家族の中で彼女だけが好きな刺し身や天ぷらばかりを買ってくる。
しかし、「もう何ヶ月も食べてないでしょ」とうそぶくのだから、もう誰もツッコミを入れない。
母は、自分の年金を何にいくら使ったかすら覚えられないのだ。
人生で40年以上も専業主婦をしていた母は、収入を増やしたり、収入手段を作り出す必要が無かった。
年金生活も、入金額面が決まっているのだから、気がつけば、食費が足りなくなってくる。
もっとも、食費はもちろん、光熱費などの公共料金、固定資産税など「家」に関わることはすべて母の年金に任せ、父は社交ダンスなどの外遊びや車のガソリン代などの遊興費に使う始末。
これは彼ら夫婦のお金の取り扱い方なのだが、僕は子どもの頃から不思議だった。
なぜ彼らは「お金がない」とは言うものの、子どもの僕に収支を公開しないのか、と。
僕自身は、19歳で家を出るまで小遣い制で、バイト一つ許可されなかったので、買ってもらった参考書や問題などをきれいに使っては、友人たちにタンカ売(ばい)していた。
タダで仕入れて横流しするわけだから、いい商売だ。
その金で親の知らないところで遊興費を稼ぎ出しては、いろんな同世代とお茶したり、煙草を吸っては面白い話にありつくのが僕の中高生時代だった。
もっとも、転売の知恵は、べつに本を読んで知ったわけではない。
僕に「勉強を教えてくれ」と人懐こく寄ってきたヤンキー仲間が、レコードやマンガ、流行の服などを仲間うちで売買していたのを真似たのだ。
30年以上前の1970年代の当時は、田舎町にリサイクルショップなど無かったし、もちろんヤフオクも無かったからだ。
ヤンキーたちのそうした知恵は彼らにとっての生存戦略であり、僕の親より貧しい家に育っていた彼らが僕に払う授業料のようなものだった。
もっとも、そうした知恵を僕自身が必要としていたのは、あくまでも両親の収支がわからなかったからだ。
もし両親が子どもと一緒に自分たちの収支の数字を分ち合い、みんなが対等な発言権で「家」の経営をマネジメントしていく気風があったなら、子どもなりに節約にも敏感になっただろう。
僕自身は自分の収支については小遣い帳をつけていたし、個人の預金口座も持っていたから、親に金を出すこともマジメに考えたかもしれない。
しかし、子どもの頃に極度の貧乏育ちだった父は、僕を学校での勉強にだけ集中させようとし、父自身のサラリーマンの給与内で妻子を養う責任を一人で背負おうとしていた。
だから、僕は発言権のない家の中で不自由を感じるばかりだったり、およそ「話し合い」を持とうとしないままの父にあきれていたので、とにかく家から離れる必要を感じていたものだ。
今日では、「なかよし親子」なんて言葉があるそうで、10代で起業家になる子どもも珍しくなくなったほど、一部では「お金を稼ぐ」ことの大事さを親自身が理解し、学歴以上に「稼ぐ力」を子どもに身につけさせる家庭も増えてきた。
グローバル経済が前提となり、国内外でものを売るのが当たり前になってゆく時代では、国際的なランキングで上位に入らない日本の大学で学歴を得たところで、キャリアとしてはもちろん、ビジネススキルやビジネスセンスの点では屁のつっぱりにもならない。
しかし、それをちゃんと理解し、「稼ぐ力」を実践から学ぶことを応援する親が登場してきたことは、それだけ日本が「豊か」になった証拠だ。
ただ、稼ぐ以前に、「自分が当たり前に暮らすためのコスト」や「子育てのためのコスト」などを親が子どもに教えないのは、やはり、いろいろおかしいのではないか?
せめて、子どもが小学生高学年にあがる前に、『学校では教えてくれない大切なこと 3お金のこと』(旺文社)みたいな本を親子で一緒に読むチャンスを作ってもいいのでは?
●政治的無関心を温存してるのは、子どもに金の話をしない親
僕自身、上京してしばらくは家計簿をつけていた。
そうすれば、食事はなんとか自分で作るように努力するようになるし、誰に説教されなくても水や電気の消費量が気になるようになるので、遊興費や衣類費などにいくら時間とお金をかければ「リーズナブル」なのかを見積もる習慣も生まれていった。
しかし、学校を卒業しても、実家から通勤している人の中には、いくらかのお金を家に入れても、家族全体の暮らしの収支の数字を知らない人は珍しくないだろう。
家計がリスキーなのか、余裕があるのかも確かめられない状態で、「家族の絆」とか「運命共同体」なんて成り立つだろうか?
