そして、クリーンなイメージで演出されやすい業界ほど、マガイモノが紛れ込みやすい。
政治家にしても、企業にしても、TVタレントにしても、社会起業家にしても、同様だ。
今回は、社会起業家について話そう。
社会起業家は、民間で社会的課題を解決できる新たな解決の仕組みを生み出し、その解決コストを自前の収益事業によって賄っていく。
この「新たな解決の仕組み」を作るには、課題によって切実に苦しんでる当事者と時間をかけて泥臭くつき合う必要がある。
それによって当事者のニーズに基づいた解決事業がやっと生み出せるわけで、市場調査だけではとても「新しい解決の仕組み」は生み出せないのだ。
その点で、大企業からばく大な金をもらうコンサルファームが、社会を変える「新しい解決の仕組み」を生み出せるわけがないし、実際コンサルファームと組んで社会を変えた成功事例など、少なくとも僕は知らない。
日本の主だった大企業のCSR部署は50社以上も取材させてもらったが、気の毒なほど社会を変えていない。
社会を変えるとは、それまでの価値基準では苦しい人が苦しまずに済む「新しい解決の仕組み」を作り出し、社会インフラとして普及・定着させることだ。
その「新しい解決の仕組み」が当事者に支持されるなら、それまで無かった新しい価値基準がどんどん社会に広がっていくはずだ。
それが理解できず、既得権益的な価値基準を疑わないまま「社会的課題」を設定すれば、「解決の仕組み」はいつまでも更新されない。
たとえば、高校や大学をやめてしまった当事者たちと時間をかけて深くつきあうこともなく、「学校中退」を社会的課題だといきなり設定してしまえば、中退させない仕組みを作ろうとするだろう。
それは、「がんばってより高い学歴を得られれば、より高い所得を得やすくなる」という既存の社会の仕組みを補完しただけだ。
もちろん、学校を中退したくない人もいるから、彼らが中退しなくて済むような仕組みを作ること自体は悪くないし、やればいいだろうが、それは社会の価値観そのものを何ら変えていないのだ。
むしろ、「学校は中退しないほうがいい」という既存の考え方を上塗りし、すでに中退した人を「下」に観るまなざしを温存してしまう。
「学歴が低いままなら所得も低くなる」という傾向と幻想を温存させてしまうのでは、社会を変える事業とはとてもいえないのだ。
中退を問題視するまなざししか持っていない優等生的な事業は、社会起業家とは似て非なるものだから、せいぜい「意識高い系の社会貢献事業」とでも呼んで、「良いことしてるわねぇ~」とホメてあげればいい。
中退しようが、しまいが、幸せになれる仕組みを作り出さなければ、学歴に依存しないで食っていける仕組みに社会を変えたとはいえないのだから。
僕自身、大学を半年で辞めてしまったが、まったく後悔してないし、学歴にも所得にも何ら劣等感をもっていない。
高卒で苦労した肉体労働者の父に、「あなたの必死に工面した金が授業中にウトウトしてる老教授の高給ギャラになってるから見に来てよ」と教室に誘ったぐらいだ。
やめてせいせいしたし、ムダな授業料を親に払わせなかったことを誇らしいとすら感じてる。
僕は、学力や学歴を争わなくていい働き方に早くから目覚めていたので、学校中退を社会的課題として一方的に決めたがるまなざし自体を「古い」としか感じない。
そのまなざし自体がとても古臭い学校的価値観でしかないことを、中退した当事者としてはっきり言っておこう。
他にも、たとえば子育てと仕事の両立を社会的課題として設定する「自称・社会起業家」もいる。
東京周辺でしか通用しない解決の仕組みを作り出し、一定以上の所得がある家庭しか救えない値付けでサービスを事業化しているのだ。
これは、端的に「富裕層向け東京ローカルビジネス」にすぎない。
東京でしか通用しない仕組みを日本社会の全体で使えるようにされては、たまらない。
幼い子を育てながら求職している生活保護の受給者まで救えない値付けや仕組みを最初から作る覚悟がない事業家は、自分自身の社会観があまりに狭いことに鈍感だし、無自覚なのだから、社会起業家が何たるかを知らない取材不足のマスメディアに重宝されて喜んでいればいい。
