ある進学校の高校生は、母子家庭で育ってきた。
母親は2つ以上の仕事を掛け持ち、子どもの進学に困らないよう、日々一生懸命働いていた。
息子の高校生は、母を助けるため、アルバイトをしたいと通学先の高校に申し出た。
大学に進学するための費用を少しでも捻出したいという思いからだった。
すると、その高校は「生活保護を受給するくらいの貧しさでないと許可できない」とつっぱねた。
在校生に収入が入ることはすべてダメだという。
その結果、卒業しても大学に入ることができず、1年間は進学費用のために働きながら受験勉強を続けることにした。
このように、アルバイトが校則や高校の方針で「許可」されないことで、貧困一歩手前の暮らしを続けている家庭は少なくない。
だから、アルバイトをしたい高校生も全国に少なからずいる。
ネット上でも、なんとかアルバイトをしたい知恵を求める声が散見される。
なぜ、学校は在校生のアルバイトを認めないのか?
「勉学第一」の構えを崩さないからだ。
逆に言えば、学業成績さえ維持できれば、労働を禁じる根拠はどこにもない。
とくに、進学校ともなれば、家計を助け、進学費用を自力で調達したい高校生が、勉強と労働を両立させようと努力をする動機は確かだろう。
それでも労働をことさら禁じる理由は、進学校では高偏差値の大学に何人進学させたかが受験者数の増加とブランド価値のものさしになるからだ。
この「大人の事情」は、在学させる(=卒業させる)権利を人質にとって高校生を支配する構図だ。
経済的虐待といってもいい。
池田美千代さんのブログから |
しかし、より多くの在校生を優秀な大学に進学させ、受験料・学費などの利益とブランド価値を守りたいなら、貧困が危険視される家庭の子にはむしろアルバイトを推奨する方が向学心も担保できるのではないか?
それを卒業後に初めて自由にさせるとしたら、その高校が貧困から立ち上がる自助努力をしたい生徒の自由を不当にはばんでいるようにしか見えない。
貧困に対する関心の薄さが、校長以下の教職員にあるのかもしれない。
彼らには、内規を改めても問題ない仕組みを作るだけの動機がない。
時代状況の変化によって校則を変えることをしなくても、彼らはのうのうと食っていけるからだ。
その結果、教職員自身が思考停止に陥っているツケを、在校生が払う形になっている。
このように、「勉学第一」などのきれいな目的貫徹のために貧困寸前の親子から収入手段を奪う慣例・内規は、今日でも多くの土地に残っている。
教育だけでなく、福祉や医療にも、貧困へ導かれかねない仕組みはいくらでも散見される。
中流資産層以上で安定した生活を長い間続けてこれた人たちには、貧困寸前で必死に働くという実感がない。
中流資産層が突然に母子家庭や父子家庭になっただけで、どれだけ貧困寸前あるいは貧困状態に突き落とされるかの恐怖を、まともに考えたこともないだろう。
そして、「生活が不安なら生活保護を受給すればいい」などと平気で言う人すらいる。
生活保護を受給すれば、収入は頭打ちしてしまう。
高校生の選択肢である留学や大学進学のハードルは上がってしまう。
そうしたデメリットを解決できる仕組みを作りもせずに、安易に生活保護の受給を勧めていいわけがない。
むしろ、高校生のアルバイトを全面的に解禁するか、あるいは高校生自身が会社を作ったり、自営業を始めるなどして、自分の収益源を自力で作り出すしかないだろう。
さらに言うなら、通常授業あるいは課外活動の中に「起業教育」を新設し、地域の青年会議所にいる地元の経営者によって、自分の仕事を自分で作り出し、アルバイト収入より稼げる仕組みを作り出すことだろう。
同時に、よくあるマクドナルドなどの低賃金バイトではなく、時給単価が高い職種の豊富さを教える授業を設けてもいいはずだ。
教職者よりはるかに稼げる仕事がこの社会には山ほどあるし、高校生でもその子の資質・才能次第で収益を増やす職種も少なくない(※ネットビジネスのことではない)。
●夏休みに渋谷に「スゴい10代」を集めて大人を驚かそう
そもそも、高校の教職員が在校生をなるだけ高い偏差値の大学に進学させたがる理由は、より高い収入を得られる会社に入らせたいためだろう?
その目的が、高校生自身が作った会社で果たされてしまえば、そのことが高校にとって新しい勝ちになるはずだ。
東大や早慶に進学する生徒もたくさんいれば、在校時に教職員の給与をはるかに越える会社を作り出せる生徒も増えている高校に進化するなら、少子化の時代に受験者数もまだ増やせる。
もっとも、そうなれば、高校生自身が自分の受けている教育の価値を今より真剣に見積もることになるだろう。
親が出す学費の額面に見合うだけの教育内容や成果になっているのかを高校生自身が検証できるように育つなら、教職員は教育スキルの向上を常に求められ、先生=生徒の間に対等な緊張関係が生まれる。
そうやって、教えられる側が教える側を超えていける教育環境こそ、高校が目指すべきあり方なんじゃないかな?
いつまでも貧困寸前でふんばりながら働いているひとり親の負担を温存し、家計と進学のために働きたいと切実に望んでいる高校生の気持ちをふみにじるのは、本当にやめてほしい。
もっとも、こういう提言は、自分の生活が守られている教職員には届かない。
それは、校長・教頭が読む『月刊 高校教育』(学事出版)という教育専門誌で僕自身が10年ほど連載してきて、身にしみたことなのだ。
ほとんどの先生たちは、貧困寸前の親子の実態を見ようとしない。
勤務先の学校の校則や内規を、弱者のために改めようともしない。
僕は、怒りも哀しみも通り越し、呆れ返るばかりだ。
生徒は食うために学んでいるのに、教師は食う技術を教えられないのだから、むなしさを叫ぶだけ疲れてしまう。
もちろん、新しい時代は、若者たち自身が作っていくのが世の常だし、すでに高校生起業家は全国に増えている。
彼らがどんどんテレビや新聞、雑誌などで取り上げられるようになれば、それを観た高校生が発奮し、自分で自分の仕事くらい作れるようになり、既成事実が増えていくだろう。
既成事実が増えてしまえば、「許可」なんて実質的に無効化される。
だって、教職員に起業なんて教えられないんだから、生徒自身がしこたま稼いでしまえば、「勉学第一」なんていう学校の言い分なんて正当性がないものだと誰にでも理解できるものになる。
親より稼いでいる女子高生や、外国の方が知名度がある高専生、面白いソフトを開発して投資を集めてる10代など、人材を発掘し、日本の10代たちに「自分の収入は自分で作れる」という自信を与えたい。
自分と同世代ができることが、自分にだけできない理由はない。
自分の人生は、学校教育に頼らなくても切り開けることを伝えたい。
(このトークイベントの企画は、近く明らかにする予定。お楽しみに!)
【関連ブログ記事】
角川ドワンゴ「N高校」に決定的に足りていないもの
共感していただけましたら、下にある小さな「ツィート」や「いいね!」をポチッと…