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■すべての本は、誰かにとって「不快」である

 駿台予備校の講師が書いた漢字の問題集『生きるセンター漢字・小説語(駿台文庫)に、「性的な表現が含まれている」と保護者から指摘があった。
 版元の駿河台学園は、「不愉快に感じた方がいればお詫び申し上げたい」と改訂版を出す際に内容を見直す方針を発表。
 すると、その報道を読んだ人たちがネット上に批判の声をあげ始め、同社は問題集の販売停止と書店の在庫回収を決めた。

 この騒動については、すでにこのブログ記事(←クリック)で詳細を書いた。
 しかし、問題集が販売停止と自主回収にしたことで、批判の声が沈静化していくのを見ると、批判していた人たちは、やはり根本的に間違えていると思わざるをえない。

 特定の誰かの批判が巻き起こった本は、早めに市場から無くせばいいのか?
 これを考えるうえで参考になる先例の一つは、1993年の発売以来、100万部を超えるベストセラーになって売れ続けている『完全自殺マニュアル』(鶴見済・著/太田出版)だろう。

 タイトル通り、自殺の方法が具体的に書かれている本で、発売当初は「有害図書」として指定すべきかどうかが議論になった。
 そこで、版元の太田出版は18歳未満の方の購入はご遠慮願います」と書かれた帯を付け、立ち読みさせない様、ビニールパックをして販売を続けた。

 そして、今日ではAmazonなどオンラインショップで誰もが自由に買えるようになっている。
 なぜ、自殺の方法をたくさん書いた本が20年以上もの長い期間、売れ続けているのか?

 それは、「この本によって自殺をためらうことができる」と期待する読者候補の人たちが少なからずいて、実際に自殺抑止効果が高いために、自殺志願の読者が死ななくなるからだ。

 100万人以上が読んでいて、1%に相当する1万人がこの本で自殺してしまったなら、自殺を増やす本として出版行為が社会問題を作ったことになるかもしれない。
 しかし、そんな現実は生まれなかった。
 日本の自殺率はほぼ横ばいを続け、人口減少と少子化で自殺者の実数は微減しているのだ。
 『完全自殺マニュアル』の自殺抑止効果を検証する価値はあるし、少なくとも内閣府の10年以上に及ぶ自殺対策予算よりも、はるかに費用対効果の良い自殺防止アイテムであることは間違いない。

 有害図書に指定し、販売を規制したがった人たちは、何を根拠にこの本を恐れていたのか?
 自殺の方法がシェアされたからといって、それは自殺を根本的に動機づけるものではない。
 自殺の方法を知る前から「自殺を動機づけている何か」はあり、その「何か」を取りのぞかないかぎり、本に載っていようといまいと、何らかの方法で自殺を試みるだけだ。

 今回、漢字問題集に「性的な表現が含まれている」からといって、そのこと自体が何らかの悪影響を読者にもたらすだろうか?
 読者は受験生であり、合格のために自分が知識を記憶しやすい親しみやすさを求めて、セクシーな表現を選んだだけだ。
 日本の歴史をマンガやゲームで学ぶ方が頭に入る人もいるだろうし、エッチな英語表現を読むところから覚えにくい英語文法を学びたい人もいるだろう。

 自分が学びやすい方法を優先的に選びたい受験生のニーズはそれぞれ違うのに、「性的な表現」だけを問題視するとしたら、それは保護者による過保護としか言いようが無い。
 その保護者も若い頃は、21世紀の今日の基準から言えばジェンダーバイアスのかかった表現の多い教材を読まされていたことで多くを学んだだろうし、文学や歴史などを学ぶたびに猥雑な性表現にも触れて、そこから自分自身の恋愛やセックスを予習したはずだ。

 もちろん、よのなかには、セックスも恋愛もしない自由を行使したい方や、性行為に至るまで一切の性表現を避けたい方もいるだろう。
 だからといって、その人はその人自身の子どもの行動を不当に制限し、支配していいわけではない。
 大学受験生になるのは、18歳以上だ。
 彼らが性に関心があるのは極めて健全だろうし、選択や判断を間違うことで新たな学びを得るチャンスを許されていい存在だとも、僕は思う。

 その失敗から学ぶチャンスを「うちの子が傷ついたり、間違いを覚えるのは耐えられない」なんて先回りして手を打とうとすれば、早めにたくさんの失敗をして失敗に慣れることで失敗が怖くなくなる「耐性」を身につけるチャンスを奪うことになる。

 耐性の乏しい大人になれば、小さなことでいちいち傷ついたり、自意識が肥大化して自分がよく知らないことまで平気で査定したがるような評論家気取りになりかねない。
 つまり、親が先回りして「保護」しようとすれば、その子は自分自身の人生を自分で決める覚悟も経験も能力も奪われて育つことになるのだ。
 言ってみれば、過保護は、親の奴隷、世間の奴隷、会社の奴隷を育ててしまうようなもの。

 それが親子間で完結していれば、家の中の騒動で済むかもしれない。
 しかし、出版社や出版物を批判し、その声をネット上で拡散すれば、版元の会社の中には、該当する出版物を絶版にするところも出てくるだろう。
 今回、そうした措置を早めに出版社が採用したことで、騒動がみるみるうちに沈静化していくのを観る時、「性表現を見せる商品はこの世から消せばOK」で思考停止する人の多さを恐ろしいと感じてしまう。

 では、なぜ版元の駿河台学園が改訂版での見直しから早めに一歩踏み込んで、最終手段としての絶版を決めたのか?

