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■24時間テレビを感動ポルノと批判したバリバラの快挙

 「~ポルノ」という言葉は、いくつもある。
 いかにも母国に誇りを持てそうなネタを仕組んで愛国心を刺激しようとする「愛国ポルノ」
 ふられた人が、かつての交際相手の恥ずかしい情報を公開しては、相手を貶める文脈を作り上げる「リベンジポルノ」
 サクセス・ストーリーに酔わせて自己啓発させる本は、「キャリアポルノ」と呼ばれている。
 そして、多数派を気持ち良くさせる意図によってマイノリティ(少数者)を英雄視させるいやらしい表現は、「感動ポルノ」という。

 今年、障がい者の感動ネタで寄付金を釣る日テレの『24時間テレビ』の放送時間に、NHKの番組『バリバラ』(バリアフリーバラエティ)は、「笑いは地球を救う」という番組をぶつけてきた。

 そして、はっきりと『24時間テレビ』を感動ポルノだと批判した。
 いかにも「お涙頂戴」だったり、ふつうのことをしただけで笑顔でほめまくるような感動シーンで障がい者を持ち上げてみせる番組は、障害を持つ当事者の9割を不快にしていたのだ。

 それは、番組で紹介されたアンケート(※以下の画像)で明らかにされた。

 感動ポルノに対して、当事者ではない健常者は鈍感だが、障害者の多くは嫌いだった。
 これで、『24時間テレビ』の番組制作が当事者の声を反映したものではないことがハッキリした。


 当事者の声は、当事者に聞かなければ、わからない。
 わからないうちから一方的に相手のニーズを決めつけることは、テレビ番組の制作現場ではよくあることだ。
 これは、NHK Eテレの自殺関連の番組にもいえることだし、全国紙の新聞にもいえることだ。

 では、なぜテレビや新聞といったマスメディアは、障害者を「同情すべき人」あるいは「感動を与える存在」に仕立てあげてきたのか?

 その問いを考える前に、「感動ポルノ」の言葉で問題提起したジャーナリスト兼コメディアンの故・ステラ・ヤングさんのTEDでのスピーチを約10分間、観てほしい。


(※下にあるアイコンの右から4番目をクリックすると、日本語字幕が出る)

 ステラさんは、「障害は悪いことではない」と言い、「障害があってもがんばれ」という美談がはびこっている現実を指摘する。
 そのように特定の存在を感動の対象にすることによってトクする人がいる、とも言っている。
 「自分はまだ恵まれている」と健常者に思わせるために、障害者が存在しているかのような誤解が正当化されているが、「私たちが乗り越えたいのは、障害そのものではない。社会からもたらされる障害(=みんなが私たちを特別視すること)は身体や病状よりひどい」とステラさんは言う。

 その点で、『バリバラ』は野心的な番組を制作してきた。
 健常者がしている恋愛・セックス・婚活・就活・アート活動などが障害者にもあることを紹介し、「SHOW-1グランプリ」という”障害者芸人”によるお笑いコンテストも制作してきた。
 そうした画期的な取り組みの延長線上に、「お笑いは地球を救う」が生まれたのだ。

 こうした取り組みを観て、「障害があったから注目されるのは嫌だ」と感じる人もいるだろう。
 しかし、芸人として出演したい人にとって、”◯◯芸人”としてカテゴライズされるのは、むしろふつうの売り込み方であり、特別視とは真逆の作法といえる。
 芸人として目立つために、「ハーフ芸人」や「高学歴芸人」など自分のキャラを最大限に活かすことで芸を観てもらうチャンスを作るのは、王道だからだ。

 それを考えれば、自分には障害という強みがあったんだという気づきは、芸人を目指す当事者にとってはうれしいことかもしれない。
 もちろん、実際に芸人としてメシを食って行きたいなら、『バリバラ』以外の番組や他局にも出演できるようにしていくことが求められるだろう。
 それが、芸人としてふつうのことだからだ。

 そこまでの売り込み指南を『バリバラ』がしていくのかどうかはわからない。
 だが、『バリバラ』はこれまでもスタジオゲストだった障害者たちをドラマに出演させたり、障害者芸人とプロの芸人を共演させてお笑いビデオを制作するなど、知名度を上げるという点では意欲的な番組制作を行ってきた。
 チャンスは十分に与えられた。
 あとは、”障害者芸人”自身が自分にとって納得できるお笑い活動をどう展開していくのかについて、番組の外でのありようを紹介してほしいものだ。



●当事者の声を聞かない報道は、あなたと常識を支配する

 さて、NHK『バリバラ』が障害者自身のニーズをふまえているのに、日テレの『24時間テレビ』はそれができないのか?
 そして、なぜ両足に麻痺が残る少年を無理やり登山に連れて行き、父親にどつかれることまで「感動」に仕立てあげようしたのか?

