多くの人は、ついカメラの向こうにいる「世間」からのまなざしを感じ、品行方正な「良い子」として発言しようとしたり、誰からも嫌われないように相手や世間から期待される答えを考え抜こうとしてしまうだろう。
誰だって言いたくないことを初対面の相手や、ましてや世間にペラペラ告白したくはないからだ。
つまり、カメラの前での発言では、真実がキレイゴトで隠されてしまうことがある。
それは、ニュース番組で路上の市民に向けられる質問へのリアクションや、討論番組における発言も同様だ。
カメラが回れば、カメラの前にいる人は役者のように別人を演じてしまうのだ。
本業で役者をやっていようと、非日常的に突然差し向けられるマイクやカメラの前では、脊髄反射で「演じて」しまうことだってある。
映画監督の森達也さんは、常々「ドキュメンタリーは嘘をつく」と言っている。
そして、森監督の15年ぶりの新作ドキュメンタリー映画『FAKE』(6月公開)も、映し出された人間たちが「どこまで本当のことを言っているのか?」を疑わせる内容になっている。
それは同時に、「本当のことは一つだけなのか?」という問いかけでもある。
では、カメラがなければ、どうか?
そう考え、カメラを隠し、撮影されていることを知らせず、ある状況を与えることで、「もっと本当らしいリアクション」を引き出そうというのが、ドッキリ番組の面白さになる。
実際、アメリカのテレビ番組『What Would You Do?』(おまえならどうするよ?)は、隠しカメラの前で一般市民がどんな意外な反応をするのか、どんな「本音」をさらしてしまうのかを暴き出すことで、現実にある問題にさまざまな対処の仕方があることを浮き彫りにしてみせる。
レストランで食事をしていると、子連れのレズビアンカップル(※役者が演じている)が現れ、彼女たちの家族に対して女性ウェイトレス(※この人の役者)が性差別に基づいた説教を始めた。
それが延々と終わらない。
差別発言がいつまでも耳に入る。
あなたなら、どうするだろうか?
番組では、いろいろな客がそれぞれ異なったリアクションをする。
不快な気持ちでも観ないふりをする人もいれば、ウェイトレスを静止する人もいる。
これは、一つの現実に対していろいろな立場や見方があることを視聴者に見せることで、視聴者自身に考えさせる材料を与えている番組なのだ。
ただし、突然、奇異な状況を与えられた人々は、それだけでパニックに陥ってしまう。
ふだんならしない無視をしてしまうかもしれないし、逆に、ここぞとばかりに正義を演じたくなってしまうのかもしれない。
日常的でないテンションだと、本当にそれぞれのリアクションが「本音」なのか、「カメラがある時より本当らしい」ものなのか、即時に判断していいものかどうかは、疑わしいのだ。
僕は、誰かにインタビューし、記事を書くという仕事を25年以上も続けてきた。
自殺や児童虐待など深刻なテーマを長く追い続けてきたので、その当事者に話を聞くことは多かった。
つらい経験を話す相手にカメラを向けて写真を撮ることが、必ずしもあるわけではない。
むしろ、最初はカメラを向けたりはしない。
まずは、ゆっくり話を聞く。
相手が誰かに伝えたいことを引き出そうとする。
それは、相手自身が誰かにわかってほしいことを聞こうとするものであるため、必ずしも僕自身が聞きたいことではないことかもしれない。
それでも自発的に言いたいことを聞くことで、相手が何を切実に求めて生きているのかを知りたいのだ。
しかし、カメラを向けられないからといって、僕の知らない土地に生まれ育った相手の言葉から、「はじめまして」から始まるやりとりの中で、どれだけ「本当のこと」が拾えるだろうか?
あるいは、第三者でも検証可能な現実を浮かび上がらせることができるだろうか?
取材は、雑誌や本などに書かれることを前提にしている。
僕に会うこと自体、僕と会話すること自体、それを意識しないではいられないはずだ。
もちろん、聞いた話をすべて活字にするわけではないし、発表される文章では仮名で紹介することになる。
しかし、世間に発表されることを前提にしていれば、その人にとって都合の悪い過去や、納得しがたい文脈を言い出さないのは当然ではないか?
その結果、発表された文章は、「本当のこと」にどれだけ近いのか、あるいはどれだけ遠いのか?
