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■どん詰まりのころ ~30歳から自分で突破口を作る

 25歳で勤務先の会社が倒産した僕は、その後、広告業界から足を洗い、コネもノウハウもない出版業界でフリーの雑誌記者になろうと、編集部にアポをとっては「仕事をください」と売り込みを始めた。
 1990年10月のことだ。

 何しろ雑誌記者の経験などゼロなのだから、「仕事をください」としか言いようがない。
 何について書けるかも、わからない。
 だから、本屋さんで雑誌を買っては、編集部の電話番号を見てアポをとり、来る日も来る日も次々に編集部に足を運ぶしかできなかった。

 失業手当の給付がそろそろ切れそうな翌1991年1月、ようやく売り込んだ先の編集部からポツポツ「こんな仕事があるけど、やりますか?」という電話をもらえるようになった。
 やったことがいことでも、「できません」は言えない。
 言えば、干上がってしまう。

 とにかく「やります」と返事をし、「美女OLを集めろ」と言われれば、言われた人数を集め、「F1ジャーナリストにインタビューを」と言われれば、4輪免許を持ってなくてもF1について調べ上げて質問項目を自分で考えた。

 いろんな雑誌の編集者の無茶振りに対して、全部クリーンヒットさせないと「次」が無い。
 そのうち、雑誌によって発注されるネタの方針がわかってきて、企画自体を自分から提案していくと、収入は見る見るうちに増え、初年度で年収は600万円を超えていた。

 しかし、それは「できること」であって、「書きたい」ことではなかった。
 「できること」と「書きたいこと」のギャップは、年々収入が上がるのに比例して大きくなっていった。
 30歳になる1995年、僕はすっかり疲れ切っていた。
 雑誌の仕事と自分の関心事のすり合わせが、どうにも難しくなっていたのだ。

 雑誌の編集方針に見合うネタは出せるし、書ける。
 けど、それは、「食えるけど、僕でなくてもいい仕事」だった。
 僕は、僕にしかできない仕事をしないと、出版業界で生き残ってはいけないとあせりを感じた。
 このままだと、どん詰まりだ。

 それを突破するには、他のライターと同じように雑誌の編集方針に従ってネタを出してるだけじゃ、ダメだ。
 むしろ、雑誌の編集部の方から「あいつに書かせたい」と発注される存在にならなければ…。

 当時、東京では、さまざまなトークライブが盛んに行われ始めていた。
 そこで、僕自身の主催で毎月1回トークイベントを行うことにした。
 僕にとって関心の高いテーマを毎回掲げ、旬のゲストを招き、テーマに関連する掘り出し映像を上映するというものだった。

●自分の面白さをわかりやすく分かち合えるチャンスを作る

 第1回は、1995年8月に中野で行った。
 だが、映画監督の園子温さんを招いたのに、広報ポスターを数百枚程度しかまかなかったため、20名程度の動員しかできなかった。
 しかし、回を重ねるごとに集客ノウハウや広報の仕方もわかってきて、12回目になる1996年7月にオールナイトで行ったイベントには動員数が300人を突破した。

 「Create Media」(メディアを作れ)というタイトルで1年間だけ開催したこのイベントには、その後、カンヌ映画祭でカメラ・ドール賞を日本人で初めて受賞した河瀬直美さんや、今では有名になった臨床心理士の信田さよ子さんなども、ゲストに出演するなど、時代を先取りした人選だった。

 テーマも、路上文化の最前線、障がい者の性、AC(アダルトチルドレン)、寺山修司と現代の家出、格闘技の神話とリアル、マンガのネット連載の可能性、アンダーグラウンドのフェティシズム、公開親子ディベートなど、ユリイカの特集記事を生身の人間で表現するようなものだった。

 雑誌の仕事ではネタとして取り上げらにくいディープな東京のカルチャーシーンを凝縮したようなイベントだったので、雑誌記事に飽きたらないコアな人たちが客として足を運ぶようになっていた。
 これは僕のプライベートの関心を形にしたものであると同時に、僕の資質がライターよりも編集者の方に向いていることを自覚させた体験でもあった。

 1996年2月、『自殺だヨ、全員集合!』をいうイベントを企画・広報していたら、広島で連続自殺事件があった。
 すると、『宝島30』の編集長から突然、電話があった。
 「連続自殺について書いてほしい」とのことだった。
 僕は『宝島』にも僕のイベントについて書いていたので、興味を持ってくれたのだろう。

 この記事を書いた号の次の号で、『宝島30』は休刊した。
 その後、僕はある本を自分で編集して出したいと考え、宝島社に企画を持ち込んだのだ。
 企画は断られてしまったが、『宝島30』の編集部員がほぼ丸ごと退社し、メディアワークス(現アスキー・メディアワークス)に移籍したことを知らされた。

 メディアワークスに新設された「オルタブックス」編集部に挨拶に行くと、かつて『宝島30』の編集長だったU氏から「本を作るから企画を出してよ」と言われた。
 その場で宝島社で断られた企画を話すと、即決で「出しましょう」と言われた。
 それが、親から虐待された人たちの体験手記集『日本一醜い親への手紙』だ。

 この本が紀伊國屋書店ランキングに入るほど売れたので、その後、他社でも自分が作りたい本の企画を容易に通せるようになった。
 それを思う時、「やったことのないイベント主催をやってよかった」と心底思った。
 12回分のイベント全体の収支は大赤字だったが、ムリをしても人前で自分の関心事を形にし、発信していけば、誰かが見ていてくれるのだ。

 イベントの試みは、ビジネス面だけで言えば、失敗かもしれない。
 しかし、ビジネスに育てるためのノウハウを蓄積でき、本業を雑誌から書籍へと軸足を変えるチャンスにもなった。

 30歳で将来を考える際、自分自身に教育投資を試みる人は少なくないだろう。
 そこで、みんなと同じように資格を取得したり、スクールに通うのも悪くはない。
 だが、「みんなと同じ」を目指すことはライバルの多い激戦地に後から乗り込んでいく戦いを覚悟するってことだ。

 それと同じ労力をかけるなら、誰もまだやったことがないことを僕は考え抜きたかった。
 「自分自身が楽しめる理想的な試行錯誤は何か」を考え、僕にしかできないことで誰よりも僕自身が納得できる戦いをしたかった。
 数々のイベントに足を運んでいた僕は、「僕がやるならこういう切り口のテーマでこういう人選でこういう場所でやりたい」と考えていたから、その理想に近づけるように1年間だけ苦しんでみようと始めたのだった。

 そうすると、2回め以後から、前のイベントに観客としてお金を払って見に来てくれた若者たちの中から、「スタッフをやらせてください」と申し込む人が続々と現れ、広報ポスターを配布してくれたり、受付で精算のスタッフをしてくれたのだ。
 面白さが伝われば、「一緒にやりたい」と思ってくれる人も現れる。
 だから、なるだけ面白さをわかりやすく伝えることが大事だと教えられた。

 30歳は、それまでの仕事や趣味の経験を活かし、「自分らしさ」で勝負をかける良いタイミングかもしれない。
 失敗を失敗と認めながら次の成功につなげる試行錯誤に慣れるチャンスは、その年頃で作らない限り、老いてしまってはなかなか作れない。

 どん詰まりだと思ったら、やるっきゃないのさ。
 自分の人生の転機ぐらい、自分で作ろう。
 時間や他人に流されるのではなく。
 自分の人生に責任を持てるのは、自分だけなんだから。

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