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■差別と洗脳から、誇りを守れ ~アリの死から学ぶ


 モハメド・アリが、死んだ。
 ボクサーの彼は、何と戦っていたのか?

 僕は小学5年生の頃に、アントニオ猪木とアリが戦う異種格闘技戦を、家の近くの中華料理屋のテレビで、カレー南蛮をすすりながら観た。
 子どもだったから、猪木に不利なルールが裏で決められていたことなど知る由もない。
 しかし、マットに背中をつけながら、しつこくアリにローキックを仕掛ける猪木の表情は記憶に焼きつき、壮絶な試合だったという印象を持っていた。

 その試合を紹介するテレビ番組や、映画評論家・町山智浩さんのラジオ番組『たまむすび アメリカ流れ者』などを視聴しているうちに、いろんな思いがこみ上げてきた。

 1960年、カシアス・クレイ(※アリの生まれつきの名前)は、18歳でローマ・オリンピックで金メダリストになった。
 しかし、故郷に帰ってきても、レストランでこう言われてしまう。
「黒人の奴隷野郎に食わせる料理はない」
 オリンピックで「世界一強い男」を証明して見せても、1960年代の当時のアメリカには黒人差別が当たり前のようにあったのだ。

 金メダリストでも、黒人なら尊敬されない。選挙権すらない。
 この理不尽な現実に怒ったカシアスは、金メダルを橋から川に放り投げた。
 そして、プロ・ボクサーに転向し、「俺は誰より偉い」と豪語した。
 これは、「俺は白人よりも上だ」という意味を含んでいる。
 そういうビッグマウスを平気で続ければこそ、負けるわけにはいかない。
 彼は、そうやって自分を追いつめたのだ。

 親からもらった名前も捨てた。
 その名前は、アフリカから奴隷としてアメリカへ連れてこられた先祖が、奴隷の所有者の白人の名前を入れられているからだった。
 イスラム教に改宗したカシアスは、「モハメド・アリ」と名乗るようになった。
 白人と同等に自分の尊厳を守りぬくには、新しい名前が必要だったのだ。

 アリは何と戦い続けたのか?
 町山さんは、ラジオ番組で重要な指摘をしていた。
 「俺は誰よりも偉い」というのは、白人が支配する当時のアメリカでは「問題発言」だった、と。
 黒人であるだけで、選挙権もなく、大統領になれるはずもなく、「白人より劣っている存在」として観られてしまう。
 そのように自分の尊厳を否定されていた黒人は、「黒人の自分なんか所詮、白人には勝てない」とうなだれるばかりだった。

 町山さんは言う。

「差別が恐ろしいのは、自己を否定させちゃうんですね。
 自己否定って、うつ病の始まりですよ。
 差別されてる人はみんな、”うつ病状態”にあるんですよ。
 うつ病状態にあると、何をやってもダメなんだと、前向きに進めなくなる。
 だから黒人って、貧乏なんですよ。
 これは、自己否定させる(社会の)システムの問題なんですよ。
 だからアリは、『俺はグレイテスト』って言ったんですよ。
 一人で差別に対して戦いを始めたんです。
 昔、ローマの闘技場で奴隷どうしが戦わされていたじゃないですか。
 あれと同じなんですよ。
 戦い続け、勝ち続ければ、奴隷であっても、尊厳を取り戻せるから」

 たった一人、アリは立ち上がった。
 たった一人からでも、社会は変えられる。

 町山さんの指摘は、さらに鋭くなる。

「でも、アリの戦いは最初、白人はもちろん、同じ黒人にも理解されなかったんですよ。
 だってみんな、白人より自分たちが劣っているのは当たり前だと思っていたから。
 自分が劣ったものだと思わされてきたから。
 洗脳されてるから。
 だから、カシアス・クレイからモハメド・アリに名前を変えた時も、他の黒人ボクサーはみんなそれに反発したんですよ。
 そして、カシアス・クレイという奴隷の名前で呼び続けていたんです。
 白人に逆らっているツッパリの黒人に対して、『良い黒人』が白人様のためにお仕置きをするという展開になっていったんです。
 だから、アリは彼らを『アンクル・トム野郎』と呼んだんです。
 白人に従順な、(自分の尊厳に)目覚めていない奴隷根性の抜けていない黒人野郎だと。
 だからアリは試合で、『俺の名前を言ってみろ、モハメド・アリだ、さぁ名前を言ってみろ』と言いながら殴り続けたんですよ」

