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■おふざけを許さない「保護者」への無視が文化を守る

 駿台予備校の講師が2015年2月に発行した大学センター試験向けの漢字の問題集『生きるセンター漢字・小説語句(駿台文庫)に、「性的な表現が含まれている」と保護者から内容について指摘があった。

「彼女のなだらかなキュウリョウをうっとりと眺めた」
「胸のデカさに俺はキョソを失った」
「彼女の生きたキセキをストーカーのように辿る」
 …などの性的な表現が、複数含まれていたのだ。

 そのため、担当者は「生徒が覚えやすいように例文を考えて作成した」と説明。
 版元の駿河台学園は「不愉快に感じた方がいればお詫び申し上げたい」と、改訂版を出す際に内容を見直す方針を発表した。

 予備校が売る副教材なら、買わなくてもいいわけだし、著者が講師なら同じ教科のべつの講師に変えればいいだけだし、立ち読みして「不快」と感じたら買う必要すらない。
 つまり、自分に必要だと思った受験生だけが買うわけだ。
(商品の中身を確認しないで買う消費者は、その消費行動の責任を自分でとるしかない)

 これが高校などで正式に採用され、生徒に「これを使え」と強制されていたなら、責を負うのは教材を選んだ教職員であり、内容を吟味しないまま使い続けさせた保護者(※未成年は監督責任者が親権者)であり、出版社ではない。

 なぜ、出版社が内容を見直す必要があるのか、僕にはよくわからない。

 絶版や自主回収をしなかったのが、せめてもの救いだ。
(※その後、販売停止と在庫回収を決めた)

 不快に感じた読者からクレームが届いたら、本の表現を直す。
 そんな措置を出版社がルール化してしまったら、著者は何も書けなくなる。
 それは、本の種類を問わない。

 どんなに売れた本も、偉大な本も、100点満点の満足感を覚える人もいれば、「不快」に思う人もいるし、同じ読者でも最初に読んだ時は「不快」に感じていたのに、時間が経てばその「不快」ゆえに有益だと気づく場合すらある。

 それが、本という商品があらかじめ読者に担保している多様な価値なのだ。
 これをふまえない限り、表現の自由の意味を誤解することになる。

 たとえば、『セクシィ古文』のように最初からタイトルに「セクシー」と入れておけば、不快と思う人は買わないで済むと考える人もいるだろうが、それは本質的な意味でゾーニングではないことは、読者によって不快と感じるポイントが異なるという「本の多様性」をふまえれば、ピンとくるはずだ。

 むしろ、「セクシー」という言葉を入れてないからこそ、その内容に「おやっ」と気づくわけだし、その「おやっ」という違和感を多様に感じさせることによって、読者はそれぞれ自分の中に疑問を持ち、自発的な学びを始めるのだ。
(逆に言えば、「おやっ」とすら感じさせない理路整然とした本は、一読して読みやすく、わかりやすいかもしれないが、あるべき多様性を巧妙に見えなくさせているともいえる)

 大学ジャーナリストの石渡嶺司さんは、こう書いている

センター試験は、ジェンダーの発想をかなり盛り込むようになっています。
それが、「夫婦間の家事ブンタンなんて幻想だ」「男の収入をドガイシできる女なんているのか? 」などの発想が通用するか、と言えば微妙なところ。
センター試験の得点にとどまらず、これからの男子高校生・大学生がこうした発想をもって生きていけるのか、という問題もあります。

 その通り!
 この指摘は、「問題」とされた表現を削除しないほうがいいことを証明している。
 改訂版で削除されてしまったら、石渡さんのような素晴らしいジャーナリストが突っ込まない限り、受験生は誰も問題視しなくなる。

 つまり、出版社も著者も、今回のことで受験とは無縁の人々に考えるチャンスを提供し、議論を呼んだのだから、その事自体を学びとして予備校生に提供すればいいのであって、改訂版で品行方正な表現に直す必要はないのだ。
 逆に、一部の指摘で修正に応じてしまったら、まるで文科省による検定教科書ではないか。

 市販の副教材は、民間で自由にわかりやすく記憶に残りやすい表現を採用するのが商品価値のはずなのに、その価値を自ら否定しては、端的に売れにくい内容になっていくだけだ。

 そもそも、「保護者」は問題集の購読者ではない。
 ただのノイズを発する外野だ。
 「保護」を自称しながら子どもを無菌室で育てたがる親の圧力に屈してはいけない。
 自主回収や自粛は、文化を作る・守るという出版の仕事の価値を貶めるだけだ。
 性的表現がイヤなら、性的表現がない問題集を買えばいいだけの話なのに、なぜ特定の商品をつぶしにかかるのかを考えると、恐ろしい気がしてくる。



●「インテリの暴走」には、ナチズムに通底する恐怖を覚える

 何を「不快」に感じるかは、人それぞれだ。 
 誰かが「不快」に感じたという理由で表現を直すのが慣例化したなら、僕は真っ先に「教科書を絶版にしてくれ」と言うだろう。

