① サービスの利用者より提供者の方が学歴が高かったり、より多くの専門的な資格・知識・スキルをもっている
② サービスの利用者には提供者が必要になるが、提供者は利用者を必ずしも必要としていない
③ 仕事の成果に対する評価基準を作ってるのが、金を払う側の利用者でなく、専門機関
①は、ここ最近ようやく大学進学率が2人に1人程度になったばかりの日本では、誰もが納得できることだろう。
世間の大多数はまだ高卒以下ゆえに、「専門家」の前で黙るしかない無力感を覚える人は珍しくない。
②は、上記のサービスが利用者にとって気軽に足を運べる範囲のハコモノの中で行われていることを考えれば、ピンとくるはずだ。
学校や病院などを含む施設は、お金に余裕が無い人にとって、遠方のより良いサービスの受けられるものを選ぶことはできない。
NPOや社会福祉法人など非営利団体が運営してる施設も同様だ。
地域にそこしかないから、仕方なく通ってる人が少なくないのだ。
③は、学校を例に考えれば、わかりやすい。
学習内容や教え方に対して、学ぶ側の生徒や、わが子に教育を受けさせる責任を負っている保護者の意見は反映されない。
文科省からのトップダウンで一方的に決められてしまう。
福祉・医療など他のサービスも、同様だ。
税金から支出された財源に頼る経営なので、市場原理を前提とする一般の企業とは異なり、サービスの利用者のニーズに最優先で耳を傾けることが動機づけられていない。
だから、提供者は利用者からの声を「苦情」とか「クレーム」としか受け取らず、苦情受付の係が「処理」することで、利用者=提供者間のディスコミュニケーションが可視化されない。
これじゃまるでお役所だ。
「市場原理にすべて任せればいい」と主張したいのではない。
そうしたありようのサービスに就いている人たち自身に、自分の仕事がサービスの利用者からどう見えているかに気づいてほしいのだ。
サービスの利用者のニーズより、自分の仕事の方針を優先させたがってしまうのだ。
「学校運営の仕組みは国で決められてるんだから、わかってくれよ」
(生徒にしてみれば、何をどう学びたいかについて主張する権利は事実上、ない)
「こっちは病気を治すのが仕事の医者なので、患者の苦痛は見過ごせないです」
(患者にしてみれば、治したいかどうかは自分で決めたい)
「うちの団体の財源じゃ、これ以上の福祉サービスの充実はできないよ」
(自分が障がい者になったら、財源を増やす経営努力をしろよと言いたくもなる)
どれも正論だ。
しかし、サービスの提供者におけるこうした弁明は、事業団体側のマネジメントの努力の問題であって、「何が問題か?」「何が不幸なのか?」について一方的に決められてしまっては、サービスの利用者は困ってしまう。
学歴の高さや専門知識の豊富さなどによって、サービスの利用者に対する「上から目線」になりやすい環境では、過去や相手を変えるより、自分や将来を変える努力が、利用者との対等な関係を築くのに必須の課題になる。
それには、サービスの提供者と利用者が一緒になって、お互いを苦しませてるダメな仕組みや経営課題を解決する試みが、オープンな形で議論される必要があるだろう。
もちろん、高学歴で専門知識の豊かな「意識高い系」ばかりが集まったところで、「愚民」を先導してやるんだという意識をもってしまってることに無自覚のままなのだから、従来の集まりと同様にサービスを利用する当事者たちのニーズが取り残される構図は変わらない。
では、どうすれば、上下関係は無理なく解消できるのだろう?
精神科通院者や自殺未遂の経験者あるいは児童虐待の被害者を取材しているとき、「正しい人が怖いです」という言葉をよく聞いた。社会貢献を志す方は、この声によく耳を傾けてほしい。
— 今一生 (@conisshow) 2010, 10月 19
●誰もがサービスの利用者になりうることに希望がある
サービスの利用者にはサービスや提供者への不満や不安があるが、声なき声になっている。
他方、サービスの提供者は、利用者のニーズに応じるようには動機づけられていない。
この両者が共に「対等な関係」を望んでるとは、一般的には考えにくいのだ。
もちろん、利用者を満足させられなければ、提供者が食えなくなるという具合に「一蓮托生」の仕組みに変えられるのが理想かもしれない。
しかし、それは長期的にソフトランディングさせていく必要があるため、実現には年月がかかる。
少なくとも、現状のサービスに対して不当なガマンを黙って飲みこんでる利用者の満足度を上げる仕組みとしては、最優先課題にはなりにくいってこと。
それでも、希望はある。
たとえば教育サービスを提供する学校のあり方がイヤだったと感じていた人が、いざ介護の仕事を始めたら、自分が安月給の中で精いっぱいやってるサービス内容では利用者の満足度が決して高くないかもしれないという不安を抱くことはあるからだ。
医者だって、自分自身が患者や障がい者(=サービスを利用する当事者)になって初めて、自分が受ける医療や福祉のサービスが、必ずしも満足度の高いものではないことにピンとくる。
そうした当事者たちが集まって、サービスの提供者としての立場しか知らない同業者に対して、利用者の立場を伝えるチャンスを作っていくことはできないものだろうか?
そういうチャンスを教育課程や実地研修などで増やしていけば、支援サービスというものが、相手を変えることではなく、むしろ自分自身の仕事のありようを変えることだと気づくはずだ。
社会的弱者が支援されず、置き去りにされてるケースはあるが、その場合、その人自身の目の届くところに安心して近づきたい人がいないってこと。支援したいと言う人の言動が日頃から当事者の目の届くところで当事者を安心させるものになってないってことが大問題なの。「声をあげて」と望んでどうする?
— 今一生 (@conisshow) 2015, 10月 29
「支援は、なぜ支配になりがちなのか?」というブログ記事で指摘したように、苦しみを解消したい当事者は、自分が本音や不満をうち明けやすい構えを日頃から見せてくれる人を選んでいる。
サービスを利用したい当事者から選ばれるような仕事ぶりに自分自身を変えようとすることが、仕方なくサービスの利用者になった人と向かい合う時に、対等な関係を担保するのだ。
自分の仕事は、利用者に選ばれるだけの言動を日頃から示しているのか?
それとも、利用者は近所の施設しか頼れないから仕方なく自分に金を払ってるだけなのか?
この自問を忘れたサービスの提供者は、利用者にとって「仕方なくつき合う相手」のままだろう。
それに気づかないままだと、サービスの満足度の向上は見込めない。
それを放置すれば、学歴も専門知識も乏しい利用者は、されるがままだ。
その弱みに関心外なら、支援する側は自分の仕事のありようを疑わないまま飯を食っていける。
いったい、誰のためのサービスなの?
しあわせの形ぐらい、私に決めさせて。
サービスを利用する側の論理(=支援される側の論理)については、「支援される側から支援する側になりたい」というブログ記事も参照されたい。
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