●「本当のこと」を知ろうと思えば、時間も手間もお金もかかる
ある20代の自殺未遂の経験者を取材した後、その人から電話があった。
「オヤジが金属バットを持って追い回してくる。
一度でいいから自宅に来てほしい」
僕は仕事の予定を急遽調整し、神奈川の辺鄙な街にある彼の自宅を尋ねた。
居間に入ると、老いぼれて疲れ果てたようすの母親がいた。
2階の彼の部屋に案内されると、百科事典がずらりと並んでいた。
いろいろ話をしているうちに、僕は「恋人はいないの?」と彼に尋ねた。
すると、彼は「お母さんに連れて来てもらいたい」と言った。
恋人を母親に探してもらい、連れて来てほしいと望む20代後半の男…。
やがて夕飯時になり、母親の手料理をいただきながら、父親について尋ねた。
すると、母親はこう言ったのだ。
「この子の中学時代までは、酒浸りのお父さんが確かにバットをもって追い掛け回していた時がありました」
すると、父親がどこからか現れた。
その目は憔悴しきっており、アルコール依存症の果てにうつ病を患っているようだった。
とても、そのやせ細った体で暴れることなどできないように見えた。
「自宅に来てほしい」と言った彼は、自分が現在どれだけ生きづらいのかについて、ゆっくり聞いてもらえるチャンスがほしくて、過去の凄惨な事実を現在の大変さとして語ることによって切実さを演出し、僕を釣ったのだ。
生きづらさをこじらせて孤立を余儀なくされている人たちにとって、あるいは誰かに会う程度のお金すら持っていない貧困層にとって、自分自身の悲惨な境遇を伝える際、話を盛ったり、過去の不幸を現在の苦境のように語ることは、彼ら自身の生存戦略の一つだ。
それを「正しくない」と一刀両断したところで、「本当のこと」は見えてくるだろうか?
すぐに言えない深刻なことのほうが「本当のこと」に近い。
しかし、現実が深刻であればあるほど、「本当のこと」はにわかには言い出せないものだろう。
実際、生きづらい人には、簡単には他人に言えないことが山ほどある。
中卒で仕事がなく、万引きしなければ生きられなかった過去を持つ人もいる。
わが子を殺してしまったことを誰にも相談できず、遠方から告白しにこられた方もいる。
精神科への通院を重ねて、ようやく自分の生きづらさの原因が性的虐待の過去にあると自覚できた人もいる。
そうした「言いたくても言えない思い」を誰かに話すにはためらいがあり、年月がかかるのは、当然のように思うのだ。
それでも、彼らとの会話を何度も積み重ね、「話を盛らなくても、ウソをつかなくても、この人には何を話しても大丈夫だ」と思ってもらえる関係を築こうとすれば、少なくとも、曇りガラスのような言葉も少しずつ透明な現実を見せてくれるようになるのではないか?
そのように、関係の成熟に期待することがなく、ただ取材される側の言葉を鵜呑みにして活字や映像にしてしまえば、「本当のこと」はいつまでも宙吊りにされてしまう。
「たった今、金属バットで殴られそうな人がいる」という切実さは、多くの人々の心を瞬時にとらえるかもしれない。
それは、その状況から目をそらすことができないという点で、呪いにかけられたようなものだ。
しかし、それが事実ではないことを知るには、丹念に自分の目で確かめ、時間とお金をかけて会話を続けていくしかない。
(もちろん、自分が面白がれることだけを手短に聞いて、面白おかしく紹介したいなら別だが)
そういう丁寧さでなければ、取材結果として発表される文章や映像は、報道する側の思い込みの反映でしかなくなり、視聴者や読者は「何を信じればいいんだ?」と混乱するか、あるいは間違った事実や文脈をただ受け入れてこの社会を見つめることになるだろう。
それはいびつなまなざしで社会を観ることになり、いつまでも社会的課題の解決の方法を見誤り続けることを温存し、差別の温床にすらなる。
実際、ホームレスや生活保護の受給者などを「ただの怠け者」と認知している人は今なお少なからずいるし、ギャングスタになるような不良少年を「同情の余地もない低学力の10代」だと見下して思考停止する人も珍しくない。
そのように、自分のよく知らない人たちをわかったかのように断じる作法は、根拠なき絶望を導いてしまう。
「アメリカのドッキリ番組は、現実を直視させる」というブログ記事を読んで、「日本でやっても全面ボカシになるに決まってる」と考える人は、日本のテレビ番組の制作現場をご存知なのだろうか?
日本でも隠しカメラで撮影した一般市民に放送の許可をもらうのは当然だし、ボカシは必要最低限しか入れなくて済むよう、撮影自体をたくさんやって撮り貯めておく。
その程度の現場の仕事ぶりを知っているなら、中学生のように「全部ボカシになる」なんて妄想を平気でネット上に書いたりしない。
もっと自分の知らないことに謙虚になる必要がある。
僕自身、取材で多くの人々に会ってきたが、正直、よくわからないことのほうが圧倒的に多い。
同じ相手に何度会えば、第三者が検証可能な事実を聞き出せるのかも、人それぞれだ。
初対面の方と少なくとも1回会っただけでは、どこまで「本当のこと」を教えてくれているのか、それともべつのもっと大事な事実を隠すための方便なのかを判断することは難しい。
それでも地道に信頼関係を築きながら、少しでも「本当らしいこと」を積み上げていくことしか、僕らインタビュアーにはできない。
それも、潤沢な取材経費がなければ難しいし、体力的にも難しい年齢になってきた。
わからないことには、正直でいたい。
僕にできるのは、たったそれだけのことなのだ。
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