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■世間のルールなんて、枠組み次第でいくらでも変わる

 先週のブログで予告したとおり、「ひきこもり限定 1対1オフ会」と称し、現役ひきこもりの方に個別に会ってきた。
 僕の地元の五井駅(千葉県市原市)まで来れる方を公募したところ、遠方から2名の方が参加してくれた(男女1名ずつ)。
 木曜日の夜にブログ記事を書いて発表し、金曜日に1時間ごとにtwitterで記事のリンクを拡散したところ、約1000PVだったので、なかなかのレアな確率で会えたことになる。
 たった数日間、ネット上で呼びかけただけで、初対面の現役ひきこもりの方と会えたのだ。

 今回は、1年以上で20歳以上の現役ひきこもりの方に限定して公募した。
 交通費がなくて来れない人もいただろうし、ネット環境がなくて知らなかった人もいただろう。
 あるいは、他のさまざまな事情で来れなかった人もいるはずだ。
 それでも、2名が来てくれた。
 僕は彼らに、素直に感謝したい。
 彼らは僕のブログや本を読み、僕の呼びかけに応えてくれたからだ。

 日頃から、ひきこもり当事者に関心をもってもらえる言動をとっていれば、いざ「会いたい」と思った時にちゃんと呼びかけに応えて会ってくれる。
 お金もかかっただろうし、何より何年も家から出ていないから勇気も必要としただろう。
 それでも長い時間をかけて遠い土地にいる僕に会いに来てくれたことを、本当に感謝したい。

 そして、僕は疑問に感じるのだ。
 ひきこもり当事者に「会いたい」と呼びかけ、自分の地元の飲食店で待ってるという程度のアクションを、これまでひきこもりを「支援」したいという人たちはやってきただろうか、と。


 「うちのNPOの事務所に来てください」とか、「気軽に相談してください」と公式HPに書いてあるNPOは珍しくないし、中には「ひきこもっている人の自宅に伺います」なんてことを書いてる団体もある。

 そうした団体が、ひきこもり当事者自身が切実に求めている活動をしているなら、日頃からその地域の当事者たちから絶賛されているはずだし、公式HPに「気軽に相談して」と書く必要もないだろう。

 しかし、ネット上をいくら検索しても、勇気を出して家から支援団体の事務所に足を運んだひきこもり当事者に対して支援団体が感謝している言葉はなかなか見つからないし、当事者が団体に感謝している言葉もなかなか見つからない(※ゼロではない)。
 これは、支援団体が当事者にとって満足度の高い活動をしている証拠がないのに等しい。

 当事者がひきこもりであるかどうかより、当事者各自の「自分がどうしたいのか?」に関心があるなら、1対1の関係を大事にし、目の前の1人が望む何かを達成するための伴走をするだろう。
 逆に、一律にひきこもりの暮らしをやめれば問題解決したことになるのなら、それは最初からひきこもり自体を問題視する視線をもっているということだ。
 それは、当事者の周囲の家族を安心させるかもしれない。
 しかし、当事者自身は本当に満足するのだろうか?

 ひきこもりも長期化すると、自分の将来設計を自分で決められず、ひとりよがりな脳内妄想ばかりがふくらんでしまい、メンタルをこじらせ、余計ににっちもさっちもいかなくなる人が珍しくない。
 そんな彼らに「いつまでもひきこもっていないで」というまなざしを向ければ、焦燥感をさらにふくらませ、げんなりした気分を解消するために思考停止をさせることになる。
 思考停止は、ある種の人にとって自己防衛であり、生存戦略だ。

 しかし、思考停止の心地よさを「ゆるさ」だと感じてしまうのは、認知のゆがみだ。
 「世間のルールに合わせなきゃ」という思いが高じるたびに疲れ果て、その結果「何も考えたくない」という構えが常態化し、自分自身の「だるさ」を解消するすべを見失わせてるだけなのだから。
 ひとりよがりな思考の悪循環に陥ってる時、人は世間のルールにいかに縛られているかを突きつけられる。
 世間のルールが「壁」に見えてしまうのだ。


