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■知的障害者が無理なく楽しく働ける姿(前編)

 NPOなどの非営利活動の組織が、活動にかかる費用(=活動コスト)を埋め合わせるために調達していた財源は、長らく以下のようなものだった。

◎国・自治体からの補助金
◎企業・財団からの助成金
◎一般からの寄付金
◎活動に共感した個人・法人が出す年会費
◎活動の世話になる人からのサービス利用料

 上記のうち、補助金・助成金・寄付金が収益源の多くを占める団体は、今も多い。
 しかし、補助金=税金の財源を決める政治家は、慢性的な歳入不足を埋め合わせるために増税と借金を重ね続けている。
 これでは、同じ金額を毎年もらい続けることができても、実質的には目減りしてるのと同じだ。

 たとえば、年間300万円の補助金をもらって、1人の職員を常勤で雇う場合、雇われた人は、いつまでも定額の給与のままがほとんどだし、消費税や所得税などの税率が上がり続ければ、商品単価も高くなるため、実質賃金が目減りしてしまう。

 国や自治体の福祉予算はあくまでも政治家が決めるため、同じ額面の補助金を同じNPOに毎年つける保証はどこにも無い。
 助成金や寄付金も、景気が回復しない限り、1つの団体に渡す額面の上限は増やせないし、NPO自体が増えていく昨今、こうした助成金や寄付金はNPOどうしにとって奪い合いになるだけでなく、同じNPOが5年後も10年後も持続的にもらえる保証も無い。

 それでは、いつかは活動規模を縮小せざるを得なくなったり、常勤職員をクビにする他になかったり、最悪の場合、活動休止を余儀なくされることもある。
 こうした現状に対する危機意識によって、全国のNPOは「事業型NPO」として進化しようとしている。

 自分たち自身のビジネスを作り出し、独自の財源を持つことによって、国や自治体、企業や財団などの「他人まかせの金」に頼らなくても活動コストを賄えるようにしようというわけだ。
 自分たちが行うビジネスなら、自分たち自身が自由に目標金額や〆切り、業務内容を決められるため、収益を増やすことも減らすことも他人からの支配を受けずに済む。

 これは、「補助金・助成金・寄付金がないと何もできない」という思考停止を辞める良いチャンスになるだろう。

 長らく補助金・助成金・寄付金に依存した経営をしてきたNPOの場合、年1度の申請書さえ通せば、年間で収益が生まれるため、既存の社会の仕組みでは生きにくい人たちに対して、自分たちの活動によってもっと生きやすい社会の仕組みに変える活動の成果や方法、精度を厳しく問うことが動機づけられていない。

 生きづらい人を一定の人数だけ集めて活動プランを発表さえすれば、年間収入がよそから入るという仕組みは、生きやすくなりたい当事者たちの満足度よりも、金を出す国や自治体、企業や財団などを満足させる活動が優先されてしまうため、当事者たちの満足度を厳しく問うことを動機づけないのだ。

 それに気づいた団体は、前述の財政的な危機意識もあって、自分たち自身でビジネスを作り出し、商品・サービスによる収益を少しずつ作れるようになることを目指している。

 生きづらい当事者たちが無理なく楽しく取り組める仕事を開発し、商品・サービスの消費者=市民を増やすことによって、良い商品を作り出す当事者が社会の中で歓迎される仕組みを作り出しているのだ。
知的障害者たちがプロの指導で作った美味しいスィーツ produced by テミルプロジェクト

 たとえば、「障害者が一生懸命作ったクッキーだから買ってください」という同情で買わせるクッキーではなく、「工場の大量生産ではなく、プロがレシピ指導してすごく美味しい限定品の手創りクッキーです」という商品なら高額で売り出せるし、実際に大手有名デパートでは新商品でも数百箱が1日で完売してしまう。

 消費者=市民が本音のところでほしいのは、「同情でたまに買うまずいクッキー」ではなく、「いつも指名買いしたい美味しいクッキー」なのだ。
 障害者が作ったかどうかは、美味しさには関係ない。
 他より抜群に美味しいものを作れば、障がいのある無しを飛び越えられるのだ。

 それは、誰よりもNPOの代表や職員が、「障害者だからほかと比べて美味しいものなんて作れない」という思い込みを捨てることから始まる。
 そういう思い込みは、自分たちにとって本当は必要な人材に声をかけ、一緒にやろうと呼びかけることを怠ってきた間に心にこびりついたものだ。

