この後編では、まず音楽以外で知的障害者が社会参加する事例についてふれておこう。
それは、「重度の知的障害者にとって健常者の作った文化ジャンルが意味をなすか?」という問いを与えるものだからだ。
今日の日本では、知的障害者が参加する陸上競技連盟もあれば、サッカーの試合もある。
とくにサッカーには国際試合もある。
それ以外のスポーツも包括した、スペシャルオリンピックスという総合大会もある。
このように知的障害者がスポーツに参加すること自体は、障がいのあるなしを越えて、その人自身の能力や努力を評価するものではあるが、これが重度の場合、そこに参加する意義を理解したり、快感を得られるものかどうかは未知数だ。
もちろん、未知数だからといって、参加することに意味が無いわけではない。
むしろ、他に山ほどある社会参加のチャンスの一つとしてとらえておけば、当事者の重度知的障害者にとって、自分の快感を刺激する新たなチャンスを得られたことにはなるだろう。
同じことは、福祉作業所で何らかの仕事に従事する時にも言える。
その作業が当事者にとって面白かったり、つまらなかったりと一瞬一瞬で快感のスィッチが入れ替わることは、仕事でもスポーツでも同じ。
当事者にとっては、仕事とスポーツを分け隔てる文化的な文脈はそもそも意味をなさないように思うのだ。
それはあくまでも健常者が作り上げてきた文化的な領域による区別であって、重度の知的障害者にとって「今ここでするアクション」「今ここにいる環境」それ自体に快感原則で反応することに、「自分らしい生」を表現しているにすぎない。
これを言い換えるなら、祝祭的な非日常空間でこそ健常者の文化から誰もが自由になれるということだ。
そういう意味では、「福祉作業所の仕事だからつまらない」とか、「スポーツだから面白がってくれる」という健常者的なまなざし自体を疑う必要がある。
当事者にとっては、福祉作業所の施設内に響く音を面白がって思わず体を動かしてしまう人もいるだろうし、何かとルールを強いられるスポーツよりも誰もがデタラメに動いたり、止まったりするような光景に安心感を見い出すかもしれない。
そうした快感原則や安心感の持ち方は、当事者それぞれで異なるため、健常者のジャンルよりも特定個人の当事者をより深く見ながら、さまざまな経験のできるチャンスと環境を提供し、当事者があらかじめもっている感性を引き出していくしか、健常者にとってわかりやすいコミュニケーション作法を築くことは難しいだろう。
たとえば、知的障害だけでなく、精神障害や発達障害なども含めて、アートに取り組ませる試みは盛んになってきている。
大阪のNPO法人コーナスでは、国内で評価される障がい者アーチストを育成しているし、NPO法人エイブル・アート・ジャパンでは美術教育を受けてきた人による選考でアーチストを輩出してきた。
もっとも、重度の知的障害者が絵が好きだとしても、美術教育を受けてきた人からの評価を望んでいるだろうか?
そもそも、自分が描いた絵が美術であるかどうかすら、当事者には関心外だろう。
美術として優れているかどうかという評価基準は、あくまでも健常者を前提とするまなざしだ。
好きで描いた絵を単純に気に入ってくれた企業が買ってくれる方が、健常者でもその感性はバラバラなので、自分の絵を選んでくれる選択の多様性を担保できる。
障害児を持つ親の親たちの会である埼玉県の「からふる」(下記の画像)では、さまざまな障害特性をもった子どもたちがそれぞれ楽しんで描いた絵を名刺として商品化(からふるキッズアート名刺)、気に入った企業が買っていく。
売れた分だけ、その絵を描いた子どもへ著作権印税が配当される。
この方が、美術教育とは無縁な人たちが選んでいる分だけ、評価基準の多様性を担保できるのではないか?
こうした「健常者目線」に対する疑問符は、知的障害者とダンスの関係にもあるだろう。
障害を持つ子へのダンス教育が情緒面やコミュニケーション能力開発に一定の有効性を示したことは論文化されている。
だが、それは、あくまでも障がい者の方が健常者の関係作法に近づけたことを意味する。
健常者が障害者の関係作法を学べたわけではないため、健常者の特権は残るのだ。
特別支援学校の知的障害教育校のダンス教育は、発達の促進によって自立を目指させるだけで、社会の中で当事者の価値を担保するための多様なあり方を前提にしてはいないようだ。
その子がその子らしく踊るだけで価値が生まれる仕組みに鈍感すぎやしないか?
