アメリカの独立系PR会社「エデルマン」の日本法人「エデルマン・ジャパン」が、28カ国3万3000人以上を対象に、2015年10月13日から11月16日にかけて実施した調査によると、日本人で「自分が働いている企業を信頼している」と答えた人は全回答者中40%で、調査国の中で最下位だった。
僕はそのことを「ねとらぼ」の記事で知ったのだが、ISOの専門誌『アイソス』でCSRに関する連載をしている僕としては、自分の勤務先を信用できない人が過半数もいれば、CSRがなかなか社会的課題を解決できずにいるのもうなづけると思った。
CSRとは、企業の社会的責任を果たす仕事をする部署だ。
企業を政府やNPOのように社会的課題を解決する公的な機関だと位置づけ、事業を通じて社会的課題を解決するのが、CSRの仕事だ。
しかし、自社の利益拡大の持続可能性を担保するためだけにCSRを位置づければ、「課題解決は表向きの理想」のままとなり、「利益拡大こそ最優先課題」という自社の内側の事情だけが本音として温存される。
経営陣がそういう考えでは、CSR担当部署で働く社員はもちろん、顧客である一般市民も浮かばれない。
もちろん、「利益拡大を最優先課題にするな」と言いたいわけじゃない。
利益拡大と同じ歩調で社会的課題の解決に取り組まないと、社会自体が持続可能にならず金儲けやってる場合じゃなくなるぞ、ということだ。
実際、企業の持続的な経営にとって「待ったなし」の社会的課題は山ほどある。
環境汚染、農業の人出不足、エネルギー・資源不足、医療や福祉の歳出拡大、少子高齢化など、あげればきりがない。
企業がその資本を、社会的課題を速やかに解決できるNPOなどの社会企業家へ投資しただけでも、課題解決は一気に進む。
一部ではそうした形で社会企業家の仕事を活性化させる動きも増えつつはある。
しかし、まだまだ十分とはいえない。
ふつうの国民がそうした動きをほとんど知らないのだから、とても十分なんて言えないのだ。
なぜ、深刻な社会的課題があることを知っていても、自分の働いている会社で、いつもの仕事を通じて解決していこうという構えにならないのか?
社会的課題を解決するという動機が、企業経営者だけでなく、一般市民の間でも十分に高まっているとはいえないからだ。
それは、前述の調査でも明らかになっている。
世界では8割の人が、企業による社会的課題の解決に期待しているのに対して、日本ではまだ56%程度の人しか期待してない。
これは、本質的な部分を見ようとするなら、「社会を変えるのは政治家に任せておけばいい」という受け身の”おまかせ民主主義”から脱却していない人が多いからだろう。
●自治マインドが育ってない日本でCSRを進めるには…
戦後、日本国憲法に「国民主権」が明記されても、多くの日本人はいまだに主権者としての仕事は選挙で代議士を議会へ送り込むことだと勘違いしている。
主権者とは、社会を自分たち自身が生きやすいように作り変える主体(主人公)ってことだ。
社会的課題があるなら、それを解決する担い手をいきなり誰かに任せるのではなく、自分たち自身で解決するという「自治マインド」がない限り、主権者意識とはいえない。
自分たちで社会的課題の解決をがんばってみた。
けど、どうしても無理だ。
それだけを政治に任せるなら、公共事業に使う税金を減らすことだってできるし、政治家の権力の最小化もできる。
そりゃ、そうだよね。
民間で社会的課題をどんどん解決してしまえば、政治家が税金で解決する正当性がどんどん奪われていき、政治家の数も公務員の数も減らせるんだから。
しかし、日本人は何か困ったことがあると、当たり前のように「政治家、なんとかしろ!」と言い出し、「役所は何をやってるんだ!」と怒り出す。
そうした日本人が多いうちは、「おまえら市民は何もできないんだろ。よっしゃ、よっしゃ、ワシに任せろや」と政治家は安心して権力を行使できるだろう。
官僚たちも、「どうせ愚民じゃ、俺たちの仕事を奪えないだろ」とほくそ笑むだろう。
そして、自分たちの仕事が奪われない安心感から、ますます既得権益として税金をじゃぶじゃぶ使いまくるわけだ。
つまり、国民が主権者意識を持たずにいれば、権力の思うがままなのだ。
おかげで、安保関連法は、自民党の伝統芸の強行採決で成立してしまった。
これは主権者であるはずの国民の敗北そのものなのだが、根本的に主権者意識を持てない国民は、いつまでもイデオロギーの左右対決に目を奪われたままだ。
では、なぜ、日本人は主権者意識をもてないままなのか?