少なくとも、リスクを共有できなければ、一緒に金を作り出す仲間意識も生まれにくい。
これは、家族だけでなく、企業も、NPOも、国家も同じだ。
実際、自分の家族の収支がわからないままだと、自分の勤務先の収支にも関心を持たなくなるかもしれないし、日本政府の財政についても収支に関心を持たなくなるかもしれない。
そうなると、自分たちが支払う税金で運営される政府に対して、「あれもやれ!」「これもやれ!」と要求するばかりで、それが歳出としてどんどん計上されていく。
税収不足のままで歳出が増えれば、歳入不足の数字も増えるため、「あれをしろよ!」「これもしろよ!」と政府に迫れば迫るほど、増税や借金という形で自分や自分より貧しい人たちの暮らしを圧迫する要因になることにもピンとこなくなるのでは?
実際、青臭い正論だけで政府に反対意見を主張する「オールド左翼」のおじいさんたちや、そのおじいさんたちに応援されてる高校生や大学生のデモを見ていると、彼ら自身がいたずらに歳出を増やすことばかりを要求し、増税や借金をしなくても税収(歳入)を増やせる仕組みを考え抜こうとしない構えにウンザリしてくる。
現実的な対案を出さずにキレイゴトだけを言うのは、結果的に社会と弱者にとって有害だ。
キレイゴトを言う以上は、そのキレイゴトを実現できた成功事例を示す必要がある。
その成功事例とは、同じ量のお金でより効率的かつ効果的に社会的課題を解決できる仕組みの実際の例こと。
今日、そうした成功事例を作り出しているのは、社会起業家たちである。
官僚や政治家、既存の企業が作り、温存してきた社会的課題に対して、解決できる新たな仕組みを作り出し、その活動にかかる費用を自前の事業で作り出す社会起業家は、世界中で急増しており、「社会を変える仕事」をしている。
社会を変えるお金は、自分たちの毎日の仕事によって作り出す事業収益で賄う。
だからこそ彼らは、生きにくいよのなかの仕組みを塗り替えられるのだ。
社会起業家については、中高生向けにわかりやすく書いた『よのなかを変える技術』(河出書房新社)を読んでみてほしい。
昨今では、この本をソーシャルデザインの副教材として大量購入する中学・高校・大学・専門学校の教員も増えている。
社会起業家の素晴らしい仕事ぶりを見ていると、家庭を維持するお金のことについて「そんなこと気にしなくていいから勉強だけがんばって!」という一見正しそうに聞こえる子育てが、政治的無関心を培養し、理念だけで社会が変えられるかのような”根性主義”を温存してしまう恐れを感じる。
資本主義社会では、衣食住はもちろん、何をするにもお金がかかる。
だからこそ、何にどれくらいのお金をかければ納得できるのか、その納得できるだけの支出額面をどうやって稼ぎ出すのかを考えないわけにはいかない。
つまり、自分にとって本当に必要な支出と収入の数字をきちんと理解し、必要な分だけの労働ができるような労働スタイルを設計しないかぎり、納得できる人生なんていつまでも作れないのだ。
それを思う時、家族を維持させるのにどれだけの金が出入りしているのかについて、せめて家の中で情報公開をし、数字を分ち合って親子・夫婦で話し合える方がいい。
そうすれば、一家心中のような破綻を早めに避けられるし、みんなで勇気を出して家の外にあるさまざまな支援をとりつけることもできる。
自殺や心中にまで追い詰められているなら、いざ公的支援が受けられない場合は、民間から借金して踏み倒してもいいじゃないか。
貧困化は犯罪発生率を高めるから、犯罪者になりたくないなら、自己破産を覚悟して金を借り、人生をやり直すチャンスをつかむしかない時だってある。
それを思えば、裕福な家庭に育つ人も、自分たちの資産額の社会的意味を共有しないまま、自分たちの家族だけが幸せでいたところで安全・安心の社会が作れないことにピンとくるだろう。
税収アップの仕組みを考え、作れなければ、どんな福祉予算も増税と借金を増やすだけのコストにしかならない。
金の裏付けがないままキレイゴトを主張するのは、ただの政治ヲタであり、本質的には「政治的無関心」にすぎないだろう。
さて、あなたはわが子に「わが家の収支」を教える?
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