Breaking News
recent

■政治や社会参加を促す主権者教育への3つの疑問

 近所の図書館に行ってみたら、入口のそばのラックに『Voters』という無料配布の小冊子があった。
 公益財団法人 明るい選挙推進協会が編集・発行しているもので、「考える主権者をめざす情報誌」というサブタイトルがついている。

 明るい選挙推進協会は、同協会のHPによると、以下の3点を目標に、全国約8万人のボランティアの方々とともに活動している団体という。

① 選挙違反のないきれいな選挙が行われること
② 有権者がこぞって投票に参加すること
③ 有権者が普段から政治と選挙に関心を持ち、候補者の人物や政見、政党の政策などを見る目を養うこと

 僕が手に取った『Voters』はNo.28で、「高校生の社会参画を考える」という一大特集が組まれていた。

 僕は教育の専門誌でも連載しているが、専門誌を見ると、「高校生の社会参画」や「シチズンシップ教育」、「主権者教育」が教育業界で旬のネタの一つになっているのがわかる。

  明るい選挙推進協会は、公式サイトで総務省が制作した動画を紹介している。
 そこでは、「主権者教育」を試み始めた全国の事例を伝えている。




 これを観た僕は、日本における「主権者教育」のありように違和感を覚えた。
 それは、「教育現場で政治的中立が守られるかどうか」という小手先の話ではない。
 主権者意識を育むうえで、もっと本質的な疑問がわいてきたのだ。
 それを以下の3点に集約して解説してみよう。

① 社会参加は、投票だけか?
② 社会的課題を解決する当事者意識なしに、主権者意識を育めるか?
③ 市民の権利を主張する文化をどう醸成するのか?




●学校は、本気で生徒の社会参加を望んでいるか?

① 社会参加は、投票だけか?

 総務省は平成23年(2011年)12月、投票率向上などを図る有識者の研究会がまとめた報告書で「主権者教育」をこう定義した。
「社会参加に必要な知識、技能、価値観を習得させる教育の中心である市民と政治との関わりを教えることを『主権者教育』と呼ぶ」
産経新聞2015年9月29日付より)

  明るい選挙推進協会は、立ち上げ当初は選挙違反の撲滅が主目的だったが、近年は投票率の低下を問題視し、投票率アップを目的にしている。
 選挙に行って投票することが、社会を変えることだと言いたいのだろう。
 しかし、市民が社会を変える手段は、投票だけではないし、政治だけでもない。
 主なものだけで、以下のような手段がある。

★仕事を通じた社会変革
 ソーシャルビジネスやCSR、商品・サービスによって社会的課題を解決する
★消費者運動
 企業社会の商品・サービス・事業の公害をなくす(例:動物実験反対、不買運動など)
★労働者運動
 労働環境の改善・基本給の増加などを訴えて、経営陣からより良い譲歩を引き出す
★行政(役所)への陳情
 日常生活での困りごとを議会へ提案や法制度に基づいて予算内で解決する
★司法(裁判)による裁定
 主に刑法・民法に基づいてトラブルを解決する
★投票行動による政治参加
 1人1票で数年に一度、国や自治体の代議士を選んで政策を実行させる

 上記の中で日常的に試みられているのは、「仕事を通じた社会変革」のみだ。
 他は、一般市民にとって非日常的にしか利用しない手段にすぎない。
 そこで、ことさら投票率を上げることに注目させるアナウンスは、他の社会参加の手段に対する関心を奪わせる恐れをはらんでいる。

② 社会的課題を解決する当事者意識なしに、主権者意識を育めるか?
 いま、小・中・高の学校で試みられている政治教育の多くは、模擬選挙やまちづくりゲームなど大人が国や地域にある社会的課題の解決策や政策を児童・生徒に考えさせ、シミュレーションとしての意見を出させるというものだ。
 シャッター通りになっている商店街の活性化のプランを高校生たちに立案させたり、若者に投票を動機づけるアイデアを出させてそのアイデアを実行させたりしている。

 しかし、そうした社会的課題は、児童・生徒があらかじめもっている問題意識の範疇にあるだろうか?
 とくに地方では、地元のまちがどうなろうと18歳で遠方の都会の学校に進学・転居したい子が多いし、小中学生の関心度の高い社会的課題はむしろべつにある。

 2009年、雑誌「プレジデントファミリー」とインターネットアンケート・サービス「gooリサーチ」が全国の中学生と高校生にアンケートをとったところ、彼らの一番の悩みは勉強だった。


