■『エロは地球を救う!』のたった一つの残念な件
「おっぱいを揉ませて募金なんて」と一笑に付すだけの人たちは、もう少し考えてみてほしい。
「おっぱい募金」を含め、『24時間テレビ エロは地球を救う!』というテレビ番組によるチャリティ・キャンペーンは、2002年から 12 年も続けられ、12 年間で募金総額は 3,350 万円を超え、エイズ予防財団へ毎年全額を寄付してきた。
年々深刻化しているエイズの予防のために、より多くのお金が集まる仕掛けや、そのための話題作りのキャンペーンを張るのは当然だ。
「おっぱい募金」に参加したAV女優たちは、おっぱいを揉んでくれた募金者や、この企画を運営しているスタッフなどに感謝している。
そこで、中止を求める声が出てくるのは、なぜなのか?
「自分の娘がやっていたら、とか、息子がそこにお金を握りしめて行ったら、と思うだけで、身の毛がよだちます」という意見もあった。
そうすると、子どもの立場では、親に隠れておっぱいを揉ませたり、募金したりしなくちゃならなくなる。
これって、何かに似てる。
そうだ。
無店舗型風俗(デリバリーヘルス)の誕生だ。
「善良な市民」の目に触れるところに店舗型のソープランドやピンサロなどの風俗店を置くな、という声によって法律が変わり、無店舗型が誕生した。
こうなると、娘や息子が風俗で働いていても、まずわからない。
つまり、「善良な市民」は、子どもたちを自分たちの目の届かない世界へ追いやったのだ。
実は、性に関する寄付やビジネス、文化においては、自分の価値基準とは異なる文化圏の人たちと付き合いもしないうちに、「良かれと思って」正義の旗を振りかざす人たちがいる。
その正義を行使することにためらいがないことが、僕にはとても恐ろしい。
社会に健全化を求める声は、支持されやすい分だけ、権力的・支配的になり、社会をより複雑化し、生きにくい空気を醸成していくからだ。
「おっぱい募金」https://t.co/Q9ngfDiUYiの中止を求めるネット署名 https://t.co/Hr6ZIJK0LU の署名の本質は、当事者の自己決定権を無視した価値観の押しつけです。この署名への賛同者が、選択的夫婦別姓導入反対派を批判することは矛盾します。
— 山口貴士 (@otakulawyer) 2015, 12月 12
●広告に洗脳されたまま、性産業に目を奪われる愚かさ
「AV女優や風俗嬢などのセックスワーカーは貧困ゆえにそれをやっている」という文脈に目を奪われてしまう人は、今日では珍しくない。
そこで、「セックスワークでは女性は搾取されている」というイメージが一人歩きしてしまうことになる。
派遣業の方がとんでもないビジネスなのに、性がからんだ仕事の方がことさら問題視される。
これが大手広告代理店と大資本によって文脈誘導されている現実なのに、派遣会社の美しいテレビCMと、風俗やAVの雑誌の表現を比べて、イメージに煽られた文脈を鵜呑みにする人たちが少なからずいるのだ。
性にまつわる仕事へのマイナスイメージは、「それ以外の仕事」を肯定するのに利用されている。
「原発は安全です」と東電が巨額な広告費を払って宣伝したきた結果、福島原発の事故を導いたことを、僕ら日本人は忘れてはならないだろう。
僕自身、20代は広告業界にいたので、広告が作る文脈を鵜呑みにする市民が珍しくないことを、本当に残念に思う。
もっとも、セックスワークに限らず、人身売買のリスクはどこにでもある。
北朝鮮の拉致にせよ、孤児の売買にせよ、人身売買はセックスワークの現場に特化したものではないことを知る方が、多くの人の関心を喚起できるはずだ。
同時に、貧困によって選ばれる職種には、介護や飲み屋などさまざまなものがあり、風俗やAVはその一つにすぎず、代表されるものではない。
むしろ、介護業界はほぼブラックであることは、中村淳彦さんの書いた『崩壊する介護現場』(ベスト新書)などの仕事でかなり明らかになってきた。
僕も、友人や身内が介護職なので、十分に納得できる。
つまり、介護でもその他の仕事でも食えなければ、風俗だろうが、AV女優だろうが、自分のできることで食い扶持を求めていかないと、まともな暮らしが送れない人たちが増えているのだ。
それでも、どんな職種を選ぶかは、憲法で職業選択の自由が保障されている日本では、誰にとっても自由だ。
その自由に伴う責任は、どんな人にも突き付けられている。
なのに、性にまつわる仕事は、一部の人たちに嫌われやすいのだ。
しかし、性がからんだ事業は、その人の社会性の度量を確かめる踏み絵である。
