「トロフィーワイフ」という言葉がある。
商業的な成功を収めた男が、その手柄の象徴として妻にする若くて美人の女性のことだ。
もちろん、両者が好き合って結婚する分には、誰も文句をつける筋合いはない。
もっとも、僕は、「夫を輝かせるトロフィーワイフになる法」というホームページを見つけて腰を抜かしそうになった。
「これからの女性は、成功した男性にこそふさわしい、夫にとってまるでトロフィーのように輝かしい女性が、現代的な美しい女性といえるのではないでしょうか。
自分の存在自体が、夫の株を上げるような女性であること。
自分も幸せで、相手も幸せにしてしまう存在。
愛する人を幸せにできる存在になれたら、素敵だと思いませんか?」
そういう女性がいてもいいと思う。
でも、僕の個人的な趣味でいうなら、まったく好きになれないだろう。
それは、個人の属性の問題ではなく、相手との関係のありようの問題だからだ。
輝かしい女性になれば夫の株が上がるなら、輝けなくなれば夫の株は下がる?
そんな夫の株を左右するだけの支配的な力を配偶者が発揮するなら、結婚しない方がマシだ。
それは、成功した女性が成功した男を夫にした時も、同様のはずだ。
お互いに相手を「こっちの株を落とすなよ」とにらみを利かせる縛り合いのどこが楽しいの?
それに、その「株」って世間体ってことだよね?
商業的な成功が世間体を取り繕うことでしか成り立たないなら、そんな成功は、僕はいらない。
金にはなるけど、自分自身にうそをついて「良い子」を演じなければならないような働き方や生き方を続けて、誰が幸せになるの?
僕には、さっぱりわからない。
たとえば、『「灘→東大理III」の3兄弟を育てた母が教える秀才の育て方』 (角川書店)という本を書いた佐藤亮子さんは、 「受験に恋愛は無駄です」とネット記事で発言し、炎上した。
いまどき専業主婦で子育てに専念できるご身分は、世間からの嫉妬も買うだろう。
だが、それを差し引いても、わが子のがんばりを自分の手柄のように人前で語られてしまっては、子どもたちは「良い子」を演じ続けなければならなくなるだろう。
周囲から祝福されて東大に入った3兄弟は、彼女にとってまぎれもなく「トロフィーチルドレン」なのだ。
俳優の穂積隆信が娘の子育てについて書いた『積木くずし』だ。
親にとってどれだけ子育てが大変だったかを世間に訴えた本はベストセラーになり、映画化・ドラマ化など大きな話題にもなったが、そのおかげで娘はどうなったか?
あまりにもせつないので詳細は書かないが、気になる人は検索してみるといい。
●子育ても、社会的課題の解決も、支配から協働へ
このブログ記事を書いたのは、実録マンガ『ゆりにん レズビアンカップル妊活奮闘記』(ぶんか社)についてウートピで書いたところ、妊活しているビアンカップルには「できたお子さんを広告塔や自分たちの政治的主張のシンボルに使おうとしている」人たちもいて議論になっていることを、ゲイの方から知らされたからだ。
判断できない段階の幼い頃から革命闘士の象徴として育てられ、世間に「同性愛者にとっての良い子」だとブランディングしてしまっては、その子がやがて思春期になる頃に心に微妙な陰を落とす恐れは否めない。
これは、親が同性愛者だから問題だ、ということではなく、子どもの自己決定の権利の幅を不当に縮小してしまうという児童福祉の問題なのだ。
人間は誰でも、親や家庭環境、国や性別、体、時代、社会などを「選べない」まま生まれてくる。
だからこそ、育てる側は、選べるものについては豊かな選択肢を保障しなければ、育ちの中で自発的に自分の人生を設計することが難しくなってしまう。
女性は妊娠さえすれば、父親がいなくても子を産めるし、産む自由・権利もある。
その自由・権利には、子ども自身の選択肢を守るという責任・義務が含まれている。
子どもにも自分自身の人生を選ぶ自由・権利がある以上、親がその自由・権利を守る責任・義務から逃げることはできない。
その重さが個人で負うには深刻だからこそ、産みの親にすべてを任せずに済む「みんなで育てる仕組み」が今日では多様に試みられている。
しかし、親自身が「私にとっての良い子」になってほしいと望む時、その子は必ずしも「世間にとっての良い子」になるとは限らないし、いつまでも「トロフィーチャイルド」を演じていれば、疲れ果てて壊れてしまうだろう。
実際、世間体を気にして完璧をめざす「良き母」の下で草食化した若い男子たちから、力なく笑いながら精神病の相談を受けることは珍しくない。
一部の女性は若い男子の草食化を歓迎するが、草食男子の実態は「メンヘル男子」である。
もちろん、商業的には成功している父を持つ娘からも、依存的な振る舞いを自責する悩みを聞くことも多い。
これらは、個人的な属性の問題というより、親子間と、親子に対する世間からのまなざしから育まれた関係のありようの問題なのだ。
こうした関係のまずさは、社会にたくさん見られる。
たとえば、巨額な税金で事業を行うホームレス支援や自殺予防のNPOは、たいした成果は出ておらず、その事業のイメージによって世間受けはしても、ホームレスや自殺志願の当事者たちからはそっぽを向かれている。
他方、ホームレスと一緒に同じ汗をかき、コミュニケーションを重ねて新たな仕事を作り出す社会起業家には、元ホームレスが名前も顔も出して感謝の言葉を述べている。
「私=育てる人/あなた=育てられる人」と一方的に決める支配的な関係から、「共に育ち合う対等な関係」へ進んだ人にしか、この違いの大きさには気づかないかもしれない。
いずれにせよ、他人のがんばりを自分の手柄にする人には、うんざりだ。
彼らは講演し、テレビに出て、本を書いているが、彼らのずさんな仕事のために苦しんでる当事者たちの声は封殺されている。
世間では白眼視されるそのリアルなダメぶりこそ、彼らは見つめる必要がある。
親でも、NPOでも、かっこつける必要なんてない方が、みんな生きやすいじゃないか。
それに、世間からダメ人間扱いされても、親から「悪い子」の烙印を押されても、そのダメさがあるから生きていられるという「当事者固有の価値」が、何かに切実に困っている人にはある。
それが、物事の両義性というものだからだ。
しかし、こずるい連中は、そうした「当事者固有の価値」を平気で自分の利益のために利用する。
立派な自営業者なのに「ニート」と自称して自虐を装ったり、ギャルの低い評価のイメージを利用して儲けようと「ビリギャル」というネーミングを平気で使う。
こういうずるい構図を言葉通りに信じ込む人たちは、その安い幻想に対する期待とともに沈んでいくんだろう。
人に言われてその気になって、堕ちていくときゃ、一人じゃないか。
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