まるで僕が1997年に企画・編集した『日本一醜い親への手紙』の肉声バージョンのような告白が続いた。
しかし、虐待された当事者個人に「傷からの回復」を励ましたり、親に「虐待についての謝罪」を求めてしまうのは、どこかムリがあるように感じた。
もちろん、虐待された痛みを背負って生き続けるのはつらいことだろう。
親に謝罪を求めたい気持ちも、わからないわけじゃない。
ただ、虐待という関係を親子間だけで観てしまうと、子も親も、いつまでも救われない気がする。
当事者は、「親・子」という閉じた関係の中の愛憎劇としてしか認知できないほど、心に余裕を失っている。
虐待の被害者である子どもの方は、その余裕の無さゆえに、親にいつまでも理解を求めようとしがちだ。
虐待は、家の外へはなかなか言えない。
だから、どうしても自分を害した親にわかってほしいと望んでしまうところがある。
しかし、親の方は、「自分は子どもを傷つけた」とやましい気持ちが心の隅にあろうとも、それを認めることができない。
なぜなら、親自身が子どもの頃は、今日よりもっと子どものことなど考えない家庭環境の中で、今よりもっと理不尽な育てられ方をしたという恨みが残っているからだ。
親を恨み、その恨みで子どもを虐待し、虐待された子がまた親を恨む…。
その世代間の連鎖を、日本社会自体が構造として持っていたのだ。
●子どもを大事にできない日本という社会
戦前までの日本には「産めよ、殖やせよ」の国策があったため、7,8人の兄弟が当たり前で、1人あたりの子どもに目をかけることはなかった。
戦争に負ける70年前まで、日本には児童福祉法もなく、貧しければ売春宿や奉公などに子どもを売る家も珍しくなかった。
「子はかすがい」と呼ばれ、夫婦の絆を担保するものではあったけど、それは同時に「子どもは親に尽くすために産み育てられる、権利主張が許されない存在」であることを意味していた。
日本の歴史では、国を挙げて子どもの人権を無視してきたし、戦争に負けて民主主義になったはずなのに今日でも子どもの権利は守られず、国連の子どもの権利条約に批准してるのに何度も是正勧告を受けている始末だ。
日本に子どもを大事にする文化は育っていないし、制度も子どもを守ってはいない。
戦後復興から立ち上がり、高度経済成長を迎えると、家や車、レジャーのために「モーレツサラリーマン」をやっていた父親は家庭をかえりみず、「腹さえ満たせば文句なし」の幸せをわが子に強いることを「教育」や「しつけ」の名の下に続けていた。
現在70代になる彼らにしてみれば、戦前の飢えがなくなっただけで十分幸せなのだから、すでに豊かになった社会で生きがいを求めようとするわが子の自尊心なんて、そもそも「想定外」。
心を思いやるなんて作法を、その世代の親は自分の親から学んだことがなかったのだから。
1990年代に低成長時代に突入すると、母親も当たり前のように共働きするほかになくなり、子どもは親の手を煩わせないように「勉強しなさい」という正論の前に黙るしかなくなった。
両親が忙しくなればなるほど、子どもにとって親を心配かけないことが親孝行であると同時に、親に監視されずに自由を確保するための生存戦略だった。
だから、「良い子」の仮面をかぶり続けることで、自分自身が何をしたいのかが、次第にわからなくなったり、望んだことを親に応援されないまま、親が強いたように「食うために働く」という空虚な労働の人生に突入してしまう人もいたし、その空虚さに耐えきれず、親を裏切ることで自己責任の自由を楽しむことで、自分の人生の意味をつかんだ人も出てきた。
親が中卒・高卒だった恨みから、「とにかく大卒を目指して給与を増やすのよ」という正論を突き付けられ、勝つことばかりを求められた人生は、決して生きやすいものではない。
親は、自分の低学歴の恨みを子どもの高学歴で晴らすように、わが子へ教育投資を行った。
それは、「受験に勝つ」以上の意味を持たなかった。
だから、偏差値70を超える大学に入って、中央省庁や大企業で働けるようになっても、社会に蔓延していった生きづらさに対して、その優秀さは発揮されることが無いままだ。
モーレツサラリーマンを父に持ち、専業主婦を母に持って育った人が親になると、自分の親がそうであったように、「自分だけ幸せになれれば十分。勉強で負けた人のことなんて知らないよ」というわけだ。
