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僕はプロなので、「ネタがありすぎるけれど、発表の時期などの諸々の事情ですぐには書けない」ことはあっても、ネタに困るということはない。
だから、「ネタがない」の意味を尋ねてみる。
すると、「自分が面白いと感じられることが身の回りやニュースにない」とか、「人の役に立つ情報が思い浮かばない」など、いろんな言い訳が返ってくる。
そういう返答を聞くたびに、「ネタのハードルを自分で上げてしまってるのでは?」と思ってしまう。
そもそも、素人がブログを書く際、プロが書いた記事の面白さや価値と張り合っても、あまり意味がないだろう。
僕自身、仕事ではないブログ記事に、メディア向けに執筆する仕事と同じ価値を込めようとは思わないし、むしろ仕事では書けない(あるいは自粛を要請される)内容を気軽に書く方がいいと思ってる。
実は、この「気軽に書ける」ところに、個人ブログの価値があるように思う。
あらかじめ歴史のある会社に信用を担保されたコンテンツではなく、一個人として素朴な疑問を投げかけるところにこそ、むしろブログの存在意義はあるのだ。
だから、新聞や雑誌などのように一つの事件や話題に識者や専門家のコメントを足して、いかにも記事の文脈に説得力をつける必要はないし、わからないことを「わからない」と表明する方が読者と等身大の感覚として共感されやすい。
だから、なにか特定の話題についてブログで書きたい時は、その話題にまつわる基礎的な知識についてはリンク記事を引用しながら読者の理解を促しつつも、その話題についてわからないことは「わからない」という構えを素直に表明すれば、十分、ブログ記事としての価値は担保される。
ところが、書きたい話題について大して調べもせず、何かがわかったかのように意見だけを先行させれば、「ああ、この人はひとりよがりな文脈をわかってほしいだけなんだな」という印象を与えて終わりになり、PVも増やせない。
わからないことは、決して悪いことではない。
確かにわからないことは多いだろうけど、こだわって考えたいことは、なるだけ関連情報を集めた努力の跡を示しつつ、疑問形で書けばいい。
その最低限度のリテラシーがないまま、よくわからないことまで意見を言いたがれば、読者から「ああ、承認欲求を持て余したイタイ人だ」という印象を与えてしまうだけなのだ。
実際、誰かの言葉に脊髄反射し、その言葉の意味の深さを理解しないまま、「批判するな」「反論してやる」などという構えで書いているブログは少なからずある。
そのように、誰かの言葉に動機づけられて書くような受け身の構えを自分がとってしまった時こそ、「本当に自分はその言葉の意味の深さを十分に理解してるだろうか?」と冷静に自問する時間が必要だろう。
そうやって落ち着いてから書き始めないと、現実を見誤るだけでなく、ゆがんだ認知のまま物事を受け入れる悪習慣まで身につけてしまいかねない。
事実、何でも賛成・反対/批判・賛同などの2項対立でしか意見を書けない人は多い。
個人ブログで大事なのは、そうした立場の表明よりも、「何がわからないか」を具体的に考え、表明することだろう。
たとえば、先日のろくでなし子さんの猥褻裁判における判決について、twitterやFacebookなども含め、いろんな人が意見を述べている。
でも、そもそも彼女のアート作品を観たことがない人は多いし、「一部無罪」(3Dデータ転送のみ有罪)の歴史的な意味を知らないまま、印象だけで「猥褻な作品を作ること自体がおかしい」などという意見を述べたつもりになっている人も少なくなかった。
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iRONNAより |
その疑問から出発し、どうしても有罪を求刑された作品を観る機会がないなら、「これなら有罪」という架空の作品を描いた画像を示しながら自分の意見を表明すれば、それ自体がネタになりうる。
どうしてもわからないことは、想像するしかない。
そして、想像や妄想に基づいていると先に読者に断っておけば、その意見自体が「ネタ」であることが読者にわかりやすくなる。
しかし、自分が単なる想像や妄想しか根拠にしてないことを明らかにしないまま、ただただ意見を殴り書くだけなら、それは端的に「偏見」の表明にすぎないのだ。
●わからないことを「わからない」と書くことで生まれる価値
意見を述べる前に、その意見の前提となる基礎資料を提示することは、書き手がフェアな情報をふまえているかどうかを判断するのに役立つ。
180度違う意見で対立している話題なら、なおのこと、両者の意見を並べるブログにしておかないと、一方的な立場しか読み取れず、読者の半分をあらかじめ敵に回す結果になる。
これは、ブロガーだけでなく、プロでも同様だ。
もっとも、プロと同じリテラシーを徹底しようと思えば、それなりの時間・労力・スキルを必要とするので、ブロガーが「気軽に書ける」という価値を守るつもりなら、何がわからないことなのかをネタにした方がいい。
前述のろくでなし子さんの判決の例で言えば、「みんな、彼女の立件された作品って観たことある?」というタイトルで記事を書ける。
記事の本文では、自分がネット上から探した作品の画像を公開しながら、「この他にもいっぱいあると思うけど、僕には追いきれない」と素直に書き、「これって猥褻なのかな?」と疑問形で書けば、ネタとして十分成立する。
実際、僕らの関心事には、わからないことの方がわかっていることより、はるかに多い。
その疑問を思いつくまま具体的に挙げてみれば、ネタなんていくらでもあると気づくはずだ。
それに答えるのに必要な資料を探す作業によって、記事はどんどん広がりを見せていく。
なぜ、ろくでなし子さんは、猥褻と指摘されかねない作品を作ったのか?