 健常者の福祉スタッフなら、プロのパティシエに新作スィーツのレシピ指導を頼める。
 製造現場で障がい者を配置する際は、社会福祉士や障害特性に詳しい大学教授などに声をかけ、ひとりひとりの障がい者が無理なく作業を楽しめるワーキングスタイルを模索できる。
 それでも納期や出荷数に不安なら、地元の福祉系の学校に通う学生や、プロボノで参加したい社会人などをボランティア要員として無理のないマネジメントをしながら投入すればいい。

 美味しいスィーツが出来上がったら、パッケージデザインの有名なデザイナーにも頼める。
 流通がわからなかったら、地元のデパートにダメ元でプレゼンしてみればいい。
 そうした試みを実際にしてみれば、半年ほどの短期間に「売れるスィーツ」は作れるし、それによって働く障がい者の工賃は、それまでと同じ労働時間なのに何倍にも膨れ上がる。

 何よりも、自分の働きによって得られたお金は、障害者自身が欲しいものを買う自由度を広げていける。
 それは、知的障害者でも同様だ。
 親の資産に左右されず、親になんとか訴えても買ってもらえなかったショーウィンドーの向こうの商品や友だちのお気に入りアイテムを、自分の働きによって買えるだけのお金を作れることは、障害者自身の権利を守ることになるわけだ。

 僕は、補助金・寄付金・助成金を受け取ること自体は否定などしないが、それに依存し、年間の活動が安定しているうちに自主財源としてのビジネスを始めないでいれば、いざという時に困るのはNPOに世話になっている障害者自身なのだという点は、現時点でハッキリ指摘しておきたい。

 「財政的に安定していられる期間は、想定以上に短期間かもしれない」という危機意識があるなら、今のうちに障がい者が無理なく楽しく働ける環境を整え、NPO自身が経済的に自立する準備しておいてほしい。

 障害者が働いている事例を、僕は全国各地へ赴いて講演で話している。
 でも、「重度の知的障害者だけは働くのは無理だ」という思い込みを持つ人は珍しくない。

 では、そう思い込む人は、重度の知的障害者をさまざまな分野のプロに出会わせ、せめて半年間ほど何かが習得できるようなチャンスを提供してきただろうか?


●世界中で知的障害者自身が音楽を収益化し始めている

 料理のような共同作業が無理でも、障害のあるなしを飛び越えるための回路は豊かにある。
 健常者が作れないアートが作れる。
 健常者が容易に真似できない動きのダンスができる。
 誰も先が読めないスリリングなパフォーマンスができる。
 いるだけで、どこかおかしみがあって人を笑わせてしまう。

 誰も予想できない言動ができることは、重度の知的障害者に与えられた天賦の才能だ。
 健常者では真似したくても難しいが、真似ようと同化を試み続けることで、障害のあるなしを越えた関係の構築の余地はあるはず。
 食欲・性欲・排泄欲・関係欲求・表現欲求・暴力衝動・睡眠欲など「欲求」や「衝動」は、障がいのあるなしとは関係なく、誰にでもあるのだから。

 実際、知的障害者と、非日常的な祝祭空間は良く似合う。
 お祭りのような「めまい」をおこす磁場では、彼らは周囲から変に見られて浮くどころか、むしろ馴染み、輝くのだ。
 祝祭的な空間を演出すれば、障害のあるなしを越えて、そこに価値ある音楽が生まれ、コミュニティとして機能する。
 それを実際に証明している韓国の社会的企業Noridanの演奏を見てほしい。




 障害特性や障害の程度がバラバラな障害者たちが、遊びながら一つの音楽パフォーマンスを作り出している。
 誰かがデタラメに演奏しても、狂ったリズムの音を不意に出しても、全体としてトランス・グルーヴを提供できている。
 これは、誰もが心地良くなる音楽をどう成立させればいいのか、その方法が良くわかっているプロの音楽プロデューサが関わっているからだ。

 ちなみに、Noridan(ノリダン)とは「遊んでる仲間たち」という意味の団体名。
 韓国では有名な社会的企業だが、彼らの仕事は音で遊ぶことであり、彼らはその音楽を買われて海外のイベントに招かれ、演奏している。

 重度の知的障害者も、一人で音を出しているだけだと変に思う人もいるかもしれない。
 だが、こうした集団の中ではむしろ予測できない音を出すスリリングで面白い存在として歓迎されている。
 それが、祝祭的な空間の持つ面白さであり、舞台上の演出もおそらくプロが担っているはずだ。
 さまざまな分野のプロと組めば、遊びが仕事になる。

