日本では「なんだか複雑」「悲しいこと」と困惑などとも書いているが、困惑してるのは、歴史を知らないごく一部のネットユーザのみだ。
9・11のアメリカでの自爆テロが起こった直後、ジャーナリストの立花隆さんは「文藝春秋」(2001年11月号)に『自爆テロの研究』という文章を発表している。
後年、『イラク戦争、日本の運命、小泉の運命』という本に収録されたその論考は、以下のようなものだ。
1972年(昭和47年)、テルアビブ空港で日本赤軍の奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人が銃を乱射、無差別テロを図った事件があった。死者24人、負傷者70人以上。奥平、安田の二人は乱射後、手榴弾で自殺した。
立花氏は、「イスラム原理主義過激派の自爆テロ攻撃の源流も、このテルアビブ空港乱射事件にあった」とし、こう続ける(※一部を抜粋)。
「テロ活動はパレスチナ・ゲリラ組織(民族主義者の組織と左翼革命の運動組織)の軍事行動の一環として、ヒット・アンド・アウェイ的にイスラエルの国家組織(軍、警察、官庁など)に対して仕かけられた。
あくまで敵に打撃を与えてすぐ逃げる生還を期す行為だった。
初めから必ず死ぬとわかって突っ込む自殺的作戦ではなかった。
そこに自殺的特攻作戦を持ち込んだのが、日本赤軍のロッド(テルアビブのパレスチナ名)空港作戦だ。
初めから死ぬとわかっていて突っ込む特攻作戦は、アラブ人に衝撃を与えた。
彼らには考えられない行動だった。
オカモトはたちまち英雄にまつりあげられた。
パレスチナ人の革命派組織はオカモトを褒め称えたものの、自分たちが特攻作戦でそれに続こうとはしなかった。
その後、彼に従う特攻攻撃者はほとんど出ていない。
あまりに合理性にかけているからである。
パレスチナ人はもともと教育水準が高い人が多かった。
それぞれの国でいいポジションを得ており、特に教育職、エンジニアなどの知的職業が多い。
そんな彼ら(イスラム過激派)が90年代に入り、自殺攻撃作戦を取り始めてしまう。
左翼革命主義者たちは合理主義者であるから自殺を前提とする作戦はとれなかった。
しかし、イスラム過激派は宗教的信念にもとづいて死という前提を平然と乗り越えてしまった。
神のために死ぬ殉教は、生より望ましいものだったからだ」
●帰属するコミュニティと心中する文化が導いた自爆テロ
さて、テルアビブ事件が極左テロであったとしても、それが日本人による自爆攻撃の最初ではない。
世界中の誰もが知っているように、戦争当時から日本は「特攻隊」(kamikaze)や「人間魚雷」など自爆前提の特攻スタイルを採用していた。
思想の左右に関係なく、この国には自分の帰属するコミュニティのために殉死することが尊ばれる文化が長らくあったのだ。
思想の左右に関係なく、この国には自分の帰属するコミュニティのために殉死することが尊ばれる文化が長らくあったのだ。
敗戦まで、天皇は「現人神」だった。
当時の日本人にとって、「神のために死ぬ殉教は、生より望ましいものだった」。
日本は文字通り、命を捨てて戦う攻撃スタイル。
しかし、欧米の世界では、「敵に打撃を与えてすぐ逃げる」のが当たり前の攻撃スタイルだ。
しかし、欧米の世界では、「敵に打撃を与えてすぐ逃げる」のが当たり前の攻撃スタイルだ。
欧米の人たちは生き残るために勝とうとするのだから、欧米の報道関係者が日本の戦い方を「クレイジー」と感じ、「kamikaze」と訳すのも無理はない。むしろ、彼らにとっては適切な表現とすらいえる。
もっとも、自爆テロを導いた特攻は、自滅作戦というより、国家・家族などのコミュニティと「心中」するのが美しいと感じる文化である。
その文化が今日までずっと続いているがゆえに、戦争のような有事でなくても、コミュニティのために殉死したエピソードや夫婦心中のドラマは、日本人には今も歓迎的に受け入れられている。
これは、同じ一つの田んぼをみんなで耕し、収穫を分け合うというコミュニティで長く暮らし、明治以後はそれを「イエ」という単位で家父長制として明文化した日本独自の厄介な文化なのだ。
戦後は、バブルがはじけるまで、会社という組織がコミュニティとして機能し、会社のために命を投げ出すことが美徳とされた。
良いか悪いかは人それぞれ受け取り方は違うだろうが、僕はとても生きづらい文化だと感じている一人である。
「コミュニティのために心中する」という滅私奉公的な作法を忘れたり、学校中退や失業、家出、病気などの境遇になると、コミュニティの外側へ追いやられ、「支援」の対象にされてしまう。
「コミュニティの内側へ帰れ」(=ふつうになれ)というわけだ。
しかし、「心中したくもない関係がそこにあるから戻りたくない」と感じる人にとって、支援対象にされることは「下」に観られているのと同じ。
「上から目線」にばかりさらされれば、この世に自分の居場所なんて無いんじゃないかと思い詰めてしまう人も出てくる。
「上から目線」にばかりさらされれば、この世に自分の居場所なんて無いんじゃないかと思い詰めてしまう人も出てくる。
そのような孤立をこじらせれば、「みんな死んじゃえ」とばかりに無差別殺傷事件という「無理心中」を起こす人たちが出てくるわけだ。
最近では、フクシマという3番目の被爆地を国内に生み出した原発を、トルコやインドなどに総理自らが売り込んでいる。
いざ事故を起こしたら日本人が全額賠償責任を負うというのだから、これも心中や自爆テロの精神そのものだ。
「俺も死ぬから、お前も死ね」
それが、心中=自爆テロの基本モデルだ。
自分の命を安く感じることで、相手の命まで安く扱う。
自分の虚無や孤独を持て余し、自力では満たせない自尊心を満たすために相手を必要とし、その相手を支配しようとする。
相手を自分なしには生きていけない無力な立場に導こうとするのだ。
これを、心理学では「共依存」という。
恋愛や政治、経済やヤクザ、児童虐待やDVなど、すべての関係においてこのパワーゲームによる支配構造を強いてくるのが、日本人特有のいやらしさだ。
外国人が日本という国を面白がって、もっと知ろうとしてくれているのは、ごく最近のことだ。
ここ10~20年間でやっと世界の多くの国のふつうの人々が、日本が地球のどこにあり、どんな暮らしぶりなのかに興味をもってくれた。
だからこそ訪日外国人客数も増えた今日、僕ら日本人は、自爆テロや心中といった共依存のような忌まわしい文化を反省し、他国と仲良くできるよう、自分の頭で考え、同調圧力に負けないインディペンデントな力強さを内面に身につけることが必要だろう。
それが、世界から評価されている本来の日本文化の良さを守っていくことになる。
世界から高評価を得ている日本文化の多くは、原発や広告、政治、相撲ではなく、弁当・マンガ・茶道・空手などに代表されるような「職人的な個人技」である。
それらは、空気による同調圧力に屈しないところから生まれたものばかり。
kamikazeを輸出してしまった日本は、そうした「世界に誇れる日本人」をどんどん文化資本として輸出する方が、インバウンドにも良い効果があるように思う。
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