参院選の前日である7月9日、秋葉原で安倍総理の選挙演説の周辺に「アベ政治を許さない」というプラカードを掲げた人たちが現れた。
安倍・自民党の支持者たちが圧倒的多数を占めるその場所で、彼らは少数者であり、無力だった。
彼らが去った後、たった一人で何も言わずに静かにプラカードを掲げ続ける中年女性がいた。
そこで彼女がどうなってしまったのか?
以下の動画を見てほしい。
その場に居合わせた方が記録し、Youtubeにアップしたものだ。
小さな体で黙ってプラカードを掲げるだけのアクションをしている彼女に対し、安倍・自民党の大きなプラカードでしつこく囲い込もうとする男がいた。
「朝鮮の方ですか?」と声をかける男もいた。
「目がいっちゃってるんじゃないのぉ?」と揶揄する男もいた。
「帰れ! 帰れ!」と煽る人たちもいた。
「早く排除すればいいじゃん。なんで排除しないんだよ! 早くつまみ出せよ」と叫ぶ男もいた。
SPあるいは私服警官と思われるスーツの男たちが彼女によって起こるトラブルを警戒し、彼女をひきづるようにその場から半ば強引に移動させた。
僕はこの光景を、「恐ろしい」と感じた。
自分がされたら絶対にイヤなことを平気で弱者に対してしてしまう人たちがこんなにいたのだ。
その事実を、心底怖いと思った。
この動画には、続きがある。
彼女と、彼女を半ば強引に連れ出した黒スーツの男が会話しているのだ。
「あなたがいると、トラブルになっちゃうから。
あなたと反対の意見がいるから。帰りましょ。あなたのためだから」
黒いスーツの男は、そう言った。
たった1人をその場に置くことで起こるトラブルを未然に防ぐには、その一人だけをその場から遠ざければよいとする発想は、警備上、合理的だろう。
しかし、その合理性は、トラブルを起こすのが彼女ではなく、彼女を口汚くののしる人たちや、彼女の行く手を阻もうと回り込むような暴力で彼女の自由を奪おうとする支配的な構えを平気でとる人たちの方が、あまりにも危険で狂信的であることを裏付けている。
治安を守るのが仕事である警備スタッフにとって、政治思想の右・左に関係なく、たった一人をよってたかっていじめていることにまったく無自覚な集団がその狂気を暴走させてしまうのを恐れるのは当然だからだ。
それゆえに、「あなたのためだから」という言い分は、おかしい。
むしろ、「彼らは狂信者だからあなたを救い出す仕事を僕はしなければならない」と説くのが正解のはずだ。
人としての心があるなら、そして民主主義を理解しているなら、「あなたがいるとトラブルになる」なんて理屈が通るわけがない。
なぜか?
●民主主義マインドのない多数決は、あなたを救わない
たった1人の無力な中年女性が、周囲の全員から罵倒され、小突かれ、倒されたようすを目の前で観て、「おまえら全員、間違ってる!」と叫ぶこともなく、救いの手も差し出さないなら、イジメに加担するただのチキンな人間だ。
そして、その通りのことが秋葉原で起こったのだ。
自分と違う意見を持った人間に対し、「帰れ!」と罵り、「朝鮮人か?」と問い、「排除しろ」と叫ぶばかりの集団が、そこにはいた。
しかし、彼らだって1人になれば、「きみが女性にされたことと同じことをされてもいいの?」と尋ねれば、きっと「イヤだ」と言うだろう。
自分の意見が周囲のみんなと違ったら、disられてもいい? イヤだよね。
自分が力の弱い中年女性だったら、小突かれて倒されても構わない? イヤだよね。
自分が日本にいる朝鮮人だったら、よってたかって攻撃されてもいい? イヤだよね。
そこで「仕方ない」と思えば、何らかの少数者属性になるだけで誰も味方になってくれない社会のままだ。
戦争をしてない平時の社会において、「アウェイな場所(敵陣)へ行く人は周囲からよってたかって責められてもいい」なんて考えを持つ人は、自分の愚かさに気づいてほしい。
人は、自分らしく生きようと思えば、社会の中で常にアウェイなんだよ。
自分の心を殺して生きてもいいなんて社会は、誰にとっても生きにくい。
ガマンを強いる社会の仕組みは間違ってるんだよ。
不当な仕組みにガマンし続けていては、誰も幸せになれない。右や左の政治思想を持つのは自由だけど、目の前で困っている人に自分の手を差し出さないなら、そんな思想なんて結局はひとりよがりにすぎない。
自分の思想と近い団体と同調するだけで満足し、多様な考えを認めない人に、さまざまな思想が共存している社会を考えられる余裕なんてあるだろうか?
