事】
シン・ゴジラを観て泣いた ~きみやぼくが育てる異物
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
■本の商業出版を考えている個人・法人の方は、こちら(※もうすぐ〆きります)
■会社に雇われない働き方について相談したい方は、こちら
■NPO活動に毎月20万円程度の資金を調達したいなら、こちら
共感していただけましたら、下にある小さな「ツィート」や「いいね!」をポチッと…