知的障害の当事者の動きから健常者ダンサーが学ぶことが重要なのであって、ダンス教育がダンサーから障害者が学ぶのでは、本末転倒のように思える。
それは健常者視点あるいは医療的な視座に居直った関心にすぎないだろう。
現代舞踏の人たちが、重度の知的障害者の予測できない体の動きを真似て次々に体を動かせば、講師やリーダーは最初に体を動かす障害者の方になる。
リーダーの障害者は、自分のフォロワーに刺激され、フォロワーとの関係から新しい動きを動機づけられる。それだけでも祝祭的な価値があり、そこにはフリージャズがよく似合うだろう。
重度の知的障害者にとって、健常者が先に領域分けを施した「ダンス」「音楽」「演劇」「仕事」「アート」などのジャンルは、どうでもいいのだ。
むしろ、その区分がどうでもいいものだったと気づかせるだけ、重度の知的障害者の身体には価値があるといえる。
だから、この記事の前編で、僕は以下のように書いた。
知的障害者と、非日常的な祝祭空間は良く似合う。
お祭りのような「めまい」をおこす磁場では、彼らは周囲から変に見られて浮くどころか、むしろ馴染み、輝くのだ。
祝祭的な空間を演出すれば、障害のあるなしを越えて、そこに価値ある音楽が生まれ、コミュニティとして機能する。
祝祭空間とは、健常者の作った常識や日常的なルールを度外視できる無礼講が演出された空間を意味する。
そこでは迷惑を掛け合うことを楽しみ、タブーがないことがあらかじめ参加者たちに了解されている。
…と書いたところで、2月3・4日に僕が講演で訪れた浜松で出会ったステキな重度知的障害者の青年について紹介したい。
●同時代のさまざまなプロに声をかければ、突破口は無限大
浜松駅から徒歩10分、ソフトバンクが1階にあるビルの2階に、知的障害を核とするソーシャル・インクルージョンを試みるNPO法人クリエイティブサポート・レッツが運営する「表現未満、実験室」がある。
僕は講演の主催者である担当スタッフから、同じビルの3階にある「音楽スタジオ」に通された。
そこは、小学校の教室2つ分ほどのスペースで、破られた新聞の山が所狭しと床を埋め尽くす中、ドラムセットやギター、ボンゴ、エレクトーンなどが置いてあり、それらの楽器を5人ほどの大人や子どもが好き勝手に鳴らしていた。
といっても、誰も音楽教育を受けていないのか、その鳴らし方はどれもユニークだ。
エレクトーンは、3つのキーがテープで固定してあり、和声が延々とトランス的に鳴り響いている。
小さな男の子が、拡声器を拾っては無造作に床に投げつけて、ぶっ壊しながらキャッキャッキャッと楽しんでいる。
ドラムの前にいた小さな女の子は、リズミカルに太鼓を叩いていたかと思うと、プイっと演奏をやめ、床に転がったボンゴを拾い上げては、叩かずに皮の膜を耳に当て、スタジオ全体に響く音を膜越しに聴き始めた。
その彼が、この施設を運営する団体の代表者の息子さんであるたけしくん(21歳)だった。
たけしくんのプロフィールは、「たけぶんブログ」にこう書かれている。
1996年2月1日、静岡県浜松市に重度の知的障害児として生まれる。
紙をやぶったり、石をボウルで転がしたり、キラキラしたものを追いかけたり、毛布の中にくるまったりと自らが心地よいと感じることを追求する行為を得意とし、不快なことに対しても敏感に反応を示すが、さまざまな状況に対する適応力もあり、学校での生活などを通して社会性も育まれている。とにかくよく動く。
(※写真は、同NPOの公式サイトから)
たけしくんは、この通りの青年だった。
次の瞬間に何をするかわからないスリリングな雰囲気のまま、ときめく心に従って次から次へと遊びに興じる。
これは、健常者では真似できない。
大人になってしまうと分別が先立ち、その場のルールや空気が気になってしまい、楽器を持ってもそれを使って自由に音をだすことさえためらってしまうからだ。
たけしくんには、そんな決められたルールに常に意識することがないし、同調圧力を読み取って振る舞うことにも労力をかけない。
誰も予想できない言動ができることは、重度の知的障害者に与えられた天賦の才能だ。
その希少な価値をこのスタジオの中にとどめてしまうのは、あまりにもったいない。
彼には、音楽・演劇・パフォーマンス・ダンス・仕事・アートなどを分ける意識は無いだろう。
それゆえに彼は、自由に動くだけで他人をスリリングに楽しませ、健常者が思わず憧れる表現スタイルを獲得しているのだ。
それは、祝祭空間で輝ける権利を生まれつき手にしているのと同じだ。
だから僕は、彼のお母さんに「電気グルーヴのライブにパフォーマーとして売り込んでみてはどうですか?」と提案した。
渋さ知らズのライブで白塗りや被り物で出演するのも楽しいだろうし、他にも祝祭的なステージングをしているミュージシャンはたくさんいる。
同時代の人材に声をかければ、有名人でも返事が来る時代なのだから、前編の記事で紹介した海外の音楽団に留学させてもいいような気もする。
たけしくんが光と音が交錯する祝祭的なトランス空間が演出された電グルのステージで、テクノの音に反応して走り出したり、止まったり、寝たり、突然に楽屋に帰ってしまったりするような予測できない動きをするだけでも面白い。
しかも、たけしくんの動きを瞬時に真似て、彼の後ろから同じ動きでついていく現代舞踊のプロダンサーたちを従えれば、たけしくんが重度の知的障害であるかどうかは関係なくなり、祝祭空間を一緒に楽しめるのではないか?
