とくに、独身のままだと、出産・子育てに参加してないので、余計に忘れてしまう。
そこで、僕自身の子どもの頃を振り返ってみよう。
50歳の今、思い出せる最初の記憶は、幼稚園の頃だ。
ある時、水遊びをするという話があり、「水着をもってきて」と言われた僕は、親に伝えた。
しかし、両親は「そんなの誰ももってこないから、いつものパンツで行きなさい」と言われ、言われた通りに幼稚園に行くと、水着を持参してないのは僕だけだった。
仕方なくパンツのままで水遊びをすることになったのだが、この恥ずかしさはいまだに忘れない。
幼稚園を卒業する春、社宅から新築の自宅へ移った。
ほどなく、「明日からバスが近所に来るから乗りなさい」と親に言われ、わけもわからず乗った。
小学校へ向かう通学バスの窓から、母親を観た。
「なんでこの人は笑顔で、僕をよく知らないところへ送り出すんだ?」
そんなさみしさを強く覚えている。
入学式が終わって、列のまま教室に入ると、一番うしろの席だった。
両隣にいる男子児童が知り合いどうしらしく、僕をはさんでしゃべり出していた。
すると女教師が、「そこの3人、後ろを向いて立っていなさい」と命じた。
(※この女教師にはその後6年間も監視されることになり、大変なストレスだった)
僕ら3人は命じるままに従ったが、また僕をはさんで両隣の子たちが互いに相手にちょっかいを出していたので、僕まで巻き添えを食う形で「そこの3人、手は腰につけなさい!」と命じられた。
「学校はとても理不尽なところなのだ」と、僕は幼心に刻み込んだ。
半年後、自宅に近いエリアに新築された学校へ編入することになった。
前の学校で一緒に立たされた男子児童2人も、女教師も、また同じクラスになった。
僕は注意力散漫で、「授業は端的につまらない」と感じて、窓から空ばかり見てた。
勉強の成績は、下から数えた方が早かったはずだ。
1年生の秋頃か、担任教師が児童の親に会って話す家庭訪問があった。
先生は1日に3,4人の児童の家を回った。
同じ日の児童は、金魚のフンのように先生の後ろをついて行った。
僕の家の前に、ちょっかいを出したがる例の児童Sくんの家を訪れた。
Sくんの家は小さく、玄関からキッチン、居間に至るまで物が転がっており、いかにも汚かった。
そして、年上の兄と、父親しかいなかった。
授業も休み時間もみんなにちょっかいを出してしまうSくんは、母親がいないさみしさを教室で紛らわせていたのかもしれない。
僕はそう感じていたので、6年間も同じクラスにいながら、次第に暴れる度合いがひどくなるS君をいさめる気持ちにはなれなかった。
4年生の頃に、歴史の無い新設の小学校に歴史を作ろうと、定年間近の音楽教師が児童全員をオーディションし、合唱部を結成した。
僕も選ばれ、夏休みを返上して秋の大会出演での受賞を目指した。
午前中に合唱部、午後は運動部で1日が終わる夏休みを、3年間続けた。
合唱の練習の終わりに、「他の子や先生には内緒ね」と、のどが疲れた合唱部員だけに飴を配った音楽教師の名前は「小沢」だった。
この初老の先生の融通の利くところが、僕は好きだった。
5年生の頃、女子児童たちから僕は「外人」(ガイジン)と呼ばれ、集中砲火を浴びた。
僕は空気も読まず、先生のいない自習時間に児童たちが騒ぎ出すと、「うるせぇよ」と大声を出して一喝した。
その声で教室内はシーンと鎮まることが何度かあったか、いつかしら僕は完全に教室で浮いていたのだ。
それでも、休みの日には空き地で野球をやったり、一人遊びにも困っていなかったので、いじめられてる実感すらなかった。
(自宅の近所にある川の土手。よくチャリンコで遊びに行ったものだ)
●世間はキレイゴトでは済まない