●世間体だけ品行方正にすれば、批判する人は溜飲を下げる

 主な事業である予備校ビジネスは、少子化と大学全入時代によって収益が頭打ち。
 副業である出版事業は当初、駿台予備校の通学生向けだった。
 だが、「駿台ブランド」の出版物が受験合格にとって信頼できるものとして全国の受験生の間で有名になったのを受け、地方の高校の副教材としても売れるようになった。
 書店より一括注文で大量に売りさばける学校への販路拡大は、出版事業にとって大きい収益源になるからだ。

 たかが1点の書籍によって「駿台ブランド」が傷つき、「過保護」を平然としたがる保護者の圧力で一括注文を避ける学校が増えれば、太い客を失い、減っていく予備校の学費収益を補填していた出版事業も傾きかねない。
 つまり、「性表現」がNGだから自主回収を早めに決めたのではなく、事業経営に響くから話題を早めに沈静化させたかっただけなのだ。
 「ジェンダー的に不快だから」を納得したわけでなく、「お客様は神様です」と同社自身の生存戦略に従っただけなのだ。

 太田出版が『完全自殺マニュアル』への批判や有害図書指定の議論に対して先手を打ってビニールパックで販売を続けたのは、太田出版には学校のような太い客がなく、信頼のブランドも無かったからだ。
 それによって、結果的に、太田出版は出版の文化的価値や表現の自由を守ったことになる。
(※酒鬼薔薇聖斗を「自称」する著者の本の出版によって、同社の社会的信頼は失墜した)

 例の漢字問題集を批判していた人たちは、早めの絶版で溜飲を下げたかもしれない。
 だが、それはあくまでも彼らの目に触れない形になった(=表面に現れなくなった)だけのこと。
 モグラ叩きのモグラを1個殴っただけで、殴られたモグラは地下に一時的に頭を隠しただけ。
 似たようなことは、今後も起きるはずだ。
 そのたびにモグラ叩きをやるわけ?
 そんなこと、いつまで続けるつもり?

 差別は、差別表現をなくしたから無くなるわけじゃない。
 不快なよのなかは、不快な表現を無くせば快適になるわけじゃない。
 誰かを不快にする「よのなかの仕組み」そのものを変えないかぎり、不快なものは存在し続けるだけだ。
 その「よのなかの仕組み」の悪さを映し出す鏡として、表現は守らなければならない。
 どんな表現も、それがあってこそ「よのなかの仕組み」の悪さをより多くの人に伝えられるのだから。

 なのに、言葉さえ無くせば不快でなくなるかのように商品の一掃を迫るアクションは、自分たち自身で自分たちの社会を生きにくく、不自由なものに変えてしまう恐れがある。
 今回の騒動で、おもしろおかしい性表現によってスムーズに漢字を覚えることができていた受験生たちは、自分が学びやすいアイテムを一つ失った。
 彼らを満足させる商品は、もう出せないだろう。
 今後も、「あれは○○だから不快だ」と保護者からクレームを入れられて、ネットで炎上させられ、市販の問題集を絶版にせざるを得ない出版社が出てくるかもしれない。

 本当に誰もが必要でない「不快」をもつ商品なら、消費者にそっぽを向かれて売れなくなり、市場原理によって淘汰されていくだけだ。
 それこそが民主的な選択の結果であるはずなのに、出版社のような中小企業の奮闘努力を叩いたり、彼らに雇用されているさらに弱い立場の著者の出版活動を止めるような事態に追い込むのは、「弱い者イジメ」にすぎない。

 はっきり言っておくと、すべての本は誰かにとって「不快」である。
 あなたが「べつに不快でも何でもないじゃない」と思っている良書でも、あなたの知らない文化を生きている他の誰かにとっては「きわめて不快」に感じる可能性が常にある。

 たとえば、いわさきちひろさんの絵を極めてエロティックに感じ、「自慰の際のおかずにしていた」と友人から聞いたことがある。
 家が貧しくて個室のなかった彼は、エロ本も買えないし、もらっても隠せる場所が家にはなかった。
 「だから、教科書に掲載されていたいわさきさんの絵で欲情する他に無かった」と言った。
 それを聞いて以来、僕はいわさきちひろさんのやさしいタッチの絵の中に、淡いエロと不快さを同時に覚えるようになった。
(そういえば、野坂昭如さんは戦後のモノがない時代には、仏像を見て自慰していたらしい)

 家族みんな仲良しのホームドラマを読んで以来、「親が子どもに謝って理解を示してくれるなんてそんな家族が本当に『ふつう』なのか?」と自分自身の家族のありようが途端に気持ち悪くなって家出したという少女もいた。
 健全が「ふつう」なら、「ふつう」ではない家が恐ろしくてたまらず、親が自分にしてきたことを「不快」と感じ、家に寄りつけなくなってしまったのだ。

 いわさきちひろさんの絵本が、「不快」だと指摘されて発禁に追い込まれても平気?
 仲良し家族のホームドラマも、「どうせ少数派しか不快に思わないのだからOK」でいい?
 どちらも、おかしな話だと思わないか?