フジロックや海外のテクノフェスでそういうシーンが観られるようになれば、たけしくんはあの壁に囲まれた狭いスタジオだけではなく、広い世界で自分らしく振る舞える面白さを望むようになるかもしれない。
そのように、プロの現場をふませることは、たけしくん自身が正当にギャラを受け取り、たけしくんと随行する介護スタッフのコストも賄える仕組みにたどりつき、たけしくんをもっと自由にさせられるだろう。
それをためらうのは、たけしくん自身ではなく、彼の周りの人たちかもしれない。
彼に確かな価値を感じているなら、彼を自由にすることに何のためらいがあるだろう?
障害者でなくても、出会いのたびに他人に傷つき、不慣れな社会で失意を覚え、いろんな失敗と屈辱をくり返しながら、人は生きるために必要な強さを身につけていくものではないか?
もっとも、NPO法人クリエイティブサポート・レッツでは、「タイムトラベル100時間ツアー」という観光事業をやっているという。
たけしくんを外に出すのではなく、会いに来いというわけだ。
同NPOが運営する障害福祉施設アルス・ノヴァでは、それぞれの”あるがまま”を認め・尊重し合いながら障害のある人・ない人が共に過ごしている。
そこにいると社会の中では当たり前のことをいちいち疑い、考えさせられることになるそうで、その面白さを体感してもらうために一定時間そこに滞在してもらい、少しでも多くの気づきを得てほしいというのが、「タイムトラベル100時間ツアー」なんだそうだ。
必ずしも100時間にこだわっているわけではなく、これまでも1泊2日や2泊3日のガイダンス付きツアーも催行されてきた。
趣旨はわかるが、いろいろ残念な印象を持つのは僕だけだろうか?
同NPOでは、「まわりの人たちと人間関係を築くには時間が必要ですし、いつハッとさせられる出来事に出会うかわからないから」とツアーについてサイト上で説明している。
これは、「とにかく障害者と支援者に会いに来て」とあまりにもざっくりした要望を伝えているだけだ。
そこで出会う人たちが本当に面白い人たちであっても、その魅力が事前にわかりやすく伝えられていないと、広報効果は最大化できず、短期間に多くの人をツアーに参加させることは無理だ。
そう言うと、同NPOは僕に、このツアーで出会える人たちの名前と顔写真、簡単なプロフが書かれたカードを手渡した。
しかし、そのカードに書かれた内容は、すべて「表現未満」だった。
そのごく一部を紹介してみよう。
★やまもりたつや
アルス・ノヴァじゃなく、浜松の観光をしたければ、この方に相談を。夜はともに「大五郎」を飲み交わしましょう。
★くぼたたけし
彼の豊かな表情、体全体を使った表現に注目。スイッチが入る瞬間を見逃すな。
★くぼたみどり
お客さんに対する「おもてなし」は欠かさない。体験して感じた疑問を素直にぶつけてみよう。
このカードをもらったら、あなたはこのツアーに思わず「行きたい!」とときめくだろうか?
僕はこの3名に会ったが、カードにある説明はまったく彼らの魅力を伝えていないと感じた。
知らない人に出会って気づきを得るためのツアーなのに、それぞれの人の魅力をわかりやすく伝えていないのは、あまりにも、もったいない。
人間があらかじめ持っている価値を棄損してしまう説明は、見るに堪えない。
元コピーライターとしての僕としては、書き換えたいと思うぐらいだった。
だから、僕なりに書き換えてみる。
★やまもりたつや ~エロ失敗談ならいつも準優勝!
