朝霧裕さんは、10万人に1人の発症率のウエルドニッヒ・ホフマン症(脊髄性進行性筋委縮症)で生まれ、「明日まで生きられない」と言われた。
だが、24時間の介助サポートと、友人たちに支えられながら生き延びてきた。
10代半ばから「介助がすべて親がかりでは親の亡き後に生きていけない」という危機感に突き当たり、22歳でさいたま市にひとり暮らしを始めた。
同時に、幼い頃からの夢だったシンガー・ソングライターになった。
発音をきれいにする基礎や少しでも息を長く出す練習をオペラ関係者に就いて4年間習い、自主制作のCDも2010年から約800枚を製作・販売した。
しかも、障害による多くの差別やいじめの体験、介護制度の不足、周囲の障害への無理解からやりたいことができないことも多かった。
それでも、この世に生まれたすべての人がやりたいことのできる社会をイメージし、
シンガー・ソングライターとして活動を続けている。
その活動が少しずつSNSやクチコミで広まり、絵画展とのコラボや創作舞踊との共演などを実現してきた。
2014年6月には、『バリアフリーのその先へ! 車いすの3・11』 (岩波書店)という本を書いた。
朝霧さんは大地震の危機の中で「災害弱者」を痛感し、東北の障害者たちの体験を聞く旅に出たのだ。
参加した脱原発デモでは、新たな差別に遭った。
「再稼働はしてほしくないから参加したのですが、『お前の車椅子は電動で電気を使ってるじゃねぇか』と言われました。
車椅子の利用者で震災時に家に取り残されたままの人も数えきれないほどいらっしゃったでしょう。
私自身も駅でエレベータが止まってしまい、ふだんからいろんな人とつながっているかがどれほど大切かがわかりました。
障がい者年金や生活保護を受給してるだけで、バッシングされたこともあります。
それでは生きていく自信もなくなっていくし、死んだ方がいいのかなと思うぐらいのいじめを体験したことも。『働けない奴は死ねば』みたいな声もあり、少しでも外につながりを作りたい。
きっかけがない人がいたら、自分もつながりたい。
『このまま家で死んでたまるか』と思って生きてきましたから」
朝霧さんの作詞した歌を、木村弓さんが歌ったのだ。
このチャリティーの収支の結果、開催費用を除く23,718円が「ふれあい福祉基金」に寄付された。
「スタッフ・出演者ともに障害の有無を一切問わないバリアフリーコンサート」として先駆け的な役割を果たしている「ゆめコン」の聴衆には、「出演者で出たい」「ボランティアで関わりたい」など、関心を外へ向けるきっかけにできた人が増えているという。
「『あの人は恵まれているからいいよね』で取り合ってもらえないこともある。
でも、歌を聞きに来て、『死ぬのをやめた』と言ってくれた子もいます。
人それぞれ誰もがいろいろな事情を抱えてるんです。
だから多様な仲間を作り、本や音楽で発信していきたい。
百万人の前でライブできるのが、一番でかい夢かな」
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