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■孤独は、被災者を平気でdisることを動機づける

 九州の大地震に関する芸能人のブログ記事への中傷が相次いでいる。
 おかげで、タレントの井上晴美さんはブログの更新をやめてしまった
 彼女を追いつめた中傷コメントを、ここでいちいち見せたくはない。
 ご存じの方は、心を傷めたり、憤慨したり、「どうしてそんなことをするんだ」となんとも嫌な気分にさせられたことだろう。

 僕もその一人だ。
 だからこそ、平気で被災者を中傷してしまう人たちを全面的に責めることもためらわれる。
 もちろん、彼らがやったことは間違ってる。
 一つも正しくはないし、端的に醜悪だ。
 しかし、なぜ彼らはそんな振る舞いを動機づけられているのか?
 それを考えなければ、同じようなことは今後も続き、また新たに誰かが不当に傷つけられることになる。
 それゆえに、冷静になってみたいのだ。

 よのなかには、大してやりたいこともなく、自分にできると思えることもなく、それに悩んでも相談したくなる相手も見つけられず、うつろな気持ちを持て余したまま、孤独から抜け出せない日々をいつまでも続けてる人たちがいる。
 実はこれ、近代以降、誰にとっても陥りがちな状況なのだ。
 100年以上前なら、大半の日本人は選びようもなく、農作業に明け暮れていた。
 物心ついた頃には、田畑を耕す役割をあらかじめ運命づけられていた。
 誰も自分の頭で考える必要がないし、考えたところで家父長の命じるままに生きるしかなかった。

 しかし、近代化によって2つの世界大戦を経て、平和な社会が訪れると、誰もが「個人の自由」で生きることが許され、奨励されることになった。
 言ってみれば、みんながみんな「自分の頭で考えて生きてよい社会」が約70年前から始まったわけだ。
 家も土地も資産も何もない貧困と飢えの終戦直後からバブルがはじける1990年代初頭までは、経済成長が正義であり、最優先の課題だった。
 だから、会社に属して働くことで「擬似家族」を作り、帰る先は祖父母から遠く離れた親子だけの「核家族」に変わった。

 それらの「家族」をよりどころにした共同体の要請に従っていれば経済的に豊かになるため、やはり自分の頭で考える必要がない。
 だから、上司や親の言う通りの「良い子」でいれば、さほど困らない暮らしを得られたし、孤立することもなかった。
 しかし、こうした変化と同時に産業も大きく変わり、祖父母・父母・自分たちという3世代同居で成り立っていた農業ベースの暮らしから、工業そしてサービス業へと職種が変わった。
 みんなと同じ田畑を耕し、同じ汗を流すことで担保される連帯のチャンスは失われ、自分にあてがわれた部分のみを担って給与をもらうことになった。
 そのため、営業部は営業部、商品開発部は商品開発部といった具合に労働はタテ割りで分断され、同時に「自分と同じことができる人間」にいつでもとって代えられる恐れを覚えるようになった。

 自分がやらなきゃ動かない組織ではない以上、自分がそこで働く意味は、自分がそこで働きたい(あるいは、他の人にこの座を奪われたくない、自分はここでしか働けない)というものでしかない。
 そこで、一部は「もっと自分が活かせる仕事をしたい」と望み、転職や起業を試みた。
 しかし、転職も起業もできないまま、自分の行く末を大して考えなかった人たちは、会社自体の業績不振によってリストラを食ったり、転職するつもりが失業状態が続いてニート→ひきこもりになったり、ホームレス生活や自殺を強いられる人まで出てきた。
 あるいは、こうした時代の変化についていけず、精神を病み、生活保護を受給する暮らしの中でますます孤立を深めてしまった人たちもいる。

 誰もが「個人の自由」を行使できる社会は本来、自分のしたいことを自分で決められる人にとっては都合が良い。
 しかし、自分のしたいことがにわかには決められない人たちにとっては、ラクではないはずだ。
 しかも、日本人は総じて自己評価が低いため、自分のしたいことに伴う労力に思い及ぶと、「自分には無理」とあきらめてしまいがちな点が誰にもある。
 自分を思わずワクワクさせてくれる大きな夢ほど、その実現には大きな労力がかかるので、その労力を覚悟することを「面倒だ。無理」と感じてしまう向きもある。
 とくに、より若い世代では上の世代と比べて体力が衰えているために、自分のしたいことをまっとうするために必要な労力を想像しただけで「無理」と条件反射で思考停止する悪習慣が身につきかねない。

 社会構造が変化した時、自分はどうしたらいいのか?
 それを学校で教わらなくても、自分で自分の選択肢を考え、作り出し、試行錯誤しながら自分らしい生き方を歩んでいける人がいる。
 その一方で、自分の自由を拡張したければ、その分だけ労力を払って自分のとれる責任・義務の範囲を増やすしかないことにピンとこない人もいる。
 後者は自己責任だろうか?
 義務教育は、「勉強ができなくて高い学歴を得られない時に収入を上げる方法」を教えてこなかった。

 それを思うと、自由に生きたくても、その自由を行使するための金を自力で作り出せないまま、孤立し、空虚感にひたる日々から抜け出せずにいる人たちが、リア充の人や有名人などを「うまくやってる大きな人物」として見上げるように認知し、卑屈な構えでdisることでしか自分の存在を保てない脆弱な自意識のままでいることを、僕は責める気になれないのだ。

