顔面問題とは、顔にケガ、病気、先天異常などユニークな何かをもって生きるために、困難を強いられている人たちの問題のこと。
石井さん自身、生まれつき顔面の右側に単純性血管腫(赤あざ)がある。
このマイノリティ属性の問題は、まだ多くの人に認知されているとは言いがたい。
そこで、このユニークフェイス問題を扱った貴重なNHKの番組を参照してほしい。
ユニークフェイスの活動再開について、石井さんは以下のように公式サイトに書いている。
いま考えている活動としては少人数でのハイキング、食事会。
幼稚園や小中学校でのイジメの予防対策。就職時の面接対策など。
少人数での活動からはじめます。
石井政之のもっている経験(学校でのイジメ回避術、文章を書くことで友人を増やす、就職試験の突破方法、自営業と会社員の両方の経験、恋愛・結婚・育児の経験など)をお伝えしながら、若いユニークフェイスの未成年の子どもたちの持っている能力を開花するお手伝いをいたします。
必要に応じて、専門家の協力を得ていきます。
文筆業、NPO、会社員などの経験から、豊富な人的なネットワークがあります(カウンセラー、法律家、NPO、メイクアップなど)。
私が住んでいる東三河地域は、海、山、河の自然環境に恵まれています。
東京からも新幹線で日帰り移動が可能。大都市名古屋は通勤圏。
豊かな自然があり、移動も便利です。
できるだけ野外での活動をしていきたいと考えています。
そのユニークフェイスの子供を育てている、お父さん、お母さんとともに、子供の 「現在」「未来」を考え、育てていく活動になっていければ、楽しい時間を過ごせると考えています。
ひとりボランティアですから、できることは小規模です。
けれども数時間いっしょに過ごすことで、一生忘れることができない貴重な「何か」をお伝えしていきたい。
2007年、僕は東京大学の学生自治会主催による自主ゼミの講師を請け負った。
その際、第1回めに「『私』を生きる、という困難を超えるために」と題して、顔にアザのあるジャーナリストとして有名な石井政之さんをゲスト講師に招いた。
その当時までの石井さんの略歴を、彼自身の自筆年譜から紹介しよう。
1965年、名古屋出身。豊橋技術科学大学卒業。
1999年、顔にアザや傷のある人を支援する市民団体「ユニークフェイス」を設立。
2003年、日本ジャーナリスト専門学校非常勤講師に。「現代文化論」(教養)担当。
2006年、合同会社ユニークフェイス研究所を設立。
アザを持つ人たちの現状を伝えるドキュメンタリー映画「ユニークフェイス・ライフ」の上映会をミニシアターや公共機関を中心に各地で開催。
もっとも、こうした「大人になってからの活動履歴」だけでは、石井さん自身のユニークフェイス活動への動機を理解するのは難しいだろう。
そこで、東大の自主ゼミで彼が話した「活動を始めるまでの履歴」を、ここに再録しておこう。
●顔にあざがあったからこそ生まれた夢
子供から「その顔どうしたのか?」と聞かれ、本人としては困惑するばかり。
石井さんは言う。
「当時は、病名について説明する知識ゼロ。
説明方法を知らなかった。
名古屋大学病院で、ドライアイス治療を開始。
痛いだけで治療効果はなし。
当時は幼児にはその治療方法しかなかった。
母は完治しないと知って、小学校入学前に治療は中止に」
彼には「小学校時代についての記憶がほとんどない」という。
ところが、中学に入ってからは状況が一変。
「イジメから身を守るために、1年生の1学期のテストをがんばる。
成績の良い者を子供は尊敬し、いじめの対象にしないことを知る。
不良の同級生とすこしだけ交流。
集団で他校(朝鮮人が多かった)とケンカをしたところ、すぐに私の顔から身元がばれて、教師に呼び出されて説教される。
顔にアザのある人間には匿名性がないことを思い知らされた」
そこで石井さんは「顔や人格などとは関係なく、実力本位の生き方をしたい」と思い、エンジニアになろうと、工業高校電気科を受験、合格。
高校に入った彼は「虚弱体質の克服といじめから身を守るため」柔道部に入部。
2年生になると極真空手に入門。
カモフラージュメイクについて学ぶために化粧品会社に出向くと、そこにはアザのある女性が働いていた。
これに感動した彼は、「この会社に入社したい」と思い,すぐに人事課に手紙を書いた。
だが、「大学卒業」が必要条件という返事で、受験勉強を開始。
推薦入学選抜で大学に合格した彼に、「顔のアザを完全に隠す化粧品開発研究」という夢が生まれた。
大学では「大嫌いな子供に慣れるため」ボランティアサークルに入ってダウン症、自閉症の子供を2年間担当し、「かなり子供に慣れたと思う」。
4年生になってピースボートに乗った石井さんは、ベトナムクルーズに参加。
枯れ葉剤被害をみて、報道写真家になることを決めた。
「夢は、顔にアザのある人を世界規模で取材するジャーナリストに変更された」
自分が自分であるというだけで抱えなければならない重さを、石井さんは物心ついた頃から引き受けてきたのだろう。
その後、社会に出て企業広告の記事を執筆していた27歳の頃、彼は「不安神経症のようになった」という。
「理由は、(1)誰にでもできる仕事をすることに嫌気がさした。(2)顔面問題取材を先送りすることへの焦燥感」
その後、「何もかも忘れて新しいテーマを探すためにレバノン取材に向かう」ものの、彼は顔にアザのある女の子の家庭と出会ってしまった。
「やはり顔面問題を取材するしかない!」
そんな使命感に駆られて帰国した彼は、「人間にとって顔とは何か」(講談社)が刊行されているのを知る。
ユニークフェイス問題について世界の最先端事情をまとめた翻訳書だった。
アメリカが研究の本場であると知った彼は、1996年にニューヨーク市立大学ブルックリン校に入学した。
「ニューヨーク市内の図書館で、顔面と心理についての英語論文の収集と読破に励む。
ロンドン(英国)、トロント(カナダ)に渡って顔面問題を取材。
欧米ではユニークフェイス問題が研究テーマとして認知され、セルフヘルプグループが社会に根付いていることを知ってしまった」
そして1999年3月、処女作『顔面漂流記』を出版。
本格的にジャーナリストとして顔面問題に取り組み始めると共に、市民団体「ユニークフェイス」を立ち上げ、毎月の定例会(ピアカウンセリング)を実施していった。
そんな石井さんが、会社勤務と結婚を果たし、子育てをする50歳になった今、ユニークフェイスの活動を再開するのは感慨深いものがある。
とくに、大企業でCSRを担当する社員の方には、他社と横並びのCSRではなく、ユニークフェイスのような、まだ認知度の低い社会的課題にこそ社会的責任投資を行ってほしい。
それでこそ、CSRの独自性と社会的価値が高まるというものだ。
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