実際、、「おいおい、それは社会起業でもソーシャルデザインでも無いよ」という事業体まで社会起業家と呼び、「その筋では有名な人だから」と紙面や番組に登場させる取材不足の新聞記者やテレビ・ディレクターは珍しくない。
もっとも、取材する側も、社会的課題に切実に苦しんでる人たちと時間をかけて深くつきあったことがない高学歴エリートの高所得者層に属し、自分の属性に近い交際範囲でしか社会観を築けていないことに鈍感なのだから、トホホな話なのだ。
自分が生きやすい社会の仕組みに満足し、切実に「変えてほしい」とは望んでいない人たちに、社会起業(ソーシャルビジネス)やソーシャルデザインが理解できないのは、仕方のないことかもしれない。
まぁ、自分と同質の高学歴インテリ文化圏内の仲間うちで集まってるのを「ソーシャル」だと考えてるうちは、いつまでも彼らは「社会」の広さやリアルに目覚めることはないだろう。
本物の社会起業家であるか、そうでないかは、その事業の商品・サービスを買う人、その事業が提供する課題解決の仕組みの恩恵を受ける人の満足度を確かめればわかる。
同じ社会的課題に苦しんでいる当事者たちの中でも、そのほんの一部で支持されていても、その背景には切り捨てられた当事者たちがたくさんいるかもしれない。
「その値付けでは私たちは救われない」という不満の声が大きければ、結局は「金のある人しか救えない仕組み」であり、それは社会を変える仕組みになっていないということなのだ。
本物の社会起業家なら、「金がない人」の苦しみを切実だとピンとくるから、金のない当事者でも気軽に使える解決の仕組みを最初から生み出そうと発想するだろう。
そこにピンとこないまま、「自称・社会起業家」の言い分を鵜呑みにして取材したつもりになっている報道関係者は、決して珍しくない。
しかも、取材させてもらう相手に弱く、当事者たちの多様な声を確認しない報道関係者も多い。
これでは本物の社会起業家が浮かばれないし、記事や番組の信ぴょう性も低くなる。
そんな状態だから、格差が広がってる今日では、新聞の購読者は減り続け、部屋にテレビが無い若者も珍しくなくなったのだろうね。
そして、そんな時代だからこそ、マスメディアに報道されないところで社会起業家を志す人が増殖中なのだ。
●不当なガマンに気づき、同じ苦しみの当事者と深くつきあう
本物の社会起業家は、時に既得権益とぶつかりかねない危うさを生きている。
たとえば、病気の症状が悪化しないうちに容易に健康診断ができる仕組みを作れば、高額医療費で高収益を上げてきた医者や病院の利益は落ちていくかもしれない。
たとえば、民間でお金のかかない子育てシェアの仕組みを作れば、地域のママたちはこぞって喜ぶが、ハコモノを増設して人気をとりたい政治家や公共事業を受注したい建設事業者からは、にらまれるかもしれない。
たとえば、学歴不問で稼げるようになる起業教育を10代に施せば、教育投資を満足に受けられない10代は稼ぐ力を早くから身につけられるが、入学者が減って経営難になるのを恐れる大学も増えるかもしれないし、高校で進路指導を担当する教師は無能ぶりが生徒や保護者に見透かされて失職するかもしれない。
そのように、既得権益にとって不都合な社会に変わろうとも、より生きやすい新しい価値基準を社会に定着させ、新しい時代を作り出すのが、社会起業家の存在価値なのだ。
既存の社会の仕組みでは生きづらくなる人たち自身が望めば、どんなに貧しくても、どんなに病んでていても、どんなにコミュ力がなくても、無理なく利用できる「新しい解決の仕組み」を作ることが社会起業家の仕事だし、その大きな理想を一刻も早く実現するために彼らは日夜汗水を流している。
時を急ぐのは、早く解決できればその分だけ、既存のダメな社会の仕組みのために死んでしまう人を一人でも多く減らせるからだ。
その苦しい暮らしの切実さを当事者たちと分かち合っているからこそ、本物の社会起業家は収録の長いテレビ番組に出演する時間を惜しむし、安易に政治家に近づいたりしない。
