Breaking News
recent

■差別・ファシズムを導く疎外感を育てるもの

 神奈川県海老名市の市議会議員・鶴指眞澄さん(71歳)が、ツイッターにこう書いた。

「マスコミに報道された人物は優越感が出る。
 一例が同性愛だ。
 生物の根底を変える異常動物」。

 批判を受けて削除した鶴指議員は、日本テレビの取材に「酒に酔ってふざけて書いた」と釈明したが、彼が同性愛者を「異常動物」とまで嫌悪するのはなぜなのか?



 ダイバーシティ(多様性)をふまえた寛容さが求められる時代に突入している昨今、この議員の個人的な資質だけを問うのではなく、生活保護受給者に対する差別や、外国人に対するヘイトスピーチなどを含めて、ひとりよがりに「正常/異常」を線引きしたがる人たちの動機がどこから来ているのかを考えてみたい。

 というのも、彼らを差別的な言動に動機づけているものには、大きく分けて文化的な要因と、医学的な要因がある気がしてならないからだ。
 差別を作り出しているものは、個人的な資質だけでなく、社会の仕組みによる影響もある。

 そう思ったのは、僕自身の母親の最近の言動に通じるものがあったからだ。
 彼女は70代後半で、要介護はまだつかいないものの、認知症の初期にある。
 同じ話を1日に何度もするし、何度「かけ布団はいらないよ」と言っても、毎晩勧めてくる。

 もっとも、そうした記憶障害は、2年前から29年ぶりに同居を始めた僕にとって、変化を理解し、受け入れることが難しいものではなかった。
 それだけなら、「老化だもん、仕方ないよね」で済んでしまえる話だった。
 むしろ、彼女が軽度発達障害の症例の持ち主であることに気づくまで、僕は同じやりとりにウンザリしながら時にイラつき、時に悲しくなったりしていたのだ。

 彼女は、「この味噌汁、おいしいよ。なんで食べないの?」と毎食ごとに言う。
 食べない理由はいろいろあるが、説明しても「こんなにおいしいのに食べないんだから」と不満顔だ。
 このやり取りを1日3度必ず繰り返すわけだが、ある時、僕はこのやりとりが、僕が19歳で家を出るまでと同じやりとりであることに気づいた。

 子どもの頃は、母親の出す食事について、「好き嫌いはいけません」ということが”しつけ”だろうと受け入れることで、朝っぱらから親と争うストレスを回避していた。
 親がどんなに間違っていようと、金がない子どもの自分にとっては隷属するしかないのだと思っていた。
 それは、「自分で稼ぎ始めたら親のようには生きたくない。親と自分は違うのだ」という思いを強めることになった。

 しかし、いざ大人になって、他人を見るように冷静に母親を観察してみると、母親の言動に軽度発達障害の症状を疑わざるを得なくなったのだ。


●異常と正常を分けたがる作法は、とても差別的かつ権力的

 軽度発達障害の症状には、人との距離がとりにくい、感情が激しやすい、人の気持ちがわからない、環境に適応するのが難しい、忘れっぽい、計画性がない…などが指摘されている。
 このほとんどに僕の母親はあてはまるのだが、中でも「人の気持ちがわからない」と「人との距離がとりにくい」という属性はズバリ当たっている。

 母親にはほとんど友人がおらず、家に友人を招いたことがほとんどないし、年金生活の前から専業主婦だったので、午前中に家事を終えると、午後はずっと図書館で借りてきた本を黙って読んでるだけの暮らしだ。
 夫婦で旅行することもほとんどないし、週4日は社交ダンスの趣味や町内会の役職で外出する父親とは大違い。

 母親は「ひきこもり主婦」そのものなのだが、僕が自分で自分の食事を作ろうとするのを嫌がり、厨房の支配者として振舞おうとする。
 もちろん、家事という仕事で自分の存在価値を担保してきた彼女の自尊心を傷つけるつもりはないのだが、親と同居して初めて僕は胆石で手術入院するはめになった。

 東北出身の母親の料理は味が濃すぎて、しかもてんぷらなどの油ものが多く、刺身やインスタントラーメンなどまったく同じ食材を毎度スーパーで買ってくるので、栄養が偏るのだ。
 それでも黙って食べてきた習慣のある父親は不満を言わないが、僕はもう病気にはかかりたくないので、自分で野菜を切って、魚を焼いたりしてるのだが、母親はそんな僕の姿を見るたびに必ず「みんなと同じものを食べないなんて」と不満を口にする。

 最近はそんな母親の言動をスルーして平気になったが、「僕は僕の好きなものを食べたいの」と言おうものなら、母親は「面倒くさいヤツだ」とイライラした声でののしるのだった。
 彼女は、自分と自分以外の人では、食べものも、着るものも、すべてに好き嫌いがあり、人それぞれ異なるのだということが、受け入られない。

 彼女には、違いを認知することや、違いに配慮することが、脳機能的に困難なのだ。
 これは、一つには生まれつき彼女の脳がそういう出来になっているという個人的資質だといえる。
 便宜上、「軽度発達障害」という言葉を引用してはいるが、僕はそこに優劣をつけるつもりはない。

 人それぞれ、脳機能が違っていてもいいと思う。
 その違いを上手に活かせる仕組みさえあれば、多くの人ができないことをやってのけるかもしれないし、多くの人が犯す間違いをあらかじめ避けることだってできるかもしれないのだから、脳機能の違いは個性そのものといえるだろう。

