そこで、前回の記事「シン・ゴジラを観て泣いた ~きみやぼくが育てる異物」では、ネタバレなしの内容を書いた。
完全に人間ドラマを捨象し、ゴジラ視点のみで観た場合の物語として、アバウトに本質的なことを書いた。
今回は、既に観た人を対象に、2回めに確認したことをふまえ、「シン・ゴジラとは何だったのか?」について書いてみたい。
『シン・ゴジラ』は、東京湾に無人のプレジャーボートが発見され、船内に靴が揃えて置かれていたことから、乗組員が海に身を投げてしまったことから始まる。
身を投げた人は、牧博士。
彼の妻は放射能の影響で亡くなっており、それが政府の失策であると考えた牧博士は、日本政府を呪っていた。
しかし、妻がいつどのような形で被爆したのかについては、詳細は明かされていない。
後でハッキリするのは、牧博士が放射能の無害化の研究に取り組み、その延長線上に発見できた未知の生物の生態についても研究していたことだ。
ここで大事なことは、牧博士が身投げした後で、同じ東京湾内で水蒸気爆発が起こり、そこからシッポを見せた未知の巨大生物が東京に這うように上陸し、その姿を見せたことだ。
目が大きく、深海に棲んでいたと思われるこの巨大生物は、やがて後ろ足で立ち上がり、海に戻っていく。
その後、鎌倉方面から再上陸するのだが、巨大化したその生物は「ゴジラ」と呼称された。
牧博士がゴジラの覚醒(あるいはシン・ゴジラとしての誕生)に影響を及ぼしたことは間違いない。
しかも、このゴジラがどこを進んでいくのかは、牧博士の残した資料にあった。
ゴジラと牧博士は、一体化したのだ。
ゴリラが巨大化したキングコングや、最初のハリウッド版にあった巨大化したトカゲ恐竜とは異なり、シン・ゴジラは生物であると同時に人間の怨念を背負って動く怨霊なのだ。
だから、銃火器などの通常兵器では、傷一つ負わせることができない。
ものすごい集中砲火や爆破を何度仕掛けられても、びくともしないのは、怨霊だからなのだ。
牧博士が愛する妻を失った哀しみは、失策をとった政府への呪いに転じ、牧博士はゴジラとして「荒ぶる神」に生まれ変わってしまった。
だからゴジラは、無差別殺傷を当たり前のように日本政府の置かれた東京で展開する。
マンションの中にいた女性は、倒壊するビルの揺れで床は斜めになり、悲鳴を上げる。
ゴジラの通った場所で遺体捜索をする消防隊員の目には、瓦礫に埋もれた遺体の足だけが飛び込んでくる。
主人公の矢口蘭堂は、映画の冒頭、不測の事態に想定内のことしか考えようとしない政治家に向かってこう言う。
「根拠の無い希望的観測は、禁物です。
先の大戦(※第2次世界大戦≒太平洋戦争)では、300万人以上の国民が犠牲になりました」
そして、映画の終わり間際、矢口はゴジラ出現による被災者の数を「およそ360万人」と言った。
この甚大な被害をふまえるだけでも、この映画に容易に希望など感じることはできない。
牧博士が愛する妻を放射能の影響で失ったように、米軍の水爆実験で被ばくした第5福竜丸の船員や、福島原発の事故で被ばくした現場職員や福島の市民など、原子力政策や地震対策に失敗して国民を犠牲にした政府の罪は重い。
同時に、被ばくした当事者や、被ばくで愛する人を失った人などの思いは、どこにもぶつけようがない。
その、なんともいえない、いたたまれない思いを、この映画では牧博士の哀しみが怨霊化したものとしてゴジラに託しているのだ。
その証拠は、ラストシーンにある。
シン・ゴジラのシッポの先に、人間の形をした突起物が5体以上あるのを、わざわざクローズアップで見せるのだ。
あの1体、1体が、今日まで原水爆で被ばくして命を落とした人々であり、同時に愛する人が被ばくした哀しみを無力ゆえに持て余す人たちの怨念そのものであり、その怨念によってシン・ゴジラが動いていることのエビデンスだろう。
だから、シン・ゴジラは、何のためらいもなく街を壊滅させ、無差別殺傷に突き進むし、それを止めようとする軍隊には放射熱線で全滅させ、東京を文字通り火の海にしてしまうのだ。
もちろん、そうした牧博士の怨念を、博士の写真と資料しか提供しない映画の中で観客が読み取るのは難しいかもしれない。
それでも、妻をなくした時の牧博士の哀しみを人間ドラマとして描くシークエンスはいらなかったはずだ。