おそらく教育の影響が大きいように思う。
戦後、日本は法の下に誰もが平等になったはずなのに、「先生は先生だから偉い。だから従え」とか、「医者は医者だから偉い。だから従え」という具合に、原理主義的に上下関係(支配関係)を強いることをいまだにやめていない。
本当は、親子も対等だし、医者・患者も対等だし、総理もホームレスも対等なのに、それを「努力目標」として先送りし、同時に国家が国民に教えたいことを一律に教えることを正当化してきた。
戦後から高度経済成長期までは、それでよかったかもしれない。
何もない焼け跡闇市から、資源のない国が復興するには、優秀な人材を1人でも多く育てることが最優先ミッションだったからだ。
しかし、すでにバブルが弾けて久しく、低成長を迎えた成熟化の今日の日本では、同じことを一律に学ぶ仕組みでは、学歴・所得の格差が広がるばかりだ。
本来なら大胆にカリキュラム編成を見直し、学力で勝てる見込みのある子は学力を伸ばし、それ以外の子には学力が一定以上なくても食いっぱぐれのないように「稼ぐ力」を身につけさせることで、東大卒でなくても東大卒レベルの平均年収(840万円程度)が達成できるだけの別のカリキュラムが必要だろう。
もっとも、政治家や官僚は、ビジネスがわかってないからそういう職種についてる人たちばかりなので、彼らに期待したところで、トンチンカンな仕組みしか作れないだろう。
だから、僕は民間で「稼ぐ力」を身につけられる塾を、進学塾・受験塾の代わりに作ればいいと考える。
月謝を払ってもその何倍以上も稼げる子がどんどん出てくれば、仕事を通じて社会的課題を解決できる人材を増やすことになり、そのこと自体が「自治マインド」を育てることになると考える。
そもそも、教育とは、統治権力が国民を統治しやすいように仕組む手段の一つだ。
こんなことを僕は高校時代に本を読んで知っていたので、自分が国家や教師、親や先輩などから教わったことのメリットとデメリットの両方を同じ数だけ考えてみた。
教えられたことを鵜呑みにするのではなく、「本当か?」と疑い、自分で教えられていないことを学び、自分の身に起きたことを検証するのが、自分の頭で考えるってことだろう。
ここで改めてCSR担当社員の仕事を考えれば、自社のビジネスを活用して解決できるはずの社会的課題を見定め、解決の仕組みを生み出し、そのコストをまかなえるだけのビジネスモデルを経営者側にプレゼンすることだろう。
ISOのガイドラインや同業他社、経団連のCSRテキストに目配りしながら、マニュアルのような似たり寄ったりの「横並びCSR」で体裁を整えたところで、社会的課題を解決する新しい仕組みは作れない。
現実の社会を変革している本物の社会企業家の仕事を見ればわかるように、その社会的課題によって苦しんでいる当事者の声に耳を傾けることだ。
そして、当事者固有の価値を発見し、その価値を尊敬すれば、課題を解決できる画期的な仕組みを生み出せるはずだ。
CSR担当社員がそこまでやれば、顧客にも一般市民にも課題解決の成果が見えるようになる。
そこで初めて、ふつうの市民も自分の勤務先の会社で、社会的課題を解決できることに期待を持てるだろうし、自分の働き方や仕事の意味も認識できるようになるだろう。
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