身の下の話だって? 失敗続きの人生だって? まぁ、飲みなって。悲しい恋も変態経験も、みんなまとめて笑ってやるぜ。俺もダメだけど、なんとかなるさ。
★くぼたたけし ~「天才たけし」とは、俺のこと!
気持ち良い行動しかしない才能の持ち主。あなたが何かにためらっているなら、思わず彼に憧れちゃうかも。彼の自己決定のスピードに、きみはついていけるか?
★くぼたみどり ~東京藝大大学院卒のNPO代表
重度の知的障害の息子たけしを成人まで育て上げ、NPO歴も17年目。天才たけしに学ぼうとしてるはずなのに、健常者や母親の視点からなかなか降りられない未熟者。
こうしたカードは同NPOがツアー参加者に渡すものなので、障害者(施設の利用者)はその価値の高さを伝え、スタッフはむしろえらぶらない方がいい。
大事なのは顧客である参加者が初めてカードを見た瞬間に「面白そう」と感じられることであって、現状のように身内以外にはピンとこない言葉を並べれば面白みは半減してしまう。
本当は、カードにある写真もプロに頼んで撮影してもらい、それぞれの人の魅力を引き出す演出が必要だろう。
いずれにせよ、僕がこのNPOのスタッフから講演を依頼されて、その現場で面白いと思った取り組みは、ツアーではなく、「表現未満、実験室」で2月11日の午後1~3時に開催される「ParCafe」のチラシだった。
パーカフェとは、知的障害の女子たちが開催するメイドカフェのイベントだ。
メイドさんとのやりとりを楽しむカフェという価値は、障害のあるなしを容易に越えられる。
だって、可愛さを演出したい女子がメイドカフェの運営を楽しめて、可愛さ求めて客がNPOの身内以外から続々と集まれば、成功なんだもの!
そのように、障害のあるなしに関係なく、誰もが分かち合える共通の価値をふまえ、その取り組みにかかる費用を計算し、その費用分だけは賄えるビジネスモデルや広報スキルを実践から学んでいけば、そこに出会いと交流のチャンスが自然と生まれる。
どんなマイナーな話題もそうだけど、マイナーな話題に関心を持ってもらうには、あらかじめ無関心の人でも食いつくスタイルを模索するのは当然のプロセスなのだ。
メイドカフェしかり、アイドルしかり、ファッションや料理しかり、一般市民に障害者がなじんでいく回路は、本当は豊かにある。
そういう取り組みが1個ずつ増え、短時間のイベントの継続から日常のビジネスへと発展させていく時、それは消費者=市民の意識を無理なく変えられる。
社会を変えることは、結局、そういう小さな取り組みの積み重ねであり、それがやがて鉄板のソーシャルビジネスへと成長していき、重度の知的障害者であろうと経済的に自立していける仕組みを洗練させ、障害当事者の自由度を拡張させていくのだ。
できないことより、できることを見ようとすれば、支援のあり方は良い意味でビジネスライクになっていくだろうし、それが仕事の省力化を前提にした生産性の向上を、誰よりも支援スタッフにもたらずはずだ。
一方的な支援は、支援する側にお金や体力、時間のコストを集中させ、ともすれば支援される側を支配し、自由を制限せざるを得なくなる。
それは、当事者から当事者らしく生きる権利と尊厳を奪うことになりかねない。
それは、当事者から当事者らしく生きる権利と尊厳を奪うことになりかねない。
だが、支援される側が自ら働ける仕組みを作り出せば、同じ目的を分かち合う対等な協働のスタイルが日に日に築き上げられていく。
トライ&エラーのチャンスを得るのは障害当事者の権利であって、支援者の支配によってその権利を奪うことはあってはならないだろう。
重度の知的障害のように本人の意志の確認が難しいなら、なおさら支援者は自らの活動が支配になっていないかを省みる必要がある。
重度の知的障害のように本人の意志の確認が難しいなら、なおさら支援者は自らの活動が支配になっていないかを省みる必要がある。
重度の知的障害者であっても、何もできない人ではないのだ。
当事者が当事者らしく振る舞うことで収益化できる仕組みは作れる。
当事者固有の価値を、支援者は最大限に尊重し、信じぬいてほしい。
言葉が自由でない人でも、自分が誰かと一緒に笑えることを続けられるのは楽しいはずだ。
言葉が自由でない人でも、自分が誰かと一緒に笑えることを続けられるのは楽しいはずだ。
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