それだけ、テレビや新聞、雑誌にとって、この話題は、人気の取れるコンテンツなんだろう。
もっとも、この騒動の関係者ではない「第三者」の世間に属する僕ら一般人にとって、芸能スキャンダルとは世相から何を学び取るかの材料でしかない。
ファン以外なら他人事として笑い飛ばすのもいいが、本当に笑えることなのか?
前回の記事より一歩進んで書いてみよう。
①不倫相手の男との「バッシング格差」
「CM女王」だったベッキーさん(31歳)は、太田胃散、花王、スズキ、ローソンなど10社との契約がすべて解除された。
テレビ関係者は「契約打ち切りによる収入減のみならず、スポンサーへの違約金などでサンミュージックは3~4億円もの赤字になる」と指摘していたが、『世界の果てまでイッテQ!』『天才!志村どうぶつ園』(以上、日本テレビ系)、『中居正広の金曜日のスマたちへ』『モニタリング』(以上、TBS系)など10本のレギュラー番組もすべての出演を見合わせ、30日から芸能活動休止状態に入った。
一方、「ゲスの極み乙女。」のボーカル・川谷絵音さん(27歳)は、先月17日に代々木公園のフリーライブでファンに向かい深々と頭を下げて謝罪したが、ライブ終了後には集まった報道陣から逃げるように会場を去り、その後騒動への正式なコメントをしていない。
ゲスの極み乙女。は現在は曲作りに励んでいるそうで、TOKYO FMのレギュラー番組「ゲスの極みLOCKS!」(水曜後11・05)は当面出演を休止したが、3月13日開幕の全国ツアーのリハーサルを2月からスタート、3月30・31日に日本武道館公演を行うという。
不倫は2人でやったことなのに、この「格差」の大きさは、いったい何に起因するのか?
よくある見立てでは、女性は「奥さんがかわいそう」という気持ちからベッキーさんを非難する向きもあるというものだ。
実際、ベッキーさんが出演した番組のテレビ局に、主婦を中心に「教育上よくない」「騒動について子供にどう説明すればいいんだ」「不倫中の人を子供に見せるな」といった苦情が「10分間で1000件超」も視聴者から寄せられたそうだ。
同時に、マスメディア関係者には男性社員が多いため、「男の不倫は勲章」と軽視し、トロフィーワイフを得ようとした川谷さんをさほど叩かない傾向もある。
今回の不倫騒動がジェンダー差によるものだけなら、その指摘で腹を立てる人たちがいるのもわかる。
しかし、その男はアーチストだ。
アーチストは美しいものを作ることに最大の関心をもつので、市民の良識だって軽々と乗り越えていく。
逮捕されるような犯罪は避けるとしても、既存の倫理に足を取られる不自由さは好まない。
それどころか、自在に既存の常識を裏切っていく表現を目指すのが、アーチストの本懐だろう。
それは性の違いを問わない傾向ではないか?
そして、そんな男に恋した女は、「いつも明るくてポジティブな良い子」をテレビ画面で演じなければならない「CMの女王」だ。
そのキャラのイメージを失えば、莫大な金を失うだけでなく、多方面の関係者に迷惑をかける。
その恋は、芸能界で仕事ができなくなるばかりか、それまでの自分の人生の価値をすべて失うほどのスリリングな賭けだ。
それでも、倫理の通じない男と恋愛してしまうリスク。
この障がいの高さは、恋愛のときめきをイヤでも盛り上げるだろう。
他方、そういう男と結婚した妻も、不倫も含めたゴタゴタを覚悟して一緒になったはずなのだ。
②「良い子」は、視聴者のニーズによって演出されたもの
そこで考えておきたいのは、「いつも明るくてポジティブな良い子」は、テレビ局と広告代理店によって演出されたものであるということだ。
(注:同時に、「寝取られた妻がかわいそう」という良識の旗を立てては、大衆を味方につけて売上を伸ばすのが、雑誌などの商業メディアの戦略である)
演出されるのが仕事のベッキーさんにとって、テレビ局や広告代理店からオファーされたイメージに乗っかることは収入手段であり、生存戦略だ。
だが、仕事の顔だけで生きていけるほど、人間は単純ではない。
人前では仕事の顔でいなければならないとしても、それにすっかり疲れ果てた時、「帰る場所」はあるのだろうか?