●世間の枠組みが変わると、ルールも変わる

 世間のルールには、生きづらい人をさらに生きづらくさせるものが少なからずある。
「自殺してはいけません」
「家出してはいけません」
「親を裏切ってはいけません」
「会社で働かなければいけません」
 …など、挙げていけば、キリがない。
 しかし、世間のルールは、世間が変われば変わってしまういいかげんなものなのだ。

 20年前の1996年、僕は『自殺だヨ、全員集合!』というトークイベントを渋谷で開催した。
 自殺未遂の経験者は割引料金で入れるというものだ。
 すると、50人ほどの観客のうち、自殺未遂の未経験者は、当事者の連れの親しかおらず、数人ほどだった。
 このイベントは、自殺を否定しない旨を事前に伝えておいたから、当事者率が高かったのだ。

 その場に集まった50人の世間のルールは、こうだった。
「自殺してもいいじゃん」
「リストカットぐらい誰でもしてる」
「生きづらくない人なんていない」
 自殺未遂をしたことのない少人数の参加者は、居場所を失ったかのように、うろたえていた。
 イベント会場を出た彼らは、こう思ったに違いない。
「それでも大きな世間では、私のほうが正しいはずだ」と。

 ここで学ぶべきは、世間という枠組みをどう設定するかによって、ルールは異なるってことだ。
 日本社会の全体を「世間」と呼ぶなら、自殺未遂の未経験者の言い分は正しいかのように聞こえてしまう。
 だが、それは、自分の正当性を担保するために都合の良い「世間」の枠組みを設定したにすぎない。
 僕が、当事者率の高いイベントを企画したのも、当事者にとって都合の良い枠組みで「世間」を設定しただけなのだ。
 数時間でも、日常とは異なる「世間」を演出することによって、ルールなんていくらでも変わることを伝えたかったからだ。

 自分がどういう枠組みの世間で生きたいのかを決めるには、自分はどんなルールに従いたいかを決める必要がある。
 世界には安楽死を合法化している国もあるし、失業率が高いので毎日みんな美しい海で遊びながら高波にさらわれて死んでいく国もある。
 何を幸せと感じるかは人それぞれなので、自分が納得できないルールを強いてくる家族がイヤなら、親を裏切っても金を工面して家を飛び出すのもいいだろうし、日本社会全体がイヤなら自分が生きやすいと思える国を本やネットで探して行ってしまうのもアリだろう。


 悩むだけで何も変わらない退屈な日常なら、環境の異なる場所へ移動すれば、ルールも異なり、途端に生きやすくなる場合もある。

 もちろん、「ここではない、べつの場所」は、「ここ」とは異なる大変さがあるだけだが、少なくとも「ここ」にある閉塞感からは抜け出せる。
 たとえ、「べつの場所」に異質の苦しみが待ち受けていようとも、同質の苦しみをいつまでも負う必要はないだろう。

 昔、風俗取材をしていたら、ある風俗嬢から、こんな話を聞いた。
 彼女は10代の頃、実の父親に性的虐待を受けていた。
 そのおぞましさに高校の途中から耐え切れなくなり、家出した彼女は、風俗で働き始めたのだ。

 仲の良い友人は「風俗はやめろ」と言うけれど、彼女はそのたびにこう答えると言った。
「だって、セックスしたら、お金をもらえるんだよ。
 イヤな客もたまにいるけれど、家にいた時より、ずっとマシ」

 彼女にとって「家出はいけません」というルールは、幸せな人生しか知らない人たちだけが寄り集まった世間のルールにすぎないだろう。
 世間知らずのボンボンが作り出し、誰にでも強いるルールは、生きづらさを作り出す温床だ。
 そういう枠組みの世間から抜け出し、自分が生きやすい枠組みの世間を見つけることは、誰にとっても生き残るために必要な最低限度の戦略のはずだ。
 それがどこなのかは、自分1人の頭の中で考えているだけでは、見つからない。
 比較文化論の本を読みながら、地球儀を回しながら考えてみたらいい。
 この世界には、自分らしく振る舞っても歓迎される枠組みの世間がいくらでもあり、自分が耐えられる苦しみを探して折り合いをつけていくのが、人生というものなのだから。

【関連ブログ記事】
 自殺した友人と、希望を作るソーシャルデザイン

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