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■「ゆるい生き方」と「だるい生き方」の差を見極めよう

 高校生の頃は受験勉強をがんばって、大学生では就活をがんばって、サラリーマンになったら仕事をがんばって、その「ふつうらしさ」を演じることに疲れ果てて、会社をやめ、なんとかギリギリ暮らして行ける程度の最低限度の収入を得ながら毎日だらだらと暮らす。

 これって燃え尽き症候群だと思うけど、これをあたかも新しい「ゆるい生き方」だと勘違いしてる人は珍しくない。
 頭の中は「ゆるい生き方」のつもりでも、実質的には「だるい生き方」という倒錯だ。

 もちろん、「だるい生き方」を採用しようと、そんなの個人の自由なんだから好きにすればいいし、否定するつもりもない。
 ただ、それは「新しい生き方」でもなければ、「ゆるい生き方」でもないことを、ここでは単純に説明しておきたい。

 そもそも、大学を出てサラリーマンになるという生き方は、日本では一番若い世代で「2人に1人」の選択にすぎず、社会全体ではまだマイノリティ(少数派)である。
 しかも、名前を聞けば誰もが知っている優秀な大学の出身者となれば、社会全体の中では極めて特殊な存在であり、圧倒的に少ないマイノリティなのだから、彼らの生き方を「ふつう」と認知しているとしたら、それはとても狭い母集団の中でしか自分自身を認識していない証左である。
 井の中の蛙、大海を知らず、だ。

 大学を卒業した後に「社会」を知ること自体、どれだけ学校という均質なコミュニティのぬるま湯の中でぬくぬくとやってきたのかと思い当たる必要がある。
 10代のうちに自分自身の頭でものを考え、自分の置かれている社会的ポジションを理解できていたなら、中高生時代に気づいたはずだ。

「世の中にはヤンキーやヤクザもいて、彼らも生きていくために彼らなりの生存戦略をもつ」
「偏差値が高ければ高いほど、社会をより良いものへ作り出す社会的責任も高く要求される」
「自分と似た属性の人たちの輪の中だけで生きていれば、社会の多様性に気づかなくなる」
「周囲の作法と合わせることだけに従えば、どんどん窮屈な生き方しかできなくなる」

 こうしたことに向き合わないまま10代を過ごしてしまえば、遅かれ早かれ、自分の知っている狭い「ふつうらしさ」とは180度ちがう方向だけが自分の納得できる生き方だと認知しがちになる。
 だから、働くことを「ふつう」だと思っていたら、働かないで暮らせることを選ぶし、生きることを「ふつう」だと思っていたら、生きなくていいというメッセージに安心する。

 それが「早く心安らかに暮らしたい」という切実さが生んでいる極端な幻想だとは気づかず、必要最低限度の収入で可能になる脱力的な暮らしぶりができている今日この時の自分のありようを納得する。
 というか、実態は「納得するしか選択肢がない」のだ。


 実際、そうした脱力的な住人が寄り集まるシェアハウスは、選択肢がないまま思考停止になっている人たちの巣窟になりがちだ。

 中には、そうした脱力的な暮らしにいいかげん耐えられなくなり、貧しくてもヒッチハイクのような形で旅に飛び出す人や、すでにそうした旅を重ねて知恵をつけて他の住人たちを刺激する人もいる。

 だからといって、そうしたアクティブな人になる必要もなければ、刺激されなくてもいいし、脱力的な暮らしを続けるのも自由だ。

 しかし、そうした脱力的な暮らしを「新しい生き方」として提示し、彼らに不安がないかのようにメディアで持ち上げるのはウソくさい。

 なぜなら、最小限度の現金しか持たなければ、いざケガや病気をしたら家族に頼らざるをえないし、ゆるい人間関係のままなら責任を分担し合って親友や恋人といった関係を育むことも難しくなるし、結婚や出産・子育ての選択肢も日を追うごとに消えてゆくことになるからだ。
 そのことさえも不安に感じないとしたら、過労死しかねないほどの無感情の労働を「自殺してるようなもの」と認知するのと同じように、自殺してるようなだるさを引き受けて生きているってこと。

 仕事や労働、暮らしぶりを他人と比べる必要はないが、無為徒食の日々を続けるだけでは、生きている実感という価値すら手放しているのと、さほど変わらないだろう。
 他人からのまなざしはどうあれ、自分自身に対して生きている実感を自問しなくなったら、それは面白みのない人生をだらだらと浪費していくにすぎないだろう。

 実際、金をなるだけ使わない暮らし(=なるだけ働かないで済む暮らし)を続けたいなら、生活コストをできるだけ誰かと分担し合う責任が伴う。
 それは、表面的には「ゆるい」ように見えるかもしれない。
 だが、そのゆるさは「他に選択肢を広げようがない」(=仕方ない)からそうしているだけだから、自分の好みで人選するわけにもいなくなる。
 それって、自由とは名ばかりの退屈な自堕落そのものではないか?