なぜ、裁判所は「一部無罪」という判決を出したのか?
なぜ、検察側は「罰金80万円」を求刑したのか?
なぜ、世界中のマスメディアがこの裁判を取材したのか?
なぜ、イギリスのロック歌手がこの裁判に関心を持ったのか?
なぜ、弁護団は「歴史的な判決」と評価したのか?
なぜ、朝日新聞だけが「一部無罪」と見出しをつけ、他のメディアは「有罪」と報じたのか?
なぜ、テレビでは一部有罪になった人の暗い表情しか映さず、笑顔の画像を出せないのか?
上記それぞれの疑問をより深く掘り下げて考えてみるだけで、ブログ記事はその疑問の分だけ作れる。
そのように疑問を感じることこそが、情報を広く集めるノウハウではプロに負けてしまう素人の個人の持つ価値なのだ。
だから、ブログのネタに困ったなら、自分の意見を書くことを急がずに、自分が関心をもっている話題の何がわからないことなのかに向き合ってみてほしい。
疑問は、意見よりも豊かな刺激を読者に与えられる。
すぐれた疑問は、個人的な意見よりもさまざまな考えを内包し、多くの読者を触発できる。
それが、自分の知らないことに対する謙虚さだ。
その謙虚さをふまえたブログは、読者の関心と共感を招きやすい。
そして、疑問を大事にすることは、新聞やテレビなどのマスメディアで報じられる内容とはべつの現実を浮かび上がらせたり、同じ話題をマスメディアにはない文脈で読み解く面白さにたどりつくかもしれない。
たとえば、ベッキーさんの不倫騒動について、「ベッキーを追いつめたのは、きみや僕かもしれない」というブログ記事を僕は書いた。
不倫の倫理的な是非で炎上していた頃、不倫そのものよりも「彼女を不倫に導いたのは誰なのか?」という問いを立て、疑問から出発した記事を書いたわけだ。
すると、100名以上がFacebookでシェアしてくれた。
日頃から自分がもっている関心のまなざしで問いを立てれば、マスメディアの投げかけた問いとは異なる文脈の記事が作れるのだ。
ご覧のブログ(今一生のブログ)は月間平均10万PVほどあるが、テレビや新聞などに比べれば、社会的影響の点ではるかに弱い。
しかし、影響力が乏しいメディアだからといって、嘆く必要はない。
むしろ、少ないPVだからこそ「気軽に書ける」のだ。
これが全国紙の新聞や有名雑誌などにお金をもらって書くとなれば、思いきった問いの立て方は許されない恐れがある。
親からひどい虐待を受け続けても、児童相談所にも保護されないまま自殺を思いつめている子どもたちがたくさんいることを僕は知っているので、「家出OK」と平気で書く。
昔、某新聞の記者から取材を受けた際、「家出OK」とコメントしたが、「弊社では載せられません」とカットされた。
その記者には、家出人を取材した経験も、家出人に関する警察発表の統計も調べたことがなかった。
なのに、「家出=非行(不良・虞犯行為)」と盲信していた。
なぜ、「わからないことは判断を保留する」という作法ができないまま、一律に「会社がダメって言うからダメ」で思考停止してしまうのか?
僕には不思議でならなかった。
社員ジャーナリストは、本当のことを調べないままでも飯が食えるから、自分の知らないことについて思考停止しても困らないのだろうと思ったものだ。
このように、マスメデイアが関心外にし、検証しないままになっている話題は少なくない。
なぜ、日本では売春は合法化していないのか?
なぜ、超高学歴層の官僚は、貧困や犯罪を生む仕組みを解決できずにいるのか?
なぜ、問題提起の報道が多く、多くの人が早く苦しみから解放される解決事例を優先的に報じないのか?
なぜ、芸能人にはどこまでもしつこく張り付いて掘り下げる記事があるのに、政治家や官僚などへの取材は記者クラブ内でお行儀良くやっているのか?
ほら、疑問は尽きない。
ブログのネタなんていくらでもあるのだ。
きみがいま感じた疑問は何?
それこそがネタなんだよ。
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