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■角川ドワンゴ「N高校」に決定的に足りていないもの

 1014日、学校法人角川ドワンゴ学園は閉校した沖縄県うるま市の旧伊計小中学校を活用してネット対応高校「N高等学校」を開校すると正式に発表した。
 2016年4月の開校に向け、生徒募集を開始している。
Yahoo!ニュースより)

 そこで、さっそく「N高等学校」の公式サイトを観てみた。
 僕の第一印象は、「どこが新しいの?」だった。

 プログラムを教えたり、第一線で活躍するクリエイターが講師にいたり、職業体験の授業があるなんて、他の単位制・夜間制の高校でも試みられていることだし、ネットの授業も最近では珍しいことではない。

 もちろん、実際に授業が始まってみないと、この手の話題優先の新しい学校について正当な評価基準を設けることはできない。
 それでも、運営者が何を目的としているかは、開講前に発表された公式サイトの内容によっておのずと理解できることだ。

 沖縄に通わなくてもよく、自宅で自由にネットの授業を受けられる中で高卒資格を取得できるというのも、目新しいメリットではないし、中学校まで不登校だった10代はすでに同様の高校に通っている。

 同校では、トップ画面の動画でしきりに「自分らしさ」を強調し、「ふつうの高校生になって将来はどうするの?」と不安を煽っている。

 しかし、教える側がいかにも「現時点での成功者」という有名アイコンばかりでは、未来では「過去の人」の発想になるわけで、これに飛びつくような凡庸な若者を集めたところで、ひきこもりや不登校の15歳が輝く場所にはならないんじゃないかな?


●お膳立ては教師・生徒の協働や自発的な学びを遠ざける

 僕は、自分の小学生時代と中学時代を思い出している。

 小学1年生として入学した上半期を古いマンモス校(公立)で過ごし、秋からは2クラスしかない新設の公立校に移った。
 中学1年生になった時も、上半期を古いマンモス校(公立)で過ごし、秋からは3クラスしかない新設の公立校に移った。

 古い学校に通っていた頃は、校則も、先輩からの締め付けも、大人数による競争の激化も、伝統校ならではの誇りを強いられることも、みんなイヤだった。
 でも、新しく小さな学校に移った途端、校則も、生徒会も、グラウンドも、文化祭も、何もかもが、生徒と教師の協働でゼロから作らなければならず、それが異常に面白かった。

 なにしろ歴史が無いのだから、赴任された教師たちにも先例やそれに基づくマニュアルがなく、とまどっていた。
 だから、なんでも「やってみてから考える」しか無かったのだ。
 
 大人になって、本を編集・執筆する仕事をすることになる僕にとって、このでたらめな環境がとっても居心地の良いものだった。
 残酷なイジメがあっても、先生たちは動けない。
 唯一、校長に体力を見込まれた体育教師がイジメの首謀者である生徒の家を訪れたが、ヤクザの父親と情婦の母親の前で無力を痛感して帰るしかなかった。

 だから、生徒である中学生自身がこのイジメの首謀者をなんとか無力化する仕組みを考え抜き、いろいろな試行錯誤を経て知恵を競い合い、なんとか死人や自殺者を出すのだけは避けられた。
(ちなみに、僕の中学時代は、「校内暴力・家庭内暴力」が一番ピークでひどかった時代だ。
 だからこそ、死人や自殺者が出る事態が珍しくなかったのだ)

 その体育教師はその後、別の中学校の校長先生にまで成り上がったが、赴任中に2年連続で女子生徒の自殺という悲劇を招いている。

 コミュニケーション・スタイルにおける時代の最先端事情を知っているのは、若い生徒たち自身なのに、学校側の事情やメンツ、運営の失態を最優先で考えれば、その環境についていけない生徒がひっそりと孤独の中で死んでいくだけだ。

 ドワンゴの川上さんは「不登校の子はネットをやっている。彼らを救いたい」ということも、N高校の設立の思いだと語っている。

 だとしたら、偉い人についていくだけの従来型の有名アイコンで世間知らずの生徒を釣るのではなく、むしろ有名でなくても不登校の経験者で「あれなら自分にもできそう」という「プチあこがれ」程度のアイコンを講師に迎える配慮があってもよかったのではないか?

 たとえば、以下の動画の人なんて最適だと思う。





●高校で盛んに導入されてる社会起業が無いのは時代遅れ

 不登校や高校中退などの低学歴によって低所得の職種へ導かれやすい人たちにとって、学歴・学力とは関係ない仕事を作り出す起業教育は、希望を作る選択肢の一つだ。
 だから、起業を支援することで貧困から立ち上がらせる取り組みが世界中で進んでいる。

 日本でも、経済活性化が懸念されている地域では、コミュニティデザインやソーシャルデザイン、社会起業を授業に導入する高校は続々と増えている。
 そのあたりの事情は、拙著『よのなかを変える技術』(河出書房新社)を読んでみてほしい。

 若い人材が地元で起業してくれれば、まちが活気づくし、地元の18歳がまちを出ていくことによる過疎化・高齢化の歯止めにもなる。
 だから、原発事故によって若者たちも希望を失った福島県でも、県立ふたば未来学園高等学校という新しい高校が作られ、社会的課題の解決に取り組む新しい授業が試みられ始めた。

 「○○という職種に就きたい」とか、「○○大学に行きたい」というのは、あくまでも手段である。

 その進路を選択する目的が、ただ自己実現のためだけでなく、社会的課題を解決することだと位置づけられなければ、「その子が飯が食えるようになるだけ」であり、その子に不登校やひきこもりをさせた「よのなかの仕組み」を変えることにはならない。

 それは社会に同じ課題を残し、同じ苦しみを持つ子どもたちをいつまでも客として迎え入れるビジネスを成立させるだけの場所になりかねないってこと。
 これは、教育の社会的価値を十分に考えておらず、運営者側の頭の中が高度経済成長の頃と同じように「みんなと同じになれるよ」で思考停止してしまっていることの証左だろう。

 自分らしさや個性を強調するなら、有名人になるような「成功」の基準に一元化されない仕組みが、授業の中に多様にあることを強調しなければならないはずだ。

 しかし、「N高校」には、地元・沖縄の社会的課題についても、新しい仕組みを作り出して解決する社会起業を学べる授業は無い。

 それなら、こんな大がかりなことを始めるより、大学進学のための授業はいっそ「古い」と切り捨て、AO入試対策のみに特化し、高卒認定資格試験にサクッと合格できるオンライン授業を作って、1年で全科目に合格させ、残り2年は生徒たちに他の高校では学べない「科目以外の学び」を豊かに提供すればいいだけだ。

 その方が、単位に縛られることもないし、SNSと連動させれば、不登校や高校中退の当事者・支援者が集まり、そのコミュニティ内でリアルな出会いが生まれるし、そのこと自体が豊かなキャリア教育になっていく。
 学校にこだわるより、そのほうがよっぽど民間企業のノウハウを活かせる教育の仕組みになると思うんだけど、あなたはどう思う?

 そのうち、多くの生徒の中から一部の卒業生を「成功者」だと持ち上げ、広告塔にするのだろう。
 そして、N高校でも救われなかった「その他大勢の落ちこぼれ」を放置した現実が置き去りにされるのだろう。
 ビジネスでの成功しか考えられない人たちの提供する教育とは、おそらくそれが限界なのだ。

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