 不幸なのは、軽度発達障害のように「自分と他人の違いを認知できない」(=受け入れられない)場合、そういう人たちが社会から孤立しやすいということだろう。
 僕の母親が友人づきあいを煩わしく感じて、たった一人で読書をする日常に安心を見出しているのは、隣近所の噂話のような下世話な趣味についていけないこともあるが、主訴としては「お互いの違いを知ってワクワクする」という作法がどうにもわからないからだ。

 彼女の生い立ちの中では「軽度発達障害」という言葉もなかったし、それを問題視するコミュニティもなかった。
 それゆえ、自他ともに波風も起きないまま、彼女は彼女なりに自分を生きやすくする作法で社会を渡ってきたのだ。
 しかし、それをそのまま受け入れて万事OK、とはならない。

 僕の母親も、前述の70代の議員と同様に、テレビで同性愛者を見ると「異常」と言う。
 「マツコ・デラックスは女なの?」と尋ねては、笑う。
 このように「異常」という言葉で、その外側に「正常」があるかのようにふるまう作法は、とても差別的かつ権力的なものだ。
 ひとりよがりの正義の旗ほど、自慰の性液で汚れている。
 では、「異常/正常」を分けたがる人たちは、なぜひとりよがりを続けているのか?
●差別的言動を動機づける承認欲求は、支配欲求へと変わる


 日本人は戦前まで、生まれ育った土地で一生を終える人も少なくなかった。
 しかし、戦後、急激な工業化、そして第3次産業の発達に伴い、故郷を捨てて都市部に仕事を求め、夫婦で子どもを産み育てるということを史上初めて経験することになった。
(※戦前までは、祖父母・父母・子どもの3世代同居が当たり前で、子どもを育てていたのは、働き手を引退した祖父母だった)

 たった70年間の中で、日本人はどんどん土地を転々とし、自分の家を買い、核家族を作り、やがて家という建物にこもっていった。
 それは、「土地が違えば文化も違う」とか「会社が変われば文化も違う」ということに不慣れであっても、慣れていかざるを得ない歴史だったということだ。
 つまり、多様性に対する寛容さを求められ続けたわけだ。

 しかし、その一方で、同じ土地で長く働き、昔なじみの人間関係しか親しむことがなく、なじんだ家にずっと住み続けてる人たちも一部にいる。
 僕の母親も、家を買った45年前から専業主婦であり、ひきこもりだが、こうした属性は彼女ばかりではない。
 若い頃から多様な属性の友人との出会いを避け、1人っ子ゆえに話し相手もないまま、朝から晩までネットばかりやってる人たちもいる。
 地域経済の疲弊と比例して減っていった仕事にありつけないまま、自分の居場所を求めても、探すだけの資金もなく、やむを得ず孤独なニートとしてひきこもっている人たちもいる。

 そうした社会からの疎外感をこじらせていけば、自分の状況を「不遇」や「不当」と感じる先に、「あいつが悪いんだ」(=俺は間違ってない)と言わんばかりに外国人や同性愛者などのマイノリティに対して差別的な言動を動機づけられる人も出てくるだろう。
 それがネット上に不満として立ち現れると、「俺と同じだ」と親近感がわいて群れを成す人たちも出てくる。

 僕がそうしたシーンを興味深く思うのは、1つの話題については差別的なのに、べつの話題では多様性に理解を示すことが往々にしてある点だ。

 たとえば、「嫌韓」で一致してるのに、多様な萌えアニメの趣味については「好き好きだよね」と言ってみたり、「ゲイは死ね」なんてことを平気で書いて盛り上がってるはずの連中が、「いじめられて自殺を考えた」というゲイ当事者の告白リンクをつけられたら「わかるけどさ」なんて言葉をつけ足したりして、どこか「自分の居場所」と思える部分があると途端に寛容な構えをチラ見せするのだ。

 そのこと自体が、差別的言動が社会からの疎外感から動機づけられることの証左だとしたら、多様性を重視したい人には、差別的言動をとりがちな人たちを仲間はずれにしない作法が求められている気がする。

 承認欲求は支配欲求にすり替わる恐れを常にはらんでいるし、それは安倍総理もまぬかれないからだ。

 安倍が支配欲求を露骨に表せば、疎外感を持て余した人たちは、その後ろを喜んでついていくだろう。
 ファシズムの足音が聞こえてくるようだ。

 海の向こうでは、中東のイスラム原理主義者たちが「イスラム国」を名乗ったものの、その国内で3500人以上も「国民」を処刑したそうだ。
 そんな彼らを、アメリカやフランスなどがこぞって圧倒的な物量作戦によって空爆をくりかえしてる。
 そして、またどこかでテロがおこる。
 まさに泥沼だ。

 それを思うと、平和な日本の差別主義者たちと上手に付き合えないまま煙たがってるだけなら、そんな僕ら自身が「自分たちの見たいものしか見ようとしない偏狭さは持ち合わせていない」なんて、断言できるんだろうか?


上記の記事の感想は、僕のtwitterアカウントをフォローした上で、お気軽にお寄せください。


 共感していただけましたら、下にある小さな「ツィート」「いいね!」をポチッと…

conisshow

conisshow

Powered by Blogger.