 アリは、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行い、最終的に通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。
 アメリカの黒人解放運動は、アリをはじめ、多くの黒人自身の運動家によって拡大していったが、今なお差別が完全に解消されているとは言いがたい。
 それでも、アリや多くの有色人種の市民の戦いによって、白人社会の支配から少しずつ少しずつ解放されてきたのは確かだ。


●社会にとっての「良い子」になっても、落ちてゆく時は一人

 僕は、10代だった頃の仲間を思い出している。
 小学校の頃、勉強が苦手だった僕は、中学に入る頃には学年1位を常にキープする生徒に成り上がっていた。
 勉強ができないだけで先生から目をかけられるのが本当に嫌だったから、要領良く点を稼ぐ勉強法を見につけ、先生に一つも文句を言わせないようにしたかったのだ。

 だから、中学に入っても、仲間といえば、とても高校に入る希望が持てない偏差値の連中だった。
 そして、「なんで学校で教えられる科目の点が悪いだけで、教室で毎日居心地が悪い気持ちにさせられなければいけないのか」と怒り狂っていた。
 その思いは、高校への進学後、さらに強くなった。
 いくら仲間に勉強を要領良く教え、高校に全員を進学させたところで、彼らは彼らと同じように勉強が苦手で、好きでもない仲間を得て、卒業すればほとんど使うことのない知識を叩き込まれる3年間を送ることになった。

 彼らが「自分は勉強が苦手」と感じるのは、彼らにとって素直に「これは有益だ」と感じられない科目や、「これは面白い!」とワクワクできないものばかり詰め込まれるからだ。
 科目や教科書なんて、文科省の官僚や国会議員の連中が、国益に資する一部の連中にとって都合の良い仕組みとして決めただけだろう。

 彼らの基準に国民全員が合わせなければいけないのはおかしいし、「勉強は苦手」と感じる偏差値50未満の10代を科目以外で生きていけるようにするさまざまな配慮も本来なら必要なはずだ。
 しかし、大卒ばかりの官僚や、大卒ばかりの教師は、高卒以下の人たちに多様な進路を示すこともできず、よのなかにある職種を満足に教えることもなく、まるで黒人を見下ろすようなまなざしで低偏差値の高校生に進路指導を続けている。

 そうなると、勉強が苦手というだけで、最低限この社会を渡っていくために必要なことすら学べない人たちが出てくる。
 その結果、誰にも中絶を相談できないまま出産した赤ちゃんをトイレに捨てる女子高生もいれば、「おまえなんかどうせガンバっても大卒の年収にはかなわない」と洗脳する愚か者も生まれた。
 これは、大卒前提の連中が勝手に作った「社会のシステム(仕組み)」が悪いってことなんだ。

 彼らは、受験などのテスト勉強や資格取得のための勉強は得意かもしれない。
 しかし、自分に固有の才能を伸ばすことを「リスク」と認識するため、自分の才能に賭けることを「不安」だからしたがらない。
 大卒や資格で十分食えるから、そこで思考停止してしまうのだ。
 だから、高卒以下の学歴しか持ち得ない人に対して、「努力が足りない」だの、「勉強が苦手なら仕方がない」などと平気で言う。

 つまり、高学歴で官僚や政治家になって社会制度を作る側に回る人間は、高卒以下の人間に関心を持っていないのだ。
 それどころか、彼らにとっては、「いない人間」と同じだ。
 高卒者であるだけで、イチローのようにメジャーリーガーとして世界で認められる存在にならない限り、自分と同等の相手としてつき合うことがない。
 これって、アリがオリンピックで金メダルをとっても、入店を断るレストラン店主と同じじゃないか。
 つまり、社会の仕組みを作る側には、はっきりとした学歴差別があるのだ。
 だから、高卒者を大卒者並みに稼がせる仕組みを、教育の中で作ろうとしないんだよ。