 北欧のフィンランドには、知的障害者だけのパンクバンド「ペルッティ・クリカン・ニミパイヴァト」は、レコード・デビューし、海外ツアーまでこなした。
 「少しばかりの敬意と平等が欲しい」など、社会への不満や自由への欲求を自分たちの音楽にぶつけている。



 パンクならギターで押さえるコードも少なくて済むし、演奏が荒くても、それがパンクの持ち味だし、たとえ曲の途中で演奏をやめて楽屋へ帰ってしまっても、パンクを期待して聞きに来た客は「おお、これぞ本物のパンクだ!」とむしろ歓迎するだろう。

 1980年代の日本のパンク・シーンでは、ステージの前の女性ファンとセックスを始めたり、オナニーしたり、客と大ゲンカしてケガ人が続出したり、生理になって自分の血を見せるなど、「過激」を売りにした健常者のパンクバンドが人気を得ていた。

 知的障害者なら、そんな「過激」など吹っ飛ぶほど、「想定外」で「ルール無用」を価値として提示するパンク魂を見せてくれるかもしれない。

 現代の日本でも、音楽を通じた社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)は試みられている。
 長崎県にある通称・コロニー雲仙で、職員や周囲の人々の支援と協力を得ながら自立して暮らす"瑞宝太鼓"のメンバーたちは、プロの和太鼓集団だ。
 知的障がいを乗り越えて全国2位に輝き、年間130回ほどの公演をこなしているという。

 知的障がいがあったために7歳の時に施設に預けられた岩本友広さんが団長を務めているが、岩本さんらメンバーは、世界中で活躍している太皷表現師・時勝矢一路さんの指導を受けることから、この取り組みは始まった。



 誰だって、自分らしく生きるだけで、自分自身の生活を成り立たせたいと思うのではないか?
 赤ちゃんだって、自分らしく生きられない環境の中では泣き続けたり、体を動かしてイライラを伝えることしかできない。
 知的障害だからといって、重度だからといって、自分にとって不快な環境では、ただイライラすることしかできないだろう。

 そんな時、プロのアーチストと組めば、自分が自分らしくいられるその言動や姿を価値として他の人に対して可視化できる。
 そして、その価値を収益化できる仕組みを周囲の健常者スタッフたちが早めに作れば、重度障害者は親や身内を失っても、スタッフたちの間で「自分らしい生」をまっとうできるかもしれない。

 それには、スタッフはさまざまな人材に声をかけて調達するだけでなく、経営能力も実践を通じて鍛えていく必要があるが、早めに始めれば、年月がスタッフの労力を軽減させていくだろう。
 それはきっと始める際は大変な苦労を背負い込むことになるだろうが、それに本気で取り組むNPO職員にとっては同時に確かなやりがいを感じられる仕事になるだろう。

 知的障害でなければ作れなかった音楽も、その仕事では発見できるはず。
 音楽は国境を超えるし、今日ならiTuneなどで世界へ売り出すのも簡単だ。
 音楽は障害のあるなしを飛び越えられるから、健常者と同じステージにも上がれる。
 どれだけ当事者が楽しめて、聞く側にも魅力的な音楽を作れるかだけが目標なのだから。

 それが障害者と健常者の間にある壁をぶっ壊し、誰にとっても生きやすい社会の仕組みを作り出すってことであり、それには活動を広げていくが求められ、その分だけコストもかかる。
 だからこそ、そのコストを自分たち自身の仕事で賄えるビジネスモデルが必要になるし、自分たちの自由を自分たち自身の働きで拡張できることは、誰よりも障害を持つ当事者自身にとって誇りになりうる。

 逆に言えば、自分たちの活動を支援スタッフが作る予算の範囲に縛られていたり、ビジネスモデルを健常者が考えてくれないために不自由にさせられている構図や環境は、当事者たちをいつまでもイライラさせ続けるだろう。

 当事者しか持っていない価値(=当事者固有の価値)を最大限に発見し、価値を可視化し、その価値を収益化することによって、当事者がそのままの姿で社会の中に存在を位置づけられることこそ、最も基本的なソーシャルビジネスの面白さであり、社会の仕組みをもっと生きやすいものに変えるってことなんだ。

 以上をふまえ、浜松で知的障害者を中心に社会的包摂の活動をしているというNPOを訪れて考えたことを次回に書いてみたい。(後編へつづく)


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