当然、児童福祉に予算は今なお十分に割かれないし、虐待の相談件数は増え続けるばかり。
●親を許す必要はない。ただ黙って立ち去るのみ
親にとっての「良い子、上司にとっての「良い子、世間にとっての「良い子」。
そうした欺瞞に満ちた人生をやめ、「不良」になることができなかった親の恨みは、彼らの親(=子どもから見れば祖父母)に対して果たせなかったものだ。
そうなれば、どんなに不当な虐待でも、ガマンすることが生存戦略になってしまう。
不当なガマンを続けることが生存戦略だと信じてる人は、自分がわが子にやってしまった虐待も「やむを得なかったこと」だと認知している。
それは、「私だって親にされたんだからお前がされても文句を言うな」という居直りだ。
子どもを大事にする文化が家の外にも中にも無かったのだから、わが子と対等な関係で話し合うことに意味など感じない。
常に上から目線で支配的に振る舞うことが、虐待する親自身の生存戦略であり、自尊心を保つものなのだから、子どもにどう思われようと、反省などしないし、心からの謝罪なんてありえない。
虐待する親自身が、自分の親から謝罪なんてされたことなどないし、不当なガマンが基本的な作法になってしまえば、謝罪を求めることを発想すらしないまま今日に至っているといえるだろう。
それは同時に、虐待される子どもの方が豊かな時代の中で「自尊心を守る」とか「自分の置かれた状況を正確に読み取る」とか、「自分の傷に向き合う」という余裕を獲得していることでもある。
余裕のなかった毒親が年老いてゆき、ただでさえ子どもと比べて知識が無いのにどんどん時代遅れになってしまうのと反比例する形で、子どもの側は余裕ゆえに知識を増やし、時代の風を吸収して学んでいく。
そうなれば、親子間の文化の溝は深まるばかり。
子ども側が、毒親の事情に気づいたり、許してあげようなどと思っても、毒親はそのことを理解できないまま、昔通りの不当なガマンにしがみつきながら認知症になっていく。
社会の仕組みや時代状況を背負ったまま毒親にしかなれなかった人を許そうとすれば、子ども側は「わかりあえなさ」を受け入れる痛みに耐えていくしかない。
その痛みを引き受けつつ、誰かを虐待させるよのなかの仕組みを取り除き、次世代に同じ不当なガマンを引き継がせないようにするしかない。
どんな事情があろうと、子どもを虐待する正当な理由にはならない。
しかし、子どもを虐待する親には、避けようもなく虐待された(=大事にされなかった)生い立ちがあり、そうした育ちを強いた日本社会や時代状況があったことは覚えておきたい。
虐待は、個人の性格や属性、能力によってのみ起こるものではない。
個人を虐待へ追いつめる家庭環境や時代状況、国の文化といった社会的な要因があるのだ。
それが理解できれば、いつまでも親に理解や承認を求めても、自分が上滑りするばかりだと気づくだろう。
そのことの重要性をふまえるなら、虐待やそのトラウマからの回復には、親元からできるだけ離れることが突破口になることも理解できるはずだ。
家出してもいいし、世帯分離して生活保護を受給してもいいし、ネットで出会った人の家に転がり込んでもいいし、連帯保証人が不要のシェアハウスやUR賃貸などに引っ越してしまってもいい。
とにかく一刻でも早く親元から離れれば、自分がどれだけ家の中で窒息していたのかにピンとくるはずだ。
僕自身、10代までを過ごしていた親元では、ひどい神経性の下痢に悩まされていた。
ところが、単身上京した途端、その症状はピタリと治ってしまった。
不当なガマンは、するもんじゃない。
それは、やがて自分自身の人生をつまらなくさせるばかりでない。
やがて出会うわが子への虐待を準備してしまうかもしれないし、「こんな仕事、よくない」と思いながらも社会悪のような職場にしがみつくような愚かさを続ける人生を自分で作ることになりかねないのだから。
親のようになりたくないなら、親元から離れよう。
そこで初めて人は、誰かにとって代わることのできない「自分の人生」を獲得できるのだろう。
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