「いつも明るくてポジティブな良い子」でないベッキーさんでも歓迎される家族や仲間なら、彼らと一緒の時間で満たされていたかもしれない。
しかし、恋は、いつどこで誰と落ちるのか、誰にもわからない交通事故のようなものだ。
奥さんがいる男との恋愛をカンタンに認める親も友人も、なかなかいないだろう。
ベッキーさんの家族・交友関係が実際にどういうものかは、わからない。
それでも、ベッキーさん自身が家族や仲間を愛していればこそ、不倫を告白するのは大変に勇気のいることだろうし、言えなかったかもしれない。
そうなると、良い子ではない自分が「帰れる場所」は、倫理が二の次、三の次になる男だけだ。
そう思うと、LINEで書いた言葉の数々が、2人の本心であるような気がしてくる。
しかし、いずれにしても、仕事の顔である「良い子」をオフタイムでも演じていれば、自分が本当は誰なのかもわからなくなってしまうのではないか?
そして、その問題は、ベッキーさん個人の問題というより、この社会を生きる同時代の誰にもあてはまる問題のように見えてくる。
奥さんを交えた3者の当事者間で話し合って解決する民事まで、世間やマスコミが掘り下げる必要はない。
これを読んでるあなたにとっても、どうでもいいことのはずだ。
そんなことより、視聴者としてベッキーさんに「いつも明るくてポジティブな良い子」を期待し続けることによって、テレビ局や広告代理店がそのニーズを汲み、ベッキーさんに「良い子」イメージを演出し続けることの恐ろしさを想像してみてほしい。
あなたは、ベッキーさんを追い詰めた1人かもしれない。
これまでさんざん表面上の「良い子」を演出され、自作の歌ですら「ポジティブ」を要求され、ほんとうの意味での自己表現など許されなかった彼女が、記者会見で4分間という短く一方的な優等生スピーチだけで質疑には答えないまま締めたのも、おそらく事務所や広告代理店などから言われたとおりに従っただけだろう。
関係者には深くお詫びしても、川谷さんについては「友達」の表現を貫き、「奥さんへの謝罪」を明言しなかったのは、ベッキーさんが初めて世間に見せた「良い子ではない一面」であり、彼女自身のギリギリの自尊心だったのかもしれない。
もちろん、その後、2人のLINEのやり取りが問題になり、世間から「ベッキーは裏表のある人間だったんだ」という不信感を買うことになったのだが、そもそも裏表のない人間なんているか?
「子供と一緒に見ていて吐き気がする」とか、「おたくのテレビ局は不倫を肯定するのか」などのクレームをテレビ局に入れた人たちは、裏表のない人間なんだろうか?
LINEの件が報じられ、僕はベッキーさんが「人間宣言」をしてくれたようで、少しだけホッとした。
今日の仕事現場では、誰もがベッキーさんになりうる。
「いつも明るくてポジティブな良い子」が労働者の見本になるなら、仕事は全部ロボットに任せればいいだけの話だ。
それを心のどこかで感じてるから、多くの人が今回の騒動のニュースに、えもいわれぬ違和感や既視感を覚えながら食いついてしまうのではないか?
