1980年代初めからコメの栽培技術「畑苗移植栽培」を中国・黒龍江省に伝えた北海道・岩見沢出身の農業技術者・原正市さんの中国における足跡を追ったものだ。
畑苗移植栽培とは、畑で苗を育て、それを水田に移植する技術だ。
それまで直接水田に種を蒔き、天候に左右されやすかった黒龍江省のコメの生産高は、原さんが62歳で指導に入ってから8年後の1990年には、それまでの5倍の234万トンになった。
原さんは21年に渡って30の省と地区を回り、中国全土にこの技術を普及させ、国家からも表彰され、銅像まで作られるという偉業を成した。
北海道・中国交流デジタル資料館によると、1992年には、中国の社会開発、経済、科学技術、教育、文化などの発展に貢献した外国人に与えられる最高の賞である『中国国家友誼賞』と、李鵬首相からの『栄誉証』が贈られた。
1998年には初来日した江沢民国家主席は、天皇皇后両陛下との会見や日中首脳会談などの公式行事を終えたあと、原さんと笑顔でがっちりと握手をした。
昨年(2014年)の中文導報にも原さんに関する記事が発表されるほど、中国人は原さんの偉業を忘れていない。
番組では、東大で保管されていた45冊に上る父の日記を元に中国を訪ねた原さんの長男の見聞について紹介していた。
最初に父が入った村は当時、泥水にあふれた水田で、雨ならジープも走れず、風呂もなく、雑巾と布巾が同じで衛生状態も悪く、赤痢にもかかり、生きるか死ぬかで苦しんだり、日本人だからと地元の農家に信用されずに傷心したこともあったと、知った。
それでも、「中国の母は日本人の残留孤児を育ててくれた。だから恩返しがしたい」と原さんは孤軍奮闘を続けていった。
収穫の秋、村人は満面の笑顔を見せた。
原さんの一番弟子だった老人は、「あの人が私たちに幸せをもたらしてくれました」と涙ぐみながら述懐した。
長男は、その土地に父の遺言どおり分骨した。
原さんは、残念ながら2002年に85歳でがんで亡くなってしまったが、国家レベルの思惑がどうあれ、彼が人類の食糧確保に大きな成果を残したのは事実だ。
こうした原さんの業績については、『中国で尊敬される日本人たち 』(朱建榮 ・著/中経出版)や、『中国変容論 -食の基盤と環境』(元木靖・著/海青社)などの書籍でも紹介されている。
そんな彼を多くの日本人が知らずにいることがじれったい。
素直にこの番組を制作した北海道テレビに拍手を送ろう。
こういう番組を見ると、60歳を過ぎてもなお現役を張ろうと現場にしがみついている団塊の世代が醜く映る。
現場は若い世代に譲り、原さんのように自分の技術がもっと活かせる世界へ雄飛してほしい。
それが、非戦を導く民間人の生きざまだと思うから。
それが、非戦を導く民間人の生きざまだと思うから。
とくにテレビ界や政界は、あまりにも既得権益者が多すぎて画面がむさくるしいのだから、率先して手本を示してほしいものだ。
なお、中国から日本に来て、日本の良さを日中両国に伝えてくれた番組については、このブログ記事(←クリック)で書いているので、読んでみてほしい。
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