本物の社会起業家なら、自分はどれほど当事者のニーズを拾っているのか、いないのかを、自分自身の胸に問い、解決の仕組みをさらに良いものへ変えることに時間と労力を割くだろうし、そのためには当事者との関係を何よりも重視するだろう。
重要なことなので何度も繰り返すが、社会起業家は、社会のダメな仕組みによって切実に苦しんでる当事者とどれだけ深くどれだけ長くつきあうかによって、初めて当事者ニーズに満足に応えられる「新しい解決の仕組み」を生み出せる。
苦しんでる人ほど、自分の弱さを長らく「恥ずかしいもの」と認知させられている。
社会の仕組みが悪いせいでこじらせている苦しみを、「自分が無力で弱いから悪いんだ」と個人的な問題のように勘違いをさせられ、ずっと自分を責めてきたのだ。
そういう当事者から本音を聞き出したり、本当のニーズを確かめるには、関係を深められるだけの年月と労力がかかるのは当然のことだろう。
そうした当事者が満足できる「新しい解決の仕組み」は、当事者にとって容易に利用できるものでなくてはならないし、より短期間に解決が導けるよう常に洗練させていく必要もある。
「ある程度の金がなければ使えない」では困るし、「忙しい人には無理な仕組み」でも困るのだ。
つまり、当事者との付き合いを避けていたり、深くつきあう経験がないままなら、「新しい解決の仕組み」などホイホイ生み出されるわけがないってことだ。
その点を理解できれば、大手の広告代理店やコンサルファームが、どれだけ大企業から金を受け取ろうが、社会を変えてはいないし、変えられないことにピンと来るだろう。
電通や博報堂がソーシャルデザインを事業化しようとしているが、少なくとも現状のあり方では社会を変えられる見込みは薄いし、たとえ大企業や大学、世間には受けても、切実に困ってる当事者たちからはそっぽ向かれる事業しか生み出せないだろう。
昨今の大学生には、ソーシャルデザインを志して広告代理店を志望したり、CSR部署への配属を希望する人も増えているようだが、そうした就職観そのものが既得権益的な発想の産物であり、ちっともクリエイティブではないことを明言しておこう。
それより、学生の身分に甘えず、自分が見過ごせない社会的課題の当事者たちとどっぷり深くつき合ってみるといい。
そこに自分の時間と労力、資金を投入し、それによって学校文化によって曇らせてしまった自分のメガネを外し、自ら「新しい解決の仕組み」を発見する努力をしてみたらいい。
何から手を付けていいかわからないなら、『よのなかを変える技術 14歳からのソーシャルデザイン入門』(河出書房新社)を読んでみてほしい。
この本は社会起業を教え始めた学校教師が大量購入しており、副教材として普及しつつあるし、図書館にもすでにある。
本書を読んで、自分の考えた「新しい解決の仕組み」が当事者たちに支持されたなら、その確証を担保に立ち上げ資金を調達し、自ら起業すればいい。
誰もまだ解決に着手していない社会的課題は、くさるほどある。
きみ自身が個人的に不当にガマンしてることを自覚すれば、その同じガマンを他の人たちもしていれば、それこそが社会的課題だ。
それを放置すれば、より若い世代も同じ課題に苦しみ続けることになる。
それを見過ごせないと思うなら、そして誰もその解決に挑戦しないなら、そこにきみ自身が働く意味が発見できるかもしれない。
多くの人は「みんなと同じ」に身を寄せ、それゆえに狭き門に大勢で群がる苦しみをわざわざ自分に課している。
そんな勝ち負けを本当に面白いと思うなら、やればいい。
しかし、自分にしかできない仕事を作り出すことに情熱を賭けてみたいなら、本物の社会起業家を見極めることだ。
誰だって、初めて自分で自分の人生を決める時は緊張するが、本気でやりとげたいことなら、力が出る。
本気で動く人には、仲間も寄り集まる。
本気なら、迷わず行けよ。
行けばわかるさ。
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