その代わりに、口を180度にまでおっぴろげ、放射熱線で360度方向を無差別に焼きつくすシン・ゴジラの狂ったような暴れぶりが描かれたのだから。
それが理解できれば、なぜ人間ドラマを極力抑え、登場人物にさほど感情移入させず、シン・ゴジラが破壊の限りを尽くすシーンが、一部の観客の胸を熱くさせ、涙を流させたのかについてもピンとくるはずだ。
シン・ゴジラが暴れている時、鎮魂歌のような重厚な音楽が流れる。
それは、怨念を受け止める覚悟を政府に問うている牧博士のやりきれない思いかもしれない。
政府に怨念をぶつけることは、自分と同じ「被ばくによる死者と遺族」を増やすことになってしまうのだから。
軍事力解決の試みは、シン・ゴジラの前に、怨念をまったく止められなかった。
しかし、シン・ゴジラを少しでも知ろうと、牧博士の残した資料を読み取ろうとした科学班は、この道の巨大生物を静止させるところまではできた。
逆に言えば、政治家や官僚などが奇跡的に事態を収束できたといっても、その程度止まりだってことだ。
それを考えれば、現実の政治や行政にはこの程度のことすら期待できないことを意味している。
つまり、ハッピーエンドや希望とは言いがたいのだ。
東京駅のそばに、シン・ゴジラが全身固まって屹立している。
その状態は、原子炉と共に生きていかざるをえない、どうしようもない現実に向き合っていくしかない覚悟を問うものだからだ。
政府の失策によって犠牲を強いられた人々の怨念を鎮めるだけの覚悟を問うものだからだ。
誰に覚悟を問う?
この映画ではほとんど登場しない、僕ら民間人に、だろう。
科学=論理では回収できない怨念は、心で感じるだけで映像化できない。
『シン・ゴジラ』は、あえて映像化しない部分を観客に想像させる映画なのだ。
●映像であえて描かれなかった被災者・天皇(皇居)・民間人
この映画には、シン・ゴジラの狂ったようなすさまじい暴れぶりがある割に、焼けただれた人たちが画面に映ることはないし、巨大生物に踏みつぶされて手足を失う人たちも出てこない。
この映画で被災者は、一瞬だけ動揺する描写か、数字でしか表現されていないのだ。
おそらくこれは、この映画自体が、虚構をリアルに描くことによって、描かれていない現実をリアルに想像させる意図をもって制作されたからだろう。
その意図は、アメリカ人だけを首から下しか映さないカットを観てもうかがえる。
だから、広島・長崎の原爆投下直後の写真を見せても、今この時も収束していない福島原発の写真は見せない。
見せないことで、「福島原発の事故」に思い当たらせようとしているのだ。
これは、怪獣を見せないまま、事態の変化に動揺する被災者の視点で怪獣の存在感を想像させた2008年公開のアメリカ映画『クローバーフィールド HAKAISHA』と同様の手法だ。
(※日本では、怪獣の姿が出ないコメディ映画『大怪獣東京に現る』が1998年に公開)
映像に組み込まれず、想像させたものの一つには、天皇や皇居の存在も含まれる。
『シン・ゴジラ』には、第1作で描かれたように、皇居の前で180度ターンする描写はない。
それどころか、シン・ゴジラは東京駅周辺に立ち、放射熱線で周囲を焼きつくす。
その距離なら皇居は一瞬で丸焼けだが、皇族は全員、緊急避難指示の段階で京都の御所へ避難あそばされた、なんて説明もない。
これも、描かないことでむしろ天皇の存在を意識させる意図があると思えば、理解できることだ。
そして、何よりも物語から疎外されていたのは、民間人だ。
科学班の作戦に一部協力している人か、極秘情報を洗うフリーライターが出てくる以外は、逃げ惑う群衆としてしか民間人が描かれない。
これも、「主権者のあなたが選んだ政治家はこの程度でしょ。あの無能な連中にあなた自身の未来を任せたままでいいの?」と観客に疑問を投げかけているように受け取れる。
実際、不測の事態が起きても、事態のもつリスクを最小化した想像しかしたくない総理や、緊急事態になっても会議の席では予定調和のことしか言い出さない政治家が描かれ、総理が不意に亡くなっても「とりあえず暫定総理」になる人材がいかにも頼りなく表現される。
その人物を国会に送り出したのも、民間人である観客のあなたですよ、と言いたいのだろう。
それゆえ、どの登場人物にも感情移入しにくいキャラ設定になったのだと思われる。
では、なぜ、虚構をリアルに描くことによって、描かれていない現実をリアルに想像させようとしたのか?