 同じ本でも、同じ表現でも、誰かにとっては「不快」であり、同時にべつの誰かにとっては「不快じゃない」(むしろ快適)。

 あるいは、同じ人間でも、かつては「不快」だったものが「快適」に受け入れる時期が来るかもしれないし、「快適」な表現だと感じていたものがある時から「不快」に感じられることさえある。
 それが、表現のもつ多義性というものなのだ。

 その多義性をいきなり捨象し、自分だけのものさしで一方的に「悪いもの」「不快なもの」と社会から一掃させたがる欲望は、他人や異文化を自分の意のままに支配したい欲求にすぎない。
 あなたの愛している本もいつか、あなたの納得できない「不快」ゆえに市場から消えるかもしれない。

「寅さん映画なんて、テキヤというヤクザの話だろ? テレビで放送すんな」
「高倉健の主演映画なんて、初期は人斬りばっかじゃないか。ネットで見せるな」
「レイプという言葉は、被害を受けた当事者にはトラウマだから、本に載せるな」

 こうした「当事者ではない、自称・保護者」のクレームが届くたびに、世間体を取り繕う慣例が根付いていく。
 それを「仕方ない」と感じ、受け入れながら行き着く先の社会は、「不快」なものが一切ないユートピア(理想郷)か?



●自分の責任から逃げる「保護者」が、若者を自殺へ導く

 今回の騒動では、「予備校だけでなく学校に売ったのはまずい」と出版社を非難する声もあった。
 それも、ピントがズレている。
 学校で副教材を生徒に対して強制的に導入するのは、特定の教職員の裁量。
 なので、責任者は内容も吟味しないまま導入した教職員と、教材代を支払った消費者である保護者だけだ。

 とくに、保護者には親権がある以上、わが子が本当に何らかの危機にさらされているなら、その危機から救い出す責任が真っ先に問われるのだから、学校で強制導入される教材なら、どの教材を選ぶのかという段階で責任能力を果たすつもりがないなら、親権者として失格といえる。

 そうした自分自身の責任を果たさないまま、「うちの子がこんな性的表現の多い問題集を読んでは困る」と出版社に言うとしたら、それは責任転嫁もはなはだしい。
 誰だって、性差別を含む表現をよしとは思わない。
 しかし、「その表現があるのは現実に性差別があるからだ」という気づきを万人から奪うような処分まで求めるのは、行き過ぎだ。
 出版社にセクハラなどの責任がないのは、弁護士の見解でもあることも付記しておこう。

 表現ではなく、現実にある悪を変えるなら、それはやがて表現を変えていくだろう。
 しかし、表現そのものを規制しようとすれば、表面的には悪はなくなるものの、内面や地下には広がってゆく。
 これは、店舗型風俗の立地を敬遠したら無店舗型デリヘルや援助交際が増えた構図と同じだ。
 表面にあってこそ問題を可視化できるのに…。

 過保護な保護者が望む「表面クリーン化」作戦は、子どもをどんどん見えない場所へ導くのだ。
 自分の子どもがそんな闇に巻き込まれなければ関係ない?
 じゃあ、闇も知らないまま「見えない場所」を見つけられない子は、どうなるの?

 映画の宣伝やテレビのテロップで観る「この作品にはショックな映像が含まれてます」は、作品の送り手が世間体を繕うと同時に宣伝効果を担保するものだが、事前説明がない多くのコンテンツの中にこそ誰かにとってつらい表現は多い。
 それを全部「配慮」すれば、表現は疲弊し、毒への耐性のない子が育つ。

 そういう子が現実の社会の中で毒に当たれば、死んでしまいかねないだろう。
 親は先に死んでいくのだから、子どもは「何が毒だかわかりませんが、自分には当たりませんように」と不安におびえながら生きていくことになる。
 そして、いざ毒に当たった時、「責任をとれる保護者」など、どこにもいない。
 薬にもなったはずの「毒書」すら、どこにもない。
 それが、保護者が「あなたのために」とわが子を自殺へ導く社会だ。
 そんな社会で、誰が生きやすいだろうか?

 僕らが生きやすい社会に変えたいなら、そのアクションは表現を変えることじゃない。
 「不快」や差別などの悪を温存する「社会の仕組み」を変えることだ。
 その仕組みは、法律だけでなく、常識や習慣、内規など山ほどある。
 その変革に取り組まないかぎり、モグラ叩きが続けられ、多くの人が気づく頃には、今よりもっと生きにくい社会が待ち受けているだけだろう。
 だから、僕は社会の仕組みを変えるソーシャルデザインや社会起業を取材してるのだ。

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