昔の銀座の店には、「特攻」というものがあった。
セックスワークにくわしい人なら、ご存知だろう。
伯母の生まれ育った平屋は、一つの屋根の下に2つの血縁ではない家族が住んでいた。
彼女の父はアルコール依存症で、働かなかった。
彼女の母はよく働き、家計を支えた。
彼女の弟(=僕の父)は、近所の寺のさい銭をよく「借りた」と子どもの頃を述懐していた。
つまり、貧乏だったのだ。
昭和30年代(1955年~)まで、こうした家は珍しくなかった。
伯母は、18歳でオートレースのもぎりの仕事をしていた。
当時、流行っていたバイクのギャンブル場で車券を売っていたのだ。
そのバイクレースに、スター・レーサーがいた。
レーシング・ドライバーの田中健二郎だ。
この名前にピンとくる人は、レース好きだろう。
田中は、あのHONDAを一躍、世界的に有名なメーカーにした伝説のレーサーなのだから。
僕の伯母が20歳だった頃、田中は彼女に惚れて、結婚した。
しかし、ヤクザにはめられ、八百長疑惑でオートレース界から追放された。
意気消沈だった彼に手を差し伸べたのは、バイクで世界に打って出たいという野心を持っていたHONDAだった。
HONDAは、怖いもの知らずの走りを見せる田中に賭けたのだ。
そして、自信を持って開発したバイクに田中を乗せ、1960年、ホンダワークスライダーとしてロードレース世界選手権(世界GP)にデビューさせた。
田中は西ドイツGP(ゾリチュード)250ccクラスに出場し、世界GP初出場で3位に入賞した。
日本人として初、ホンダとしても初の世界GP表彰台(3位以内入賞)だった。
これは、wikipediaにも載っているし、HONDAの社史にも載っている。
HONDAはこの快挙によって、世界にバイクを売り出す大きなチャンスをつかんだのだ。
世界GPに同行した伯母も、誇らしかったに違いない。
しかし、田中は、西ドイツGPの直後のアルスターPGで転倒し、足に重傷を負い、長期療養を余儀なくされた。
これがきっかけでレーシングライダーとしては引退。
その後、田中は四輪に転向し、1964年、日産自動車のブルーバードで第2回日本グランプリに出場し、クラス優勝した。
僕の父によると、当時の田中の私生活はかなり荒れていたようだ。
伯母は田中と離婚し、その後、高橋という男と再婚した。
それも続かず、マンションから男だけ消えていった。
一人娘のいた伯母は、シングルマザーとして働かなければならなかった。
美しかった伯母は、美貌を活かして銀座の女になった。
やがて彼女は、中野駅前に自分の店を持った。
三下のヤクザが店をめちゃくちゃに荒らしても、「私は女手一つでここまでやってきたんだ」と言い放つ気丈な人だった。
そのうち、ヤクザの組長と、中野警察学校のお偉いさんがL字カウンターを囲む、なんとも面白いメンツのBARになっていった。
1985年に上京した僕は、食えなくなると伯母の店で食わせてもらっていたものだ。
伯母は、本当にやさしい人だった。
「おまえなんかにできるわけがない」が口癖の実の親よりも、伯母の言葉の方が心に沁みた。
タバコの煙をくゆらせながら、横顔で彼女は言っていたものだ。
「おまえなら、できるよ」
「おまえなら、似合うよ」
僕は、伯母の言葉で生きながらえてきたようなものだ。
そんな伯母は、娘が成人した後、店を畳み、常連客だった男と再婚した。
そして、がんで亡くなった。
慶應病院の個室病棟にいる伯母を見舞った際、やせ衰えた姿を見て、言葉が出なかった。
娘は今、常連客の男の家で子どもたちを育てている。
●生きづらい仕組みを作った人たちに落とし前をつけてもらおう
伯母の人生を「不幸だった」と言うのは、カンタンかもしれない。
しかし、いざという時はきっちりと落とし前をつけてきたように思う。
他人や世間がどう思おうと、生きて自分の役目を果たさなきゃいけない。
そのためには、少ない選択肢の中でも、自分のやれることは果たさなきゃいけない。
そういうことを、伯母は教えてくれたのだ。
もちろん、彼女に学があれば、もっと選択肢は広がったかもしれない。
だが、教育投資は、生い立ちや家庭環境、親の所得などを考えれば、望むことさえかなわなかっただろう。
それでも、誰もが大人になってしまう。
そこで、「もっと上を目指せ」とばかり言われても、なんともいえない気持ちを持て余すばかりだ。
そういう人生を生きてきた人は、伯母だけじゃない。
21世紀の今日、世界中にいる。
ワシントン(CNN) 国連の「持続可能な開発ソリューション・ネットワーク」が発表した「世界幸福度ランキング(調査対象は158ヵ国)」の2015年度版の調査報告書によると、ベスト10に先進国がほとんど入ってない。
アメリカですら15位、日本は46位だ。
北欧や南半球の国が上位に食い込んでくる反面、何かあるとすぐ戦争や戦闘を提案する先進国が入ってこない。
大学で学んだ人たちが、官僚や政治家、大企業のサラリーマン、学者などになっているのに、このていたらくは一体なんなのか?
先進国の大卒者による社会設計には、決定的に間違いがあることの証左だろう。
彼らが作る社会の仕組みは、政治による法制度はもちろん、社内規定や常識、慣習、差別など民間の仕組みもある。
そうした仕組みを変えないかぎり、幸せな環境は生まれない。
とくに、下流化する中流資産層以下の人々の暮らしは良くならない。
大卒者が高卒以下の市民の文化を知ろうとしないかぎり、貧困と格差の再生産は終わらないのだ。
僕は、こういうことを高校時代までに嫌というほど痛感していた。
そして、高卒でもまともに食える手段が少なからずあることも早くから発見していたし、その仕組みを普及させるためには、どうしても大卒者の文化を知る必要があるので、大学にも進学したが、どうにもいたたまれなかった。
そして、新入生歓迎講演会で野坂昭如さんが放った言葉に背中を押され、大学を去った。
彼はこう言ったのだ。
「物書きになりたいなら、今すぐやめろ。
こんなところにいても、なれやしない。
俺も入ってすぐ行かなくなった。
直木賞をとった後に、大学の方から『卒業したことにしてくれ』と言われた。
大学なんて、そんなもんだ」
大学のブランドにオーソライズされる人生でなく、自分自身の人生に価値を持て、と聞こえた。
僕は今も賞には無縁だが、僕の本を赤ペンで真っ赤になるまで使ってくれる読者がいる。
それこそが、僕の誇りだ。
50歳になった今も、伯母の声は僕の中で生きている。
僕にはまだ、できることがありそうだ。
「おまえなんかにできるわけがない」と言い続ける70代後半の両親と2年前から同居しているが、およそ覇気というものがないこの家の空気に負けず、「ふざけんな、ばかやろう」という気概で、ワクワクをふりまいてやろう。
僕を物書きの道に導いた野坂さんも、もういない。
でも、何もなくてもワクワクできる人生こそが、僕の生きる証。
伯母の分まで、きっちりワクワクの人生を送ってやる。
今もちゃんと聞こえる。
「おまえなら、できるよ」
「おまえなら、似合うよ」
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