 実際、教科書の方が、受験に特化した市販の副教材よりも、さまざまなマイノリティ属性の生徒にとって「不快」な表現がたくさん含まれている。
 セクマイにとっては結婚・出産・子育て・法律など、いちいち自意識を刺激される表現が当たり前のように満載されているし、障がいを持っている人にも、勉強ができない人にも、貧しい家の子にとっても、それぞれ「不快」としか言えない表現がしつこいくらい出てくる。

 しかし、「不快」であっても、覚えなきゃいけないものだし、先生に言っても解決できないから、自分の心の中で飲み込むしか無いのだ。
 そうした不満を解消してくれるのが、民間企業が提供する市販の本だったはずだ。
 そこで、「誰かが不快に感じたから」と表現が自粛されてしまうのなら、文芸関連書籍を主力商品にしている出版社は、毒気のある純文学も出版できなくなって倒産するかもしれない。
 それが怖いから、出版社は毒にも薬にもならない甘口の本だけを作るようになる。
 もちろん、著者も書く時点で自粛を求められるだろうね。
 そしてコンテンツは疲弊し、ますます売れない本が増える。
 ただでさえ出版業界は沈没船なのに、それでいいと思う?

 今回の騒動で観るべきは、むしろ市販の副教材を多様に必要とするほど、文科省が「検定」してる教科書の表現がより多くの読者を満足させられるようには作られておらず、知識を面白く伝えることができていない点だ。
 だから、副教材を民間会社が工夫して作って売る必要が出てくる。
 これは、金が無い家庭の子にはハンデになる。
 インテリすぎて世間知らずになった人たちが教科書を作ると、格差を助長しかねないのだ。

 僕は、中学生の頃、高校に行けないと先生から勝手に判断された低学力のヤンキーたちに、教科書を噛んで含めるようにわかりやすく教えてた。
 たとえ話をする際は、インテリから見れば下品な表現も多用した。
 その方が彼らにとって親しみを持って理解できる「実践的なやり方」だからだ。

 自分が高い倫理を実現できる立場にいるからといって、そんな贅沢など言ってられない人たちの選択を「下」に観るのはやめてくれ。
 それは、まさに「差別」そのものだし、全裸で生きてきたアフリカ原住民に「恥ずかしいからパンツを履けよ」と強要し、自分たちにとってのみ都合の良い資本主義を刷り込ませた傲慢な構えと同じだと自覚してほしい。

 ふざけた表現には、それを切実に必要とする人がいる。
 教科書だけを読んでその内容をそのまま正確に受け入れるという理解の仕方を学べば、受験には強くなれるかもしれない。
 しかし、それは融通の利かない人間になっちまうんじゃないだろうか?
 融通が利かないとは、自分の知らない(あるいは毛嫌いしている)文化圏の人間に関心を持ったり、つきあうことなしに、学力も経済力も余裕がある自分だけの基準で査定する振る舞いをしてしまうということだ。

 昨年末の「おっぱい募金」騒動でも、中止を求める人たちは、おっぱいを揉ませたAV女優と話し合うこともなければ、「おっぱい募金」を主催したスタッフたちとの話し合いを求めることもなかった。
 要するに、「私が不快だからやめろ」という一方的な論理を錦の御旗にして署名を集め、正義を気取っているだけだったのだ。

 それはナチズムの台頭にも似て、僕にはとても「不快」に感じられた。
 話し合いを要求しないまま誰かの言動を中止させようとするのは、民主主義社会においては愚挙であり、暴挙以外の何者でもないからだ。
 なぜ、彼らはネオナチのように「自分たちの社会」を独善的に設定し、たった年1回の「おふざけ」にすぎないイベントを中止に追い込もうとするのか?

 週刊誌『AERA』も、自分の目で現場を確かめないまま「おっぱい募金」を叩いていた。
 むしろ、税金を使って性差別を堂々と続けている神奈川県の「女性の活躍応援団」(男性限定)を取材する方が、はるかに公益に資するだろう。
 なぜ、駿台予備校やテレビ番組制作会社のような中小企業を叩き、自治体や国家、大企業の作り出している巨悪と戦わないのか?
 巨悪を叩くより、中小企業の方が叩きやすく、「下品さ」を指摘した時に大衆に受けやすいからだ。
 ジャーナリズムや志、勇気より、生産効率が良い方を選ぶってことだ。

 そこには、「インテリの暴走」と名付けるべき傲慢さがある。
 前述の「保護者」と同様、当事者ではない人間が当事者を保護したがって、当事者の権利を奪う構図だ。
 彼らの声が世間にまかり通れば、文化全体が疲弊する。

 教育投資が受けられない家庭に育って、低学歴層に入って働いている人たちの振る舞いを、上から目線で一方的に「下品」だと査定されても、「おまえから見ればそうだろうよ」としか言いようがない。
 そもそも、誰かの品格を査定するなんて、どれだけ偉い人なのか?

 戦後の闇市で違法な闇米を食って生き延びてから70年、この国には「自分だけはきれいに生きてきた」と自負して疑わない成金の子が一部にいて、自分自身の「不快」を解消したいがために他の人に対して「品格」を決めたがり、おふざけすら許さない冷徹な論理を持ち込んでは社会の「健全化」を推し進めようとしてる。
 そういう振る舞いこそ、さもしいことじゃないかい?
(※この記事の後編は、コチラ

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