このテーマで何を書こうかを決めないまま、とりあえず快諾した。
快諾してから、「前向きって何だろう?」と考え始め、頭の中がモヤモヤ状態なので、このブログ記事に考えを書きながら整理してみよう。
「前向き」と聞いた時、あなたが具体的に思い浮かべるイメージは何だろう?
いつも元気で、深刻な悩みもなく、笑顔で友だちに囲まれている人?
あるいは、性格がとくに明るくなくても、自分のやるべきことにひたすら邁進し、努力する喜びを知っている人?
少なくとも、日常的に自殺や家出、失恋、人間関係、勉強や生活などの不安に揺れていない人のこと?
ますます、わからなくなってきた。
そもそも、「前」とは何を意味するんだろう?
明るい未来へ向かおうとすることが「前向き」だとするなら、自殺を考える人でも、自分の未来をとりあえず自殺に決めることで希望を感じられる人もいる。
そうなると、「前向き」とは自分の未来を自分で設定できることなのか。
もし、そうだとすると、小学生にとって「前向き」という言葉でイメージできるのは、達成される根拠はないけど、とりあえずぼんやりと信じてみたい夢みたいなものなのかな?
あるいは、今日ケンカしてしまった友だちと明日には仲直りできるはずだと肯定的にとらえることのできる自信のことなのかな?
確かに、自分自身の気持ちを自分で鼓舞し、自分をそれ以上落ち込ませないようにしようとする心持ち(=自分を否定しないようにできる作法)そのものが「前向き」といえるのかもしれない。
小学生という人生経験の乏しい年頃の子にとって、「前向き」とは新しい経験に対して不安を覚えても突き進んでいくことになるのかも。
さまざまな初体験にこれからいくらでも直面することになる小学生にとって、すべてが無茶振りとして受け取るはずだし、誰もが自分にとっての初体験を経て大人になっていくはずだ。
実際、小学生の高学年にもなれば、夢精や自慰など「親に見られたくない行為」が増えたり、恋愛や将来の夢など「大人や周囲に内緒にしたいこと」が増えてくる。
エロ本は隠すし、好きなクラスメイトの名前は悟られたくないし、親を上手にだまして18禁のゲームを買ってもらうような知恵も働かせるようになる。
もっとも、今日ではその「前向き」な構えを育てるには、さまざまな障壁があるように思う。
友達の家に遊びに行くのを禁じられたり、日が暮れた後の校舎に残って密かな遊びを仲の良い子と楽しむこともできないし、スマホを持たされていると近所の大学生の暇なお兄さんの家で同世代の子どもからは仕入れることのできないロックを教えてもらうチャンスも乏しい。
空き地はないから放課後はショッピングモールのフードコートでジュースを買い、同級生と宿題を片付けたり、野良猫もいないから川辺で一人遊びをして親が帰宅するまで時間を潰したり、親には経済的な余裕がないから休日はずっと家の中で悶々としているなど、ともすれば生活のすべてが親と教師などの「大人の包囲網」の監視下で窮屈になり、孤立化を強いられることもあるだろう。
そうした光景はどこか監視社会的で、「良い子養成ギブス」をつけられているような印象がある。
しかし、思春期に差しかかる頃は、秘密を増やすことで自分らしい内面を作り、誰にも侵されずに済む自尊心の保ち方を模索するために、性欲や暴力、恋愛などの「毒」に対する関心と免疫をつけるための経験を積み重ねていけるはずだった。
ところが、そうした毒気は今日、子どもの健全さを不安がり、理想の「良い子」を望む大人たちにとってことごとく否定される。
よその子と同じようにスマホを持たされれば、いつどこにいても親に知られてしまうし、学校教師は忙しすぎて相談相手にはなりにくい。
そこで育ちつつある内なる毒気を肯定し、自尊心の保ち方に手を貸してくれるのは、教師や親ではなく、兄弟や親戚、地域の大人やメル友などになる。
いわゆる「ナナメの関係」というやつだ。
小学生の高学年あたりになれば、自分の生きている社会が家族や学校だけでなく、その間にある地域社会やネット空間、ふだんは会わない遠方の親戚やTVで観る有名人、小説やゲームなどの虚構空間などに開かれていることを知っていく。
そうした「家族や学校ではない場所」では、家族や学校では否定されるような文脈や行為が許容されやすい。
ケンカしたことのない子どもには、目の前でケンカをさせて腹に一物を隠すような生き方をダサいと教えることもできる。
あえて無茶ぶりをさせて、やがて仕事に就いた時に理不尽な命令にもしなやかに対応できる知恵を発見させる。
自分の関心や経験の範囲だけで物事を判断する愚かしさを教えるために、自分なら付き合わない人と組ませて共同作業から何かを学ばせる。