もちろん、3・11から5年しか経っていない時点での劇場公開で、被災するということのリアルが生々しい記憶としてあるから、という事情も考えられる。
しかし、総監督を務め、脚本も手がけた庵野秀明さんの個人的な怨念がそうさせたように思えてならない。
(ちなみに、僕は一度、庵野監督とBOX東中野の2階の店で会ったことがある。平野勝之監督の『白 The White』のパーティだった。少しだけ話をしただけなので、忘れられているだろう)
新作準備中の『エヴァ』を作り続けられず、うつ病になり、自殺まで思いつめていたという庵野さんの孤独は、日常的にこの社会の中で生きる「異物」としての自覚があったはずだ。
そんな状況でオファーされた今回の映画制作では、ゴジラを人類にとってまったく未知の生物として描くことによってのみ、誰にも理解されずに攻撃される無敵の存在を描けるとふんだはずだ。
僕はパンフレットを買っていないし、ほとんど何の知識もなくこの映画を観た。
だが、それだけで十分、庵野さんの誰とも自分自身の孤独を分かち合えない底知れない怨念を感じてしまった。
シン・ゴジラの造形もとんでもなく怖く設定され、「みんな死んじまえ!」と言わんばかりに狂ったように全身から放射熱線を放ちまくっては無差別殺傷をくり返すシン・ゴジラの凄みは、庵野さんの個人的な内面の発露そのものだろうし、アーチストが表現する理由はそれ以外に無いはずだ。
だから、この作品に映像化された世界と現実をつないでいるのは、表層的には原子力政策の失敗を続ける政府と、それを放置している主権者(≒民間人)に対する呪詛だろうけど、その奥底には「異物としての孤独」があると感じ、最初に観た感想に書いたのだ。
異物にされた孤独は、怨念に変わるのだ、と。
この映画は、ニッポンに「怨念を受け入れろ」と覚悟を迫る。
「異物としての孤独」は、被ばく者に特有なことではない。
現代社会を生きる世界中の人々が、一歩間違うと、こじらせてしまいかねないものだ。
リストラされて希望を失い、誰からも見捨てられたように感じ、自室にこもり続けてる人。
自分の考えが学校やマスメディアで教えられることとは異なり、自己否定の不安を持つ人。
庵野監督のように才能がありすぎて、なかなか周囲に理解されずにいつも悶々としてる人。
ネットで容易に人とつながれる期待をもっても、現実では思うように理解者に会えない人。
そんな人が『シン・ゴジラ』を見れば、狂ったように無差別殺傷をやりまくる巨大生物に、怨念の放たれた姿を観るだろう。
それは、すべてを破壊する快楽を分かち合える希望すら感じさせる。
怨念は、それを受け止める覚悟を持つ者によってしか、鎮められない。
怨念を鎮める試みなんて、絶望的なことかもしれない。
それでも、矢口蘭堂が最後に言ったように、「やめるわけにはいかない」のだ。
怨念を持つ人は、決してきみ1人ではないからだ。
シン・ゴジラが変態を重ねて進化したように、僕らには今こそ「シン」が必要なのだ。
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