僕が水木さんの漫画を最初に見たのは、40年以上前の小学生の頃だ。
最初は、妖怪をたくさん絵で見せた図鑑『妖怪大百科』だったように思う。
(※当時は、タイトルが違っていた)
ものすごい労力を要する点描で描かれた妖怪たちは、なんとも「妖しい存在」に映った。
確か、当時の中身はモノクロだったように思う。
絵本の中の絵をまねて書き写す遊びをしていた僕にとって、水木さんの妖怪の点描は、めまいがするほど大変な作業であることを追体験していたから、覚えているのだ。
その本の中にいた妖怪たちは、人間や動物や昆虫などの目に見える生き物ではないのに、僕が子どもだからまだ見たことがないだけで、世界のどこかに実際に生きている存在のように見えたのだ。
だからこそ、怖かった。
大人になるにつれ、その妖怪も、怖さも、僕の記憶からも忘れられていく。
いつか雑誌で見た水木さんの「片腕」のインパクトすらも…。
映画評論家の町山智浩さんがラジオで、水木さんの『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメソングに影響を受けたと告白していた。
「幼稚園の頃に『おばけにゃ学校も試験も何にもない』なんて聞いたら、学校行かないですよw」
そのラジオを聴いていたら、ふと思ったのだ。
水木さんの描く妖怪を見ることで刻印された恐怖は、子どもの頃に感じていた以上の意味があったのだと。
なぜ、水木さんは妖怪を「生きている存在」であるかのように点描でしつこくリアルな恐ろしさを子どもたちに刻印したのか?
それは、水木さん自身が作詞した『ゲゲゲの鬼太郎』の歌詞に端的に表れている。
●誰もががんばらなくても生きていける仕組みを作り出そうよ
この歌では、学校・試験・会社・仕事・死・病気がない世界を「たのしいな」と歌っている。
これは、人間自身の欲望そのものではないか!
僕らは、学校も会社も病気もある社会を生きている。
それらはあくまで「必要悪」であって、本来望んでいるものとは違う。
とりあえず仕方なく受け入れているだけなのだ。
ところが、いつのまにか僕ら人間は、それらなしには生きられない仕組みを社会の中に作り出し、そのたびに社会はどんどん複雑化してしまった。
そして、今ではその仕組み自体に縛られた不自由を「ガマンするしかない」とあきらめてしまっている。
不自由しかこの世界にないと思い込んでしまっている。
妖怪のように「見えないもの」は現実を変えられないと、一笑に付してしまう。
そのこと自体がとんでもなく恐ろしいことではないか?
漫画の中の鬼太郎は、とろい顔でたばこをぷかぷか吸っては飄々と朝寝する「グータラ青年」だ。
言ってみれば、「モーレツ社員」がもてはやされた高度経済成長時代のニートである。
ところが、スポンサー企業やおもちゃメーカーを喜ばせて金儲けしたい広告代理店によって制作されたテレビアニメや実写映画は、「平和を愛する正義のヒーロー」に仕立て上げられ、キャラが変わってしまった。
鬼太郎は、そんな「意識高い系」とは真逆なのに。
しかし、大衆受けなど、水木さんの漫画にはどこにも感じられない。
実際、『ゲゲゲの鬼太郎』も連載スタート時は人気がなかったそうだ。
(※絵本の妖怪図鑑は、今日でも資料的価値が高い)
やがて『悪魔くん』の実写ドラマ化や『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメ化で水木マンガの人気が上がっていくが、それはあくまでも「必要悪」であって、本質的に望んでいるあり方ではないことを、水木さん自身がよく心得ていた。
鬼太郎の漫画の背景が3Dのように点描できわめて立体的に描写されているのに対し、その前にいるキャラクターは単純な線で描かれている。
つまり、人間を環境から「浮かせて」いるのだ。
そういう描き方を、売れる前の貧乏時代から売れた後、そして最後までずっと踏襲してきた漫画家が、水木しげるという人だった。
これは、世間からの評判や人気にさほど興味をもっていなかった一つの証拠だろう。
戦争で左腕を失おうと、どんなに貧しくなろうと、その不自由を「必要悪」に居直って世間受けしそうな絵に変えて埋め合わせようとはしない潔さが、水木さんにはあった。
仕事をして金を得なくては、衣食住すら得られない社会。
偏差値の高い学校を卒業しなければ、それに見合う収入を得られないと脅される社会。
そんな生きづらい社会で生きなければならない僕らの本質的な仕事は、仕事も何もできない人でもまともに生きられる仕組みや、学歴や学力が高くなくても生きていける仕組みを作り出すことじゃないだろうか?
「東大を目指して勉強したり、高所得が得られる大企業に就活する鬼太郎を、きみは見たいか?」
水木さんの漫画は、そんなことを言っている気がするのだ。
NHKのインタビューに答えて、水木さんは、「現世は地獄だと思って働くんですよ。でも、私は石森とか手塚さんみたいにまじめにやらなかったから生き延びられたんです」と笑っていた。
「必要悪」にすがりつくばかりのさもしさを続けた挙句、みんなで戦争という地獄を地上に作り出してしまった歴史が人類にはある。
その歴史を繰り返さずにいられるのは、愛や憎しみなど、妖怪のように「見えないもの」があるからだ。
水木さんの死によって、ちゃんちゃんこを着の身着のままの鬼太郎が、飄々と去ってゆく。
その後ろ姿に、「ああ、いつの時代も本当のヒーローは一張羅なんだな」と思うのだ。
合掌。
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