●私の幸せは、私に決めさせて
社会貢献シーンにも、そういう「意識高い系」が少なからずいる。
彼らは、「性=下品」とか、「前科者=友人にはいらない」とか、「風俗嬢は身内にいらない」とか、そういう言動を平気でとる。
その割に、ダイバーシティ(多様性)やソーシャルインクルージョン(社会的包摂)の学術イベントに足を運んで、何かを学んだつもりになっているのだから、自分の頭でものを考える力が無いのだ。
深く考えなくても、既存の社会の仕組みに乗っていれば、彼らは幸せのままでいられるからだ。
だから、自分とは異なる中卒・高卒の低学歴ヤンキー文化を知ろうともしないし、異なる文化へのリスペクトも乏しいし、「品がない」と忌み嫌う。
今日の日本では、親の所得と子どもの学歴は完全に比例している。
つまり、貧しい家に生まれた子は、教育投資を存分にかけられた子には、学力ではなかなか勝てない。
勝てないどころか、貧しい家には「学ぶことによって今より高い所得を目指す」という文化がない。
マイルドヤンキーがそうであるように、近所のファミレスなどの安い遊びか一点突破の趣味に金を使い、家族でまったりするのが幸せなのだ。
だから、その程度の消費すらできない低所得になれば、たちまち貧困化する。
貧困化すれば、モラルや世間体などに、かまっていられない。
今日を生きる金をつかむために、選択肢の乏しい中で自分ができることをやるしかないのだ。
では、そのように教育投資に恵まれない低所得の家の子には低学歴しか与えないという仕組みを作ったのは誰か?
官僚や大企業・広告代理店などで働く高学歴のインテリさんたちだ。
高学歴インテリ文化で幸せな人は、低学歴ヤンキー文化で幸せな人との価値基準の違いをまず認識し、自分たちの価値基準で違い文化圏の人を査定するような「上から目線」での同情や非難をしないよう自戒してほしい。
高学歴インテリ文化の人は、低学歴ヤンキー文化がもつ生々しい暴力よりはるかに強い権力を持ち出してくる。
それは、社会の仕組みを作るという権力であり、その同調圧力は、とてつもなく恐ろしい。
俺がお前を「かわいそう」と思ってるんだから、お前がお前自身を「かわいそう」と思ってなくても構わない、なんてことが大きな声になって正当化されるってことだしね。
俺がお前を「かわいそう」と思ってるんだから、お前がお前自身を「かわいそう」と思ってなくても構わない、なんてことが大きな声になって正当化されるってことだしね。
あなたが大卒以上で、お金に余裕がある(=下流化の恐れがない)中流資産層の出身なら、さらなる教育投資によって富裕層を目指せるかもしれない。
そういう人生も幸せだろう。
しかし、そうじゃない人生にも、幸せはある。
富裕層によるトリクルダウンが幻想だったように、中流資産層以上の超高学歴層の人たちは、自分より資産が少ない層、とくに底辺を生きる貧困層に対する関心が乏しいことを自覚できてない。
しかし、そうじゃない人生にも、幸せはある。
富裕層によるトリクルダウンが幻想だったように、中流資産層以上の超高学歴層の人たちは、自分より資産が少ない層、とくに底辺を生きる貧困層に対する関心が乏しいことを自覚できてない。
彼らは「自分たちは高学歴になって高所得になれたのだから、お前もその仕組みで這い上がれ」という考えから一歩も踏み外さない。
だから、「貧しいからAV女優や風俗嬢をやってるんだろ」という偏見を平気で持てる。
「やりたいからやってる」と言っても、信じない。
出版業界も斜陽化し、ライターなんて食っていけないが、それでも僕は「やりたいからやってる」。
金だけではない魅力や価値を感じて、職種や仕事を選びたいからだ。
たとえAV女優が貧困ゆえの選択だったとしても、「貧しい家の子は貧しい仕事にしか就けない」という仕組みを、高学歴インテリ文化を生きる人たちは作り直してくれるだろうか?
そうした疑問を持つ一方、金も学力も職歴も経験も乏しい人たちと一緒に汗を流し、どんなにダメな人間でも共にこの社会に生きられる仕組みを新たに作り上げようとしている人たちがいるのも、僕は知っている。
社会起業家だ。
だから、僕は彼らのソーシャルビジネスを取材し、安い執筆ギャラでも書き続けているのだ。
高学歴インテリ文化を生きる雑誌編集者にも、ソーシャルビジネスこそが自分たちの職場や業界を救うことに早く気づいてほしいものだ。
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