映画『シン・ゴジラ』が大ヒットしている。
僕自身、3回めの鑑賞を今度こそ新宿で果たしたいと思っているところ。
そこで、ゴジラ関係の面白がれる小ネタを集めてみた。
これを知ってるだけで、『シン・ゴジラ』はもっと楽しめるだろう。
★『シン・ゴジラ』の物語・設定が似てる意外な映画
『シン・ゴジラ』は、キャラ設定ではアニメ『エヴァンゲリオン』や特撮短編映画『巨神兵東京に現る』、会議シーンでは昭和の名作映画『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)などに部分的に似てはいるし、そういう指摘をする人は少なくない。
ただ、原爆実験で眠りから覚まされた巨大生物が日本を襲い、核爆弾による殲滅が検討され、冷凍化を試みるというストーリーや、その巨大生物が大田区から上陸して東京を火の海にするので、無人電車爆弾を試み、某プランで事態を収束させるという設定は、1965年の映画『大怪獣ガメラ』(大映)をそのまま踏襲しているといえるだろう。
平成ガメラシリーズの特撮を担った樋口真嗣さんが『シン・ゴジラ』の監督をしているのだから、当然かもしれない(※庵野秀明さんは総監督・脚本の担当)。
東宝でゴジラ第1作が公開されてから11年後に公開された大映の『大怪獣ガメラ』では、第1作のゴジラが身重50メートルの設定だったのに対し、ガメラは60メートルに設定されている。
動物学者も登場し、モノクロで撮影されており、「ゴジラ超え」を意識しているのは明らかだ。
しかも、原爆実験をした国は「某国」とされ、アメリカへの輸出をしやすくしている。
Youtubeにイタリア語字幕版がアップされていたので、確かめてみるといい。
(※会話は日本語そのままなので、日本人なら楽しめる)
★新宿の東宝ビルのゴジラを間近で見る方法
『シン・ゴジラ』の公開を機に「ゴジラロード」と名付けられた118.5メートル(※シン・ゴジラの身重と同じ)の通りの突き当りには、東宝ビルがあり、屋上からゴジラの顔が見える。
そのゴジラは、毎日12時・15時・18時・20時に「サプライズ」を起こすので、デートの時に使えるかも(?)。
この屋上ゴジラ(ゴジラヘッド)を間近で観たい人が多いせいか、公式サイトによると、以下のように書かれている。
「ゴジラヘッドご見学によるテラスへのご入場及びホテルエリアへのご入館について は、ホテルご宿泊のお客様と8 階カフェテラス・ボンジュールご利用のお客様に限 らせていただきます」
土曜日・日曜日・祝日・繁忙日(夏休み等の期間)は、 8 階カフェご利用のお客様に1 階ホテルエントランスで当日朝 10 時から当日分の整理券が配布されるそうだ。
このホテルやカフェは、とにかくゴジラづくしで楽しそう。
行けない人は、下記の動画を楽しんでほしい。
★第1作の『ゴジラ』を解説する町山智浩さんの「怪獣映画の楽しみ方」
映画評論家の町山智浩さんは、Youtubeで公開した解説動画で言う。
「怪獣映画とは、怪獣に共感する人が観に来てる」
「ゴジラ映画が他の映画と違うのは、破壊者である怪獣を応援しないと成立しない映画」
「一般的な常識・価値観に生きていて、この社会の維持を信じてる人は、怪獣映画を観に来ない」
『シン・ゴジラ』で庵野秀明・総監督がリスペクトしていた第1作の『ゴジラ』は、アメリカ映画が描くように「みんなでモンスターを倒して終わり。バンザイ!」という話ではない。
市民社会を信じて疑わない人と、ゴジラという破壊神と、人を信じられなくなった科学者という3者が登場し、ラストでゴジラを殲滅させても決して明るく演出されないのだ。
『シン・ゴジラ』のラストも重厚な重苦しい音楽で終わり、エンドクレジットに戦いが今後も続くことを暗示するマーチが流れる。
この後ろめたい演出は、どこから来るのか?
社会学者の宮台真司さんは『シン・ゴジラ』評で「破壊の享楽」自体の後ろめたさを指摘している。
市民社会の安心を維持したいと思う一方で、「何もかも破滅してしまえ!」という暗い欲望を僕らは抱く。
ゴジラ映画が約束してきたのは、その「破壊の享楽」であり、それを娯楽とすることへの後ろめたさを日本の怪獣映画は担保してきたというのだ。
この指摘は、町山さんの第1作の『ゴジラ』評にも通じるものだろう。
僕が書いた『シン・ゴジラ』に関するブログ記事では、この後ろめたさの背景には社会的孤立があると指摘している。
●「破壊の享楽」という暗い欲望を持たせる怨念に気づけ!
他にも、実写映画監督としての庵野秀明さんが面白くするためにした工夫について論じたモルモット吉田さんの『シン・ゴジラ』評は面白かったし、『シン・ゴジラ』で描かれた被災状況が日本の歳出額に匹敵する年間80兆円を超えるとした外資系コンサルファームの人の試算も面白かった。
ただし、『シン・ゴジラ』は、あくまでも絶望を描ききろうとした映画だ。
日本政府は最大に理想的な動きをしようとも、暴れるゴジラを制止させるところまでしかできないことを露呈させたからだ。
被ばくという不当な政策によって怨念を背負ったゴジラが暴れるのを止めたところで、怨念が消えたわけではないし、制止から解放されれば、東京駅にいるゴジラへ熱核攻撃をしたいアメリカの思惑も消えていないし、アメリカに隷属するしかできない現実も変わらない。
だから、制止させただけで「日本はすごい!」なんていう喜びや希望を感じている人がいたら、宮台真司さんが『シン・ゴジラ』評で書いたように「頓馬」なのだ。
『シン・ゴジラ』で描かれたゴジラは、たとえば貧困家庭や自分を虐待する親元に生まれ育ったために中卒や高卒で社会に出ざるを得ず、世間にバカにされ、低賃金の重労働を強いられてきた人のようなものだ。
そうした社会的弱者がまともにメシを食うために罪を犯しても、いつかは刑務所から出てくる日が来るように、社会の不当な仕組みに対する怨念を誰にもいやされないまま、シャバと刑務所を往復するような人生を強いられている人たちは少なくない。
高学歴→高所得という社会の仕組みを信じて疑わず、「その仕組みの恩恵にあずかれない人は支援してやればいい」という思考停止のまま、低学歴でも高所得を得られる仕組みを教育内容に盛り込むことを関心外にしてる人には、日本の怪獣映画が本来もっている怨念や破壊の享楽という暗い欲望を感じ取ることは難しいだろう。
まだ『シン・ゴジラ』や第1作の『ゴジラ』(本多猪四郎・監督)を観てない人は、ぜひ観てほしい。
ゴジラが東京を火の海にするシーンで「狂い」を感じ取れたなら、自分の内側にある暗い欲望にも思い当たってほしい。
それこそが、ゴジラ映画を深く楽しむ王道なのだから。
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