社会は、思想の違いを超えて共通する価値で成り立つ。
それは、目の前で不意に倒れた人がいたら「大丈夫ですか?」と声をかけ、起こしてあげるようなことだ。
そのことに、右や左の思想はいらない。
なのに、前述の動画では、スーツ姿の私服警官しか、そのアタリマエのことをしなかった。
はっきり指摘しておく。
そこに居合わせた民間人は、感情が劣化している。
感情が劣化してしまえば、自分自身の痛みもわからず、それゆえに他人の痛みもわからない。
だから、「おまえら日本国を愛しているなら、なぜ小突いたり、罵倒したり、恥ずかしい真似をするんだ? それが平和を愛する日本人のすることか? 恥を知れ!」と怒る人が一人もいなかった。
それどころか、そこにあったのは、半笑い、薄ら笑い、せせら笑いだけだった。
彼らは既に民主主義を放棄している。
というか、彼らだけでなく、日本人はまだマインドとして民主主義に目覚めていない。
当然、ほとんどの日本人は主権者意識にも目覚めていない。
戦後70年間、僕らが民主主義だと学校やメディアから教えられたのは、ただの選挙の手続きとしての民主主義にすぎなかった。
ただ黙って静かにプラカードを掲げて反対の意見を示すだけで、多くの人に「気持ち悪い」なんて思われてしまうとしたら、誰も自分の意見を社会の中で言えなくなってしまうだろう。
それにガマンを続けるばかりで、「仕方ない」と思うしかないという心性そのものが、主権者意識の欠如であることにもピンと来ない。
社会を変える主権者が国民の自分であるという自覚がないのだから、どんな社会にしたいのかを政治家におまかせにしてしまう。
つまり、民間人である自分自身の毎日の仕事によって社会を変えるという当たり前の主権者意識が、十分に育ってないままなのだ。
しかし、そんな日本社会の中でも、「生きにくい社会をもっと生きやすい社会へ変えていこう」と、ビジネスによる社会変革を始めている少数者もいる。
生きづらい社会の仕組みに気づかせ、この社会をもっと生きやすい場所へ変えようと動き出す人たちだ。
彼らには、思想の右・左はない。
切実に苦しんでる人がいれば、その苦しみから救い出せる仕組みを作るだけだ。
今は少数者でも、時代は常にそういう少数者によって変わってきたのだ。
30年以上前にマイコンを使い始めた人は「ヲタク」として蔑まれたが、30年後の今、パソコンを使えない人の方が仕事にも就けず不便になっている。
こうした事例は山ほどあって、人々の潜在ニーズに即した社会を作るには、民間で地道に動く方が合理的であることも理解できるはずだ。
こうした事例は山ほどあって、人々の潜在ニーズに即した社会を作るには、民間で地道に動く方が合理的であることも理解できるはずだ。
日本人は、自分自身がこの社会の中で少数者属性であることを、なかなか認めたがらない。
少数者属性であると認めてしまえば、多数派からのバッシングや同調圧力が怖いからだ。
しかし、どんな人間も生まれながらに自分を生きる。
同じ人間など1人もいない。
自分らしく生きようと思えば思うほど、少数者属性になる。
自分自身にとってウソのない生き方をしようと思えば、人は社会の中で少数者属性になる。
自分らしく生きることは、アウェイの状況を自ら作ることなのだ。
自分にウソをつきたくなければ、アウェイの中で同調圧力に負けずに孤高を貫くしかない。
孤高を貫けば、同じ志の仲間にも会える。
逆に、空気を読むばかりの同調圧力に屈してしまえば、戦争の足音が聞こえてくる。
戦争を回避するには、日頃からみんなと同じを強いてくる同調圧力に負けないことだ。
同調圧力に気づかせ、議論の余地があると言い続けることを、家庭や学校、会社やさまざまな団体の中で試してほしい。
僕らにはまだその程度の希望はあるのだから。
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