 そういう高学歴による差別を前提とした政治家や官僚の作る社会の仕組みの愚かさに抵抗するために、民間で社会の仕組みを変える社会起業家が世界で同時多発的に増えてきた。
 それなのに、高学歴ばかりが雁首を並べた「新公益連盟」なんて民間団体が生まれ、政治家に政策を働きかけようとしている。
 「高卒以下の人間を導いてやろう」という構えにも呆れるが、大きな力を求める野心も恐ろしい。

 大きな力を持ちたがる人を、僕は警戒する。
 さまざまな人たちが生きているこの社会を大きな力で動かしてほしくはないし、「力さえあればこの世界を動かせる」という野望がどんな現実を産んできたか、歴史を見ればわかるはずだ。 
 確かな変革を産み、育めるのは、力に頼らず、知恵と勇気と愛を信じる者だけだ。

 社会起業家がソーシャルビジネスによる社会変革を進めたいなら、自分の作り出す商品・サービスが、社会的課題に苦しむ消費者自身のニーズに合致するものかどうかを問うのが本筋だろう。
 金のある人しか恩恵を受けられないサービスを真っ先に作ったり、高額で払えない人には金を恵んでやるという構えは、優秀な社会起業家たちが積み上げてきた信頼を台無しにするものだ。

 弱い人ほど、自分の苦しみを無理なく解決できる仕組みを望んでいる。
 そういう人が安心して使える社会インフラを作ろうとするならば、真っ先に社会的弱者の声を聞くはずだし、社会的弱者の多くを占めるのは、高卒以下のはずだ。
 そして、日本社会全体ではまだ大卒者が高卒者の数を超えていない。

 そこで政府だけでなく、民間までが「高卒を導いてやる」なんて傲慢な発想で動き出すようすを観ると、「薄っぺらい正義ほどいかがわしいのだ」という思いを強くする。
 ビートルズの『リヴォル-ション』を聞いて、少しは学んでほしいものだ。

 以上を読んで、「あ、自分は低学歴だから差別され、高学歴の人たちの無関心によって『何もできない人』のように思わされてきたんだ」と気づいたなら、自分を否定するのは、もうやめよう。
 高学歴の人にはできないことが、山ほどある。
 歴史上一番たくさんレコードが売れて国境を超えて愛されたビートルズの4人も大学に行ってないし、日中国交正常化をなしとげた田中角栄(元総理)も中卒だ。
 パソコンを世界に知らしめたアップルのスティーブ・ジョブズも大学なんて辞めてしまったし、モハメド・アリは拳一つで世界中の差別されている人々に大きな勇気と希望を与えた。

 そうした社会変革は、誰にだってできる。
 大卒の人より自分が劣っているなんて、思わなくていいんだ。
 高学歴の官僚や政治家がきみに植えつけた「どうせ私なんて」という洗脳から、きみ自身を解き放とう。
 彼らが大衆を見下ろすように「高学歴に対する劣等感」と一方的に呼んでいるものは、高学歴ではない人にとってはただの「洗脳に対する違和感」にすぎないのだから。
 嫌う相手を自分にする必要はない。
 嫌うなら、自分を生きづらくする仕組みを作った高学歴の差別野郎たちにしておこう。

 最後に、アリの信念について歌った『The Greatest Love of All』という歌を贈ろう。
 (※日本語で歌えるように訳してみた)
 



僕らがどう生きるかで 子どもたちも変わるんだ
きみにもある輝きを 少し見せて
無邪気に微笑んでた 子どもの頃のように

みんな見上げたくなるヒーローを探してるね
僕は見つけられなかったけど
孤独が教えてくれたんだ 「自分次第」と

誰かの影は 追わない 昔決めたんだ
たとえどうなろうと
信じたとおり生きてやる
この誇りだけは誰にも奪えない

そうさ きみも きみのままでいいんだよ
他の人には代われない命
みんなに愛されなくても
守っていこう きみらしい輝きを

僕らがどう生きるかで 子どもたちも変わるんだ
きみにもある輝きを 少し見せて
無邪気に微笑んでた 子どもの頃のように

誰かの影は 追わない 昔決めたんだ
たとえどうなろうと
信じたとおり生きてやる
この誇りだけは誰にも奪えない

そうさ きみも きみのままでいいんだよ
他の人には代われない命
みんなに愛されなくても
守っていこう きみらしい輝きを

たとえ夢を くだかれても
きみの輝きは 消えないよ 明日も…

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