ところが、4年生の頃まで毎週のように一緒に遊んでいたIくんが、5年生の頃にはパッタリと遊びに加わらなくなった。
そんなIくんに友人たちはよそよそしくなり、Iくんも教室で静かになっていった。
「なんだかなぁ…」と思って周囲に尋ねてみると、Iくんは当時少しずつ流行り始めていた中学受験塾に千葉から東京まで一人で通い始めていたのだ。
その噂を耳にし、廊下で水を入れたバケツを持って立たされることの多かった僕は、「中学ってバカだと入れないの?」と不安を覚えた。
親に「僕も塾に行きたい」と行ったら、電車で20分のところにある一番近い中学受験塾に6年生の春から通うことになった。
すると、めきめきと成績が上がり、学年1位のIくんと肩を並べるようになった。
地元の千葉大学附属中学校を受験することになったが、二人とも一次の抽選で落ちた。
Iくんは鹿児島の私立中学へ進学し、僕は地元の公立中学校に進学した。
小学校では2クラスしかなかったが、中学校でも半年で新設の中学に転入したので、3クラスしかなかった。
しかし、知らない顔が増えれば、トラブルも起こる。
1970年代の終わりは、家庭内暴力と校内暴力がピークの時代だった。
男子生徒は学ランの内側にナイフを忍ばせ、女子は制服のスカートをムダに長くしていた。
同じクラスに、身長が180センチはあろうかという番長がいて、彼と廊下ですれ違う同じ学年のSくんは、小学校の頃より小さく見えた。
1・2年生しかいない小さな学校で学年1位の学業成績だった僕は、教師の推薦で1年生から生徒会に所属していたが、それだけでヤンキーに目をつけられてしまった。
おかげで、自習時間に番長とケンカせざるを得ない状況になり、もちろん一瞬で負けた。
でも、番長にケンカを吹っかけるような人は誰もいなかったので、その直後から番長とタメ語で付き合うことになり、彼以外からは「さん付け」で呼ばれるようになった。
僕自身は、勉強できないマインドで小学校時代の多くを過ごしてきたので、成績の良い生徒たちより、できない生徒たちと付き合うことが多かった。
3年生で受験が迫ってくると、ヤンキーだけが教室で騒ぎ出すので、番長以下、髪を染めた女子生徒も含め、放課後に「アホでも超カンタンに点を取るための要領」を教えてあげた。
僕にとって勉強は、「先生に叱られないための防御策」(点取りゲーム)だった。
だから、いかに手を抜いても点だけは取れるのかの知恵を発達させていた。
「勉強が好き」なんていう感性は、学者になりたい人だけでいい。
それより、ストレスの多いこの世界を、いかにストレスフリーで生きられるかが、僕にとっては大事なことだった。
先生たちはヤンキー生徒の進学にほとんど絶望していたが、地域にはヤンキーが集まる私立高校もあったので、そこへ入れたがった。
だから僕も、ヤンキー仲間に短時間で成績を上げるコツを教えた。
番長も深夜にバイクを飛ばして僕の自宅に勉強を教わりに来るほど、僕は超わかりやすく面白く点を取る方法を教えてあげたので、全員をその高校に合格させることができた。
卒業式で、色紙に仲間たちから「お前は何でもできて神様のような人だ」とか、「さんざん叱られたけど、やさしかった」なんて書かれて気恥ずかしかったが、僕はただの世間知らずにすぎなかった。
背が高くガタイの良い番長は、ヤンキー高校の入学式で先輩たちからにらまれ、怖かった彼は全員をやっつけてしまい、翌日から地元のまちにすらいられなくなったのだ。
その高校の生徒の親には、ヤクザも少なからずいる。
やられたら倍返しをしないと、メンツをつぶされたままでは生きられない業界だ。
番長は自宅にも帰れず、友人の家を転々としていたが、僕に相談されても親のいる家にはかくまうことなどできなかった。
高校進学を番長に勧めた教師たちは、そのことまで予想できていただろうか?