 自堕落を選びたくなるのも人情だが、そこからいつでも抜け出せるだけの人間関係や資金、知恵や経験が蓄積されていないなら、結局は「だるい日常」の檻に自分から入っているだけだ。
 収入を自分で低めたから「できなくなってしまったこと」を、「しないこと」に数えるのは、人生の断捨離ではなく、ただのあきらめにすぎない。
 他人に自信を持ってオススメできるようなものでない以上、「これはただの”だるい生き方”にすぎません」と言う方が潔いというものだろう。


●自分の理想を脳内妄想のままにするか、現実にするか

 自分自身の価値を自分で見積もることをやめてしまえば、当然のことながら、自分以外の誰かの価値を正当に見積もることもできない。
 誰かの命や人生、暮らしが蓄積してきた豊かな価値に鈍感になれば、つきあいも「だるく」なるわけで、これを「ゆるいつながり」と名付けるには無理がある。

 つまり、自分や他人の価値に鈍感なままでは、その価値を「金にとって代わるべつの価値」と交換することも難しくなるわけだから、結局は金に縛られた暮らしを余儀なくされるわけだ。
 そのままでは、労働の社会的価値や人間の道義的価値を見失う構図の中に居続けるのと変わらない。
 すると、他人が苦労して蓄積してきた固有の価値を軽視してしまいかねないし、時には平気で他人の固有の価値を奪うことにもなりかねない。

 たとえば、稼がない自営業者にすぎない高学歴層が「ニート」と称するのは、低学歴ゆえに仕事がしたくても就職や起業が上手く行かず、ニートにならざるを得ない当事者の固有の価値を奪うさもしい作法だ。
 これを「ゆるい生き方」と呼ぶとしたら、すっとこどっこいの勘違いだ。

 ニートには、「長い無業歴の中でどうやって日々を生き抜いてこれたのか」という固有の価値があり、それはニート当事者自身が日々の孤独と苦しみを代償にしながら蓄積してきた資産である。
 その資産は本に書けば売れるし、講演すればギャラが入るという価値のあるものなのに、稼がない自営業者が安々と「ニート」の看板を背負うのは、見ていて気持ちの良いものではない。
 高学歴の「ふつう」に疲れて自ら低所得者になった人間が、高卒・中卒に多い失業者からその固有の価値を奪うのは、単なる「ずるい生き方」だからだ。

 その点では、低所得層の家庭出身で教育投資が受けられないまま低偏差値の仲間どうしで育んできたギャル文化に「バカ」のイメージを付与しておきながら、「それでも慶応大学に合格できました」と自慢する”ビリギャル”も同罪だ。
 ニセギャルがギャルのイメージや価値を横取りして稼ぐなんて、こずるいこと、この上ない。

 ニートであろうとなかろうと、働くのを嫌がっても、収入がまったくないと生きられないのは明白。
 それでもなんとか生きていこうと思えば、きつい時間ができるだけ短くて済む単価の高い仕事をするか、楽しすぎて働いている実感のないまま高収入が得られる仕組みを作る他にない。
 それらを試みないなら、「好きで貧乏をやってるだけ」の人だ。

 これを「新しい生き方」とか「若い隠居」などと報じられても、納得できるわけがない。
 貧乏のままの現状維持とは、一時的には機能しても、病気やけが、交通事故、急な出産、親の介護などの「不測の事態」が起きれば、あっけなく終わるんだから。
 「好きで貧乏」を漫然と続けることは、サスティナビリティ(持続可能性)の放棄そのものなのだ。

 会社にたいして興味のない仕事を強いられ、好きでもない人間関係にさらされるサラリーマン生活がどうしても嫌なら、会社を辞めればいいだろうし、勤め人を辞めた以上は自分で自分が面白がれる仕事を作り出す自営業者か起業家になる他に、自分の好きなことをして暮らすすべはない。