 彼らにとって他人を否定することは、彼ら自身が生き延びるために無自覚に採用している自己肯定のチャンスであり、自尊心を保つのに必要不可欠な生存戦略なのかもしれないのだから。
 彼らをdisり返したところで、同じことが延々とくり返されるだけだろう。
 彼らをさらに孤立に追いつめてしまうのは誰なのか?
 disり返しは、さらなる憎悪と争いしか生まない。
 それは誰も幸せにしない作法なのだ。


●誰もが「違う人」であるように、明日は今日までと違う1日だ

 もっとも、脆弱な自意識を持て余す彼らが、被災者すらdisるイタイ作法をネット上に持ち込めば、ウザがられるのは必至。
 当然、twitterではブロックされ、自分で自分の首を絞め、見る自由を自ら失うことになる。
 それでも彼らは、彼ら自身の人格や属性ではなく、作法そのものがウザがられていることに、なかなか気づかない。
 しかし、「まったく気づかない」わけではなく、いろんな人たちからブロックされてるうちに、自分の作法の間違いに気づくこともまれにある。

 不快な作法を平気でやっちまうtwitterユーザを、僕は息を吸うぐらいの速度でブロックする。
 すると、「twitterでのつぶやきを読みたいのでブロックの解除をお願いします」と公式サイトから丁寧な挨拶や詳細な自己紹介と共にメールしてくる人たちがいる。
 彼らが彼ら自身の作法の間違いに気づいたことを確認すると、僕は快く解除に応じている。
 どんな人にも、「のびしろ」はある。
 別アカで違う人格の書き込みをしてようと、真摯に謝ってきた人たちの誠意には報いたい。

 問題はむしろ、彼らの「のびしろ」を信じられず、彼らの成長を待つことができない大勢の人たちの側にあるのかもしれない。
 自己決定ができないまま自分の人生を自由に歩めず、それゆえに孤立もしている人たちには、経済的かつ心理的な余裕が日常的に乏しい。
 彼らは、「自分が被災したらどんな言葉で傷つくだろうか…」という想像ができないし、「他の人から自分の言動はどう思われているか」を適切に見積もる能力が低い人も少なくない。
 ひとりよがりな人は、自分をひとりよがりとは認知できず、社会を自分の目でしかとらえられないのだ。
 だから、自分とは異なる視座にいる「他者」の考えに関心を持つ作法こそが、マイノリティ(社会的少数者)である自分への寛容なまなざしを得るために必要なことだと気づかない。

 ネット上では、言葉のやりとりがメインになる。
 しかし、言葉で伝えられることには限界がある。
 言葉の読解が苦手である文化圏を生きる人々には、どんなにわかりやすい言葉や表現でも通じないのだ。
 コミュニケーションツールが言葉しかないがゆえに通じない、という限界があるのだ。
 そこで、「言葉が苦手」という異文化を否定しても、関係は始まらない。
 相手から見れば、こちらが異文化なのだ。
 その文化ギャップを越える作法こそが、お互いの平和なやりとりのために必要になる。
 経済的かつ心理的な余裕のある側の寛容さが、今、試されているのかもしれない。


 他人とは、誰でも「なかなか理解し合えない異文化の宇宙人」である。
 だが、日本人は互いに共通点で理解し合おうとする関係作法を客観視できないまま、「あの人とは合わない」を関係拒否の理由として正当なものにしがちだ。
 でも、自分も他人から見れば宇宙人だ。
 あらかじめ「ウマが合う」なんて勝手に期待するのは、幻想にすぎない。
 「合わない」のが、むしろ当たり前なのだ。
 合わないからこそ、人はお互いの平和のために自分とは異なる相手との関係作法(つきあい方)を学ぶ必要が出てくるんだよ。

 こんなことを書いてるからといって、僕が被災者を平気でdisる人たちとの関係作法にくわしいだなんて誤解しないでほしい。
 僕だって、彼らとつきあう作法における正解が何かなんて、わからない。
 わからないから、試行錯誤を続け、一つでも見つけようとするしかないんだ。
 彼らが、彼ら自身では自分の作法の間違いに気づけないのだとしたら、噛んで含めるようにわかりやすく説明したり、オフラインでの対面のやりとりに持ち込んだり、彼らにとってうなづける文脈や表現を探し続けるしかないと思ってる。

 熊本の実家でひきこもっていた人の中には、地震によって家屋が倒壊し、今なお圧死しそうで苦しんでいる人がいるかもしれない。
 それは、被災者を平気でdisっている人と同じように、経済的にも心理的にも余裕がなく、ひきこもるしかできなかった人かもしれない。
 地震が起きる直前まで、リア充を呪い、有名人をこきおろし、よのなかを憎んでいた人かもしれない。
 そういう人も、被災者にはいるはずだ。
 その人が有名であろうと、なかろうと。


 もし、そういう人が僕の近所にいて、助けを求めているなら、僕は必ず助けに駆けつける。
 日頃から僕をさんざんdisっている人であろうと、目の前で圧死しそうな人を見殺しにはしない。
 それは、僕だけじゃないはずだ。
 きみだってそうだろ?

 生き延びて、元気になって、被災者や世間、僕をdisるぐらい元気になってほしい。
 disることができるのは、生きてこそ、だからだ。
 誰かをネット上でdisれる環境にいる人は、自分の言葉で誰かをほんの少しでも助けられることに気づいてほしい。

 そして、誰もが「違う人」であるように、苦しかった今日までの日々と明日の1日は異なる。
 同じだったら、震災や原発事故、9・11テロやリーマン・ショックなど起こらない。
 社会は常に変わるから、個人の生き方も変えざるをえない。
 生きている以上、誰にでも「のびしろ」と人生の残り時間はある。
 僕はそれを信じたい。
 被災者も、被災者を平気でdisる人も、それは同じであるはずだ。

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