(当時からずっと、本宮ひろ志さんのマンガが社会のリアルを学ぶ教科書だ)
●自分と同じ属性の仲間しか大事にしない文化にウンザリ
僕が通った高校は、番長の通っていた私立校と同じ木更津市にある伝統校の県立だった。
当時は偏差値70近い連中が集まっていたが、田舎なので、先生の教えをそのまま鵜呑みにするような「いかにもな優等生」が多かった。
そういう空気の中で、「番長失踪事件」の春から始まった僕の高校生活は、RCサクセッションの『トランジスタラジオ』そのものになった。
親はバイトを許さなかったから、「勉強のために」と言い訳しながらお小遣いをもらい、新しい参考書や問題集を買ってはキレイに使い、それらを校内で「タンカ売」しながら小銭を作り、タバコを買ったり、通学途中のカフェでモーニングセットを食ってから足を運ぶ学校では、文芸部の部室か校舎の屋上で寝てた。
部活動はギター部にも所属していて、自作の歌を作って歌うという音楽の授業では楽器の弾けない友人のバックで演奏したり、アレンジしたりしていたので、卒業間際には自作の歌のデモテープを作って、高校生活を締めくくった。
高校3年間で学んだのは、やがて大企業や官僚、政治家の道に進んでいくだろう「優秀な生徒たち」の冷たさだった。
同じ市内に低所得層の家庭出身のヤンキーという同世代がいても、偏差値の高い高校の生徒は関心を持たないし、付き合うこともほとんどなかった。
駅前のカフェは「ヤンキー専用」と「高偏差値の生徒専用」に分かれていて、まるで黒人差別のアメリカ社会のように、相手のテリトリーを互いに害さなかった。
僕は、ヤンキー専用カフェと、お高くとまった高校生が集まるおしゃれなカフェを往復しながら、コーヒーの苦さに慣れていった。
学力・学歴による文化の分断の問題、そしてその後、大きく枝分かれする進路や所得の問題を深刻に考えていたのは、僕だけではないかもしれない。
だが、「どっちにしろ、このまちに僕の居場所はない」と感じていた。
とりあえず地元を離れたかった。
単位取得ギリギリの出席日数で、勉強もおろそかにしていた僕は、中退も考えていたが、追試を受けながら卒業し、現役で受けた大学は全敗した。
しばらくゆっくりと身のふりを考えようと思っていた矢先、父親が勝手に大手予備校に入れた。
「近所にできたから入学金を払ってきたぞ」と言われ、仕方なく英語・国語・小論文の3つだけを受講することにし、空いた時間は図書館で60年代~70年代の本を中心に読み漁っていた。
編集に関する本や、今東光さんの本、「ニューアカ」のブームに乗って経済人類学や小室直樹さんの本を読んでいた。
浅田彰さんや栗本慎一郎さんなどが、テレビや新聞、雑誌に登場する機会が増えていた。
学問が在野に降りて来た印象が当時の「ニューアカ」にはあったから、学力・学歴の分断を超える良い知恵が無いかと探していたのだ。
でも、そんな期待はブームの消滅と同時に消え、1985年、僕は早稲田大学に入学した。
古い考えしか持てずにいる両親や田舎から離れたくて、上京する機会が欲しかっただけだった僕は、予想通り、大学の中に面白さを発見できなかった。
むしろ、東京という雑多な文化に容易にありつける場所で、小劇団の演劇や自主制作の映画、古本や奇抜なパンクなどを担っていた多彩な人間たちと次々に出会う方が面白かった。
まちは、僕の学校だった。
寺山修司の言う「開かれた書物」であり、さまざまな刺激に満ちたものだった。
学内では、新入生歓迎講演会で野坂昭如さんが、「おまえら物書きになりたいなら今すぐ辞めろ」と酒くさい息を吐きながら叫んでいた。
あと2カ月で20歳になる7月、僕は学生課に退学届を出した。
その後の話は、『プライドワーク』(春秋社)を読まれたい。
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