 自分が自分に収入をもたらす立場になれば、時間の余裕だって自分で作り出せる。
 失っていた心の余裕も、いつでも仕事を休めるのだから取り戻せるし、仕事を休めば収入が減るだろうが、自営業者になった以上、いつどのくらいの金を稼ぎたいのかを決めるのも自分なんだから、好きなことをして暮らすのに必要な金を自分が面白いと思う仕事を作って稼ぎ出せばいいだけだ。

 べつに大金を稼ぐ必要もないし、貯金や現金がなくても構わないと思うが、少なくとも自分が面白がれる仕事をいつでも自在に作り出せるスキルは必要だろう。
 実際、相場に揺れる目先のキャッシュを追うより、打ち出の小槌があった方が安心できる。
 そうしたスキルを鍛えておかなければ、「ゆるい生き方」の先にあるのは、ただの貧困だ。
 うつ病などの精神病の発症や自殺、蒸発など、あまりうれしくない現実しか待ってはいない。

 それを避けるには、会社をやめたことよって生み出した時間で何をするかを選ぶことだ。
 自営業者にとって、時間は自分自身の明日を拓くためのスキルを身につけるための資産だ。
 そのスキルは、短い時間でより高い収入を得られる仕組みを学んで、必要以上に働かずに済む暮らしを実現していくことかもしれないし、自分が素直に楽しいと思える作業をするだけで生きていける仕組みを作り上げることかもしれない。

 いずれにせよ、短い時間でより高い収入を得られる仕組みの豊かさを学ぼうとせず、自分が素直に楽しいと思える作業をするだけで生きていける仕組みも作り上げないまま、安心して「ゆるい生き方」を続けていけるなんて思えるとしたら、その人はただひとりよがりな幻想で現実の不安を打ち消したいだけなんだ。

 会社に雇われず、大して仕事もせずに生きようと思うなら、自分自身の得た時間や自由の価値を安く見積もるのはジリ貧への道。
 自由とは、自分が選んだ生き方の責任をとること。
 責任のとれる範囲を拡張することで、選べる自由も拡張できる。
 逆にいえば、自分の人生に責任をとりたくないなら、自分の自由を自分自身でせばめてしまうことになるってことだ。

 何にも縛られないことを「幸せ」「成功」だと思うのも自由だが、それは、ともすれば不安定な人生をだらだらと続けることになり、その不安定ぶりによって、自分では隠しておきたかった不安もいつかは爆発してしまうだろう。
 自分自身の不安からいつまでも目を背けることは、時限爆弾を抱え続けるってことなんだ。

 「ゆるい生き方」なのか、「だるい生き方」なのか。
 それは、その人の表情を見れば、他人からは察せられるだろう。
 本当に「ゆるい生き方」をしていれば、安心を当たり前に感じてワクワクしているが、「だるい生き方」の人の目には力が入っておらず、ままならない現実をただただ受け入れるしかない脱力感が漂っている。

 その脱力感は、子どもの頃からずっと大人たちから与えられてきた学びに疲れてしまった「なれの果て」か、あるいは、学び方や学ぶべきものを間違えたことを認めたくない意地かもしれない。
 しかし、それを社会環境のせいにして「負け組」を気取っていても、出口なしだ。
 もっと楽に生きられるように自分を育ててくれる多様な人と知り合い、社会環境そのものを変えようとしないなら、年月の経過とともに周囲から人が去っていき、孤独と卑屈を身につけながら老いてゆくだけだろう。

 多くの人たちの労働によって社会が刻一刻と変化することによって、自分の知らないことがものすごい速度で宇宙のように広がっている。
 教科書には書かれていないことのほうが、はるかに多い。

 そんな単純なことにさえ気づけば、もっと謙虚な気持ちで社会と渡り合えるはずだ。

 自分の知ってる社会の仕組みが、自分を壊す悪いものしかないような認知を後生大事に抱えていては、「だるい生き方」を「ゆるい生き方」だと他人に信じ込ませる罪深さを背負っていくことになるだろう。

 生きることを、なめてはいけない。
 誰にも飼われないで気ままに生きてるように見える野良猫だって、スキあらば捕獲しに来る人間たちによる殺処分から逃げ続けながら、必死に今日を生きている。

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