 同じテレビ番組でも、番組の制作費を誰が出すによって、制作方針が変わって来るからだ。
 NHKは、番組制作費に充てられる視聴料を直接、視聴者から受け取る。
 視聴者からの声に応えなければ、当然、NHKに直接苦情が入り、局内で問題になる。
 そうなれば、視聴者はNHKに視聴料の不払いをしかねない。
 不払い者が増えれば、番組制作費が減り、最悪の場合、局内の誰かのクビが飛ぶ。

 一方、企業がCM枠で莫大な広告費を提供し、それを番組制作に充てている民放は、NHKのようなリスクは負っていない。
 視聴者が特定の番組に対して不満でも、局やBPOに苦情を言う人が一部に出てくるものの、よほどのことがない限り、企業が一斉にスポンサーを降りることは珍しい(※かつてはあった)。
 民放テレビ局・ラジオ局にとって、広告は主な収入源なので、スポンサー企業を喜ばせるには、視聴率の高いコンテンツが最優先の番組制作の方針になる。

 視聴率を上げるには、より多くの人が観たがる番組を作る必要がある。
 それを「多数派が観たがる内容」という具合に誤解すれば、マイノリティ(社会の中で少ない属性の人たち)は出演者やスタッフから日常的に除外される。
 障害者はもちろん、LGBTや外国人、帰国子女や中卒以下の低学歴層など、マイノリティとして判断された人は、番組制作のメインとしては認知されないのだ。

 それどころか、そうしたマイノリティに光を当てるはずの番組でも、マイノリティ当事者の声をあらかじめ尋ねることはしない。
 実はこれ、東京在住者の作法かもしれない。
 NHKの『バリバラ』も、NHK大阪が制作している番組なのだ。
 在日外国人、ホームレスなど、障害者以外にも差別の問題が根強く顕在化している大阪だからこそ、「笑い」に包んで現実を浮き彫りにさせるという作法が生きている。

 同じEテレで自殺関連の番組が、自殺を思いつめたことのある視聴者の一部に不信感や嫌悪感が根強くあるのは、自殺経験の当事者の声をそのまま番組に反映させようという作法が成熟していないからだろう。
 成熟していなくても、彼ら自身は、視聴率さえとれれば何も困らないのだから、成熟を動機づけるチャンスはあらかじめ失われている。

 このままだと、ディレクターが番組を制作する以前の企画段階でも、当事者の声を十分に取材しないまま企画書を作るという悪習慣も温存される。
 そういう番組制作の現場では、よく知らないマイノリティについて頭の中の妄想や一般的なイメージを裏付ける映像さえ撮れれば、仕事が終わってしまう。
 それは、マイノリティの既存のイメージを上塗りするだけであり、前述のステラさんがもっとも嫌うことだ。

 それでも、そのような安易な方法で番組を作る方が、短時間で視聴率が取れる仕事ぶりになるのだから、やめられないのだろう。
 もちろん、本物の取材というのは、それまでのイメージやものの見方を根本的に変えてしまう文脈を現実の中から新たに発見することだ。

 たとえば、家出人を「不良」と一方的にみなす風潮があるが、現実の家出人は親からのひどい虐待から避難するために家から飛び出し、早めに安定した居場所と仕事を得ている。
 家出後の生活はふつうの人と変わらないので、ドラマチックな映像にはならない。
 すると、凡庸なディレクターは「視聴率が取れない」と嘆き、過激な暮らしぶりをしているレアケースの家出少女の売春を探し出しては撮りたがり、それが家出のマスイメージとして定着してしまったのだ(※家出人で犯罪の加害・被害に遭った人はたった6%程度/警察庁の発表)。

 以上をふまえれば、テレビや新聞といったマスメディアが、障害者だけでなく、マイノリティの人たちを「同情すべき人」あるいは「感動を与える存在」に仕立てあげてきた事情を理解できるだろう。
 3・11の本でも、やたらと感動の文脈で売れ筋に仕上げた”ノンフィクション”が書店に並んだ。

 そうした「感動」は、当事者の求めるものと違うのは明らかだ。
 マイノリティ当事者をダシにして、自分の稼ぎを守ろうとする人たちを、僕は軽蔑する。
 それは、当事者にしか持ち得ない固有の経験や苦しみという価値を、自分自身の生活のために奪う「さもしい作法」だからだ。
 むしろ、他人を害しても平気でいられるそのさもしい作法こそ、キャリアポルノと呼ぶにふさわしいのかもしれない。

 『24時間テレビ』では、1年間に1度しかない全国放送のチャリティ番組なのに、障害者の自発的な意志とは無関係に無理強いをさせ、そのことによって出演する芸能人は莫大なギャラをもらい、広告代理店とテレビ局は大儲けしている。

 しかも、小さな子どもが1年間、一生懸命に貯金箱に入れて、寄付したお金は、福島の被災地にオカリナ100個を提供するのに使われるなど、TVチャリティでしかできないわけでもない用途に使われている。
 もちろん、福祉車両を福祉団体に寄付してもいるが、団体へ施しをすれば、団体自体が自分たちの力で活動経費を賄うだけの自助努力を動機づけなくなり、結果的に団体にはいつまで経っても経営力が身につかず、『24時間テレビ』への依存度が高まるばかり。
 これでは、団体の世話になっている障害者も、全国各地で着実に増えている「自分のやりたい仕事を作り出す取り組み」を、ゆめにも思わなくなるかもしれない。

 当事者の声を大事にしない報道は、取材対象・視聴者・寄付者などを支配し、常識やマスイメージを固定させ、マイノリティの苦痛をいつまでも温存するのだ。

 しかし、時代はいまこの時も、常に変わり続けている。
 魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えるのが、当事者の自立・自由・尊厳を守る。
 難民にネイルアートを教えて仕事を作り出しているアルーシャのような事例も増えている。
 番組制作も、福祉の仕事も、ソーシャルビジネスへ変えていくことで、当事者満足度の高いものに進化させていく時代なのだ。
 報道関係者だけでなく、視聴者のあなたも覚えておいてほしい。

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