 2人に1人が抱いている悩みなら、彼らにとっては切実な社会的課題である。

 2014年、ベネッセ教育総合研究所は、全国の小学4年生から中学2年生の子どもとその保護者を対象に実態調査を試みた。
 すると、「どうしても好きになれない教科があること」が一番切実な課題であることや、成績が悪いほど「上手な勉強の仕方がわからない」という課題があることも浮き彫りになった。

 これが現実なら、今日の学校教育は児童・生徒たちを必ずしも満足させていないことになる。
 実社会で労働問題やブラック企業が社会的課題として注目されるように、学校では生徒と教員との間には、すでに明確な社会的課題があるのだ。


 この等身大の社会的課題を教える側と学ぶ側が分かち合い、共に解決したいと望むなら、両者にとって当事者意識に基づいた社会変革のアクションが可能となる。

 たとえば、成績の良い子が「上手な勉強のやり方」を成績の悪い子に無理なく教えてあげられる仕組みを、生徒どうしで話し合って作り出してみてもいい。

 「どうしても好きになれない教科」でも点数を上げるコツについて、先生と生徒が議論しながら実際に試してみるのもいい。

 もちろん、前述したアンケートなどはあくまでも考察のための一資料にすぎず、現実の学校はそれぞれ地域の事情や校内の特殊性などによって異なる社会的課題を抱えているだろうから、教師たちが全校生徒と一緒に学校という社会にある課題を話し合い、切実に解決したいものに優先順位をつけ、一緒に解決に取り組めばいい。

 このように、みんなが切実に困っていること(=社会的課題)に苦しんでいる当事者として無理なく関心をもてる社会的課題を選び、その解決を自分たち自身の手で取り組もうとすれば、そのアクションをしなかった時よりも生きやすい環境を生み出せるし、解決の喜びをみんなで分かち合える。

 そうした経験なしに、いきなり「うちのまちにはこんな課題がある」とか、「わが国にはこんな政治課題がある」と提示してみせたところで、生徒も教師も最大の関心事から遠い話題にしか映らないだろう。
 そうした「非・当事者」的な主権者教育がはびこれば、社会的課題に対する無関心を温存してしまうし、「投票結果としてのダメな政治・政策は主権者である私自身の責任だ」と感じ取れるだけの政治的関心を育むことなど夢のまた夢だろう。

③ 市民の権利を主張する文化をどう醸成するのか?
 最後に致命的な疑問を提示するが、「戦後の日本に民主主義がそもそもあるのか?」という重い命題を語らないわけにはいかない。
 民主主義は、市民による対等な自治に基づき、話し合いの積み重ねによる多数決で議決するというプロセスに、コミュニティに属する人たちが合意していなければ、成立しない。

 現実の学校では、教職者は単なる「教えるという仕事」にすぎないのに、「生徒より立場が上」として尊敬することを強いられる。
 その時点で、教師と生徒は対等ではない。
 また、生徒による自治のチャンスであるはずの生徒会も、実質的には文化祭などの行事運営や部活動などの予算議決のための行政機能であって、生徒の要望を学校に対して対等に交渉できる機関ではない。

 対等な関係も、生徒による自治もない学校文化の中で、そのコミュニティに属する市民の権利を主張できる文化を醸成できるのだろうか?
 本気で民主主義や政治参加を教えるつもりなら、学校運営や教育指導のあり方、校則などを含めた教職員側の都合に対して、生徒が改善要求できる余地を学校側が作っていく他にないだろう。

 まさか、それを避けるために国や自治体の政治課題に関心を向けさせようとするのなら、「政治を自分事として考えて~」という主張は、お題目にすぎなくなる。
 政治や社会参加を真っ先に自分事として考えるべきは、教職者や校長などの学校運営者の側だ。
 とくに、公立校では、「総務省や文科省の下にある学校は自治や独立が難しい」と思考停止する大人たちによって、生徒不在のままの教育がいつまでも続けられる。
 主権者教育が、教職員自体が、教育の既得権益として振る舞ってしまっている自分自身を見直すチャンスになればいい。

 最後に、ドイツの「政治教育3原則」をリンクしておこう。


上記の記事の感想は、僕のtwitterアカウントをフォローした上で、お気軽にお寄せください。


 共感していただけましたら、下にある小さな「ツィート」「いいね!」をポチッと…

conisshow

conisshow

Powered by Blogger.