そのような型破りのコミュニケーション・チャンスを作り、増やし、現実の深刻さに耐えられるだけの経験を積ませるのが、「ナナメの関係」の役割だ。
そうすることによって、世間にある常識にダマサれずに済むように育てるのだ。
現実の社会には、絶対的に正しいというルールはないことを学ばせるのだ。
●自分を窮屈にするルールは、疑ったほうがいい
僕の若い友人の小幡和輝くんは、3歳から15歳まで12年間も自室にひきこもったゲーマーで、もちろん、不登校歴12年の猛者。
彼には、ゲームを競う相手がオンライン上にいたのだ。
それも「ナナメの関係」といえる。
それゆえに夜間部の高校生になってから、ゲームのように現実を面白くするイベント運営ビジネスを始め、今日では和歌山県では知らない者がいないという有名起業家に育った(まだ大学生よ)。
小幡くんが親の望む通りに小・中学校へ渋々行っていたら、和歌山を面白くする人材として注目される若者にはなれなかっただろう。
「ナナメの関係」に恵まれないまま大人になると、ビックリするほど大人にとって従順で、都合の良い子に育ってしまうからだ。
たとえば、高学歴になれば高所得にありつくチャンスが生まれるという良い面だけを信じさせれば、そのルールを信じた自分が中卒や高卒など低学歴で社会に出た人たちに劣等感を与えてしまうという悪い面に気づかず、自分の立場だけで社会のルールを作ることにためらいがなくなる。
実際、東大出身で官僚になった連中には、社会制度の設計に携わるのに高卒以下の国民の所得増や、障害者の福祉改善ができる仕組みを本気で考えられる人材がいない。
これは、電通や博報堂などの大手の広告代理店、在京テレビ局・新聞社の社員などの高所得者層も同じ。
自分さえ金が回れば、低学歴層の暮らしぶりなど関心外になる。
関心外にしても何も困らないご身分だからだ。
そうしたひとりよがりな連中がマスメディアで発信する文脈やメッセージにすっかり毒された家族や学校のルールが厳しければ厳しいほど、本来の子どもはそれに反発し、強いられた既存のルールよりも面白く楽しく心安らげる場所を求めていくのは当然。
「ナナメの関係」のある寛容な場所では、実社会からは肯定的に受け取られていない「毒」に労力と関心を注げる自由があるからだ。
それは新しい時代の空気を呼吸することそのものだが、既得権益的な価値観にしがみつく大人たちからは常に眉をしかめられてしまう。
1960年代、エレギ・ギターに興味を持てば、大人たちから「不良になる」と言われた。
1970年代、マンガばかり読み漁ると「バカになる」と言われた。
1980年代、コミケに行くような「おたく」になると、幼児を殺すようなヤツかも、と警戒された。
1990年代、「キレる少年」は殺人を犯しかねないと、警戒を煽る報道が盛んだった。
今日、ロックバンドをわが子が始めても、それだけで「不良」と決めつける人はいない。
マンガを読んで育った大人は、わが子にマンガを読むのを禁じたりはしない。
コミケの人気は右上がりに育ち、「おたく」は世界共通語になった。
結果的に勝つのは、社会に違和感を覚え、既存のルールを疑いながら育っている子だ。
平和でワクワクできる新しい時代を築けるのは、大人に逆らって孤独の中で自分を信じ続けてきた者だけなのだ。
しかし、「キレる少年」は減って草食化が進み、他人に気持ちをぶつけられず、自分を責めるばかりの子が増えた。
そういう子は、「前向きな子」とは呼ばれない。
自分の未来に自殺を設定することで今日の面倒を乗り切る希望を持てても、つまり、自分で自分の未来を設定できても、「前向きな子」とは呼ばれない。
それでも、子どもは、自分が知った毒気を、自分だけは肯定したい。
肯定しなければ、今日を生き残るための自尊心を保てないからだ。
そこで、「自分の毒気を肯定したいのに、肯定できなくてつらい」というジレンマが生まれる。
だからこそ、子どもの周囲に多様な「ナナメの関係」が必要になるのだろうし、同時に毒気を否定したがる既得権益的な家族や学校に対しては、こう問いかけていく必要があるのだろう。
あなたは子どもの先回りをして毒消しに夢中で、「良かれ」と思いながら子どもから自尊心を奪っていないか?
あなたは子どもを窮屈にさせるばかりで、家族や学校の外側へ追いやるように導いていないか?
あなたの「前向き」は、子どもにとって本当に「前向き」に映っているだろうか?
……と。
「前向き」の「前」は、時代とともに常に変わってゆく。
それを知ろうともしない作法は、大人の知らないところで「老害」と呼ばれるだけだ。
無自覚な老害ほど、子どもを苦しめる存在はない。
そんな声にビクビクするぐらいなら、うしろ向きでOK!
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