③社会の「無菌化」は、きみの首をじわじわと締めてゆく
不倫が世間から後ろ指さされるのは、「私だってガマンしてるのに」と「私の夫を奪わないで」という気持ちに正当性があるとされているからだが、今回の不倫は「アーチストという属性を理解しないまま振り回される二人の女」という図式だ。
一般的な常識で「川谷が悪いよ」と一刀両断したところで、川谷さんは涼しい顔で最新作の『両成敗でいいじゃない』を歌うだけだろう。
この歌の詩が、タイミング的にしたたかすぎる(以下、一部を引用)。
妻がいるのに他の女性とつき合った当事者なのに、この男は2人の女の間から消えている。
他人事のように、「好きになった方がいいじゃない」なんてうそぶく。
この傲慢にも見えるトリックスターぶりは、何を意味するのか?
川谷さんなしには自分の存在や自尊心に手応えを感じない人形のような女たちの空虚感だ。
社会の文脈から浮いているアーチストにとって、常識的なリアクションをする女のほうが分が悪い。
妻は「バンドの裏方としていつも支えてくれる立場」で、ベッキーさんは「音楽のファン」だそうだ。
僕には、どちらも常識人のように見える。
結婚向きではない男を奪い合ったところで、誰が「勝つ」だろう?
それに気づけば、メディアの報道が「良い子」文脈でベッキーさんを叩いたり、妻を擁護するのもメディア自身の生存戦略であり、テレビ局に「不倫を肯定するな」とクレームを入れる主婦も主婦自身の生存戦略を叫んでいるにすぎないことにもピンとくるだろう。
しかし、「俺だってガマンして『良い子』やってるんだから、みんなもガマンしろ」という同調圧力は、怖い。
「自由に生きようとすれば、世間がうるさいからね」という言い訳をしながらガマンしてるその人自身が誰かの自由をねたみ、不自由を作り出している「世間」そのものだからだ。
実は、そのように「世間にとっての良い子」を演じる正当性の前に屈服することで、不自由ぶりを自分たち自身で作り出してしまう構図は、昨今いろいろなシーンで見られる。
世界保健機関(WHO)は、喫煙シーンのある映画やドラマについて若者を喫煙に誘導する効果が高いと指摘する報告書を発表し、「成人向け」に指定する措置を各国政府が講じるよう勧告した。
子どもや青少年を対象にする作品には喫煙場面を盛り込めなくするため、宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』も「成人向け」指定の対象。
次元大介も、くわえタバコができなくなるはずだ。
そういえば、安倍総理は甘利大臣が辞職した同じ日に新たな大臣を指名したね。
昨日までお仲間でも、「良い子」でなくなれば、サクッと自分の身内から消そうってわけだ。
その選択をする責任をとるのはあまりに悩ましいので、人は時に自分のことは棚に上げ、思考停止に居直り、「悪いヤツ」を指さして笑いながら、自分自身の不自由ぶりを見ないフリしたがる。
結婚すれば、配偶者以外との深い交際が難しくなるなら、結婚しないという選択の責任をとるのが筋だ。
その難しさより結婚が魅力的だと覚悟したなら、不倫の代償は責任をもって引き受ければいい。
その代償を安々と払ってしまう人を配偶者にしたなら、「知らなかった」じゃ済まされないだろう。
自分がバカだったと思うしかない。
本当は、結婚してようが、独身だろうが、いろんな人と恋愛したり、セックスしたいと望んでしまうのが人間なんじゃないだろうか?
そこに「1対1」の関係に閉じさせる独占欲がどこから来るのかについては、深く考えてみる価値はある。
少なくとも、多様な関係のありようが許される社会の方が、誰にとっても生きやすいはずだ。
それに思い及ばず、さまざまなシーンで進む「良い子」を演じなきゃいけない締め付けに身を預けるばかりなら、その同調圧力は自己責任から逃げてきた人たちの首を知らない間にきつく締め上げていくだろう。
僕は、マンガ『東京ラブストーリー』の赤名リカが好きだ。
彼女は、カンチという恋人がいても他の男たちと平気で寝るし、ときめいた男とはつきあう女だ。
しかし、妊娠したら「男は断ってなりふりかまわず子どもを育てた」(特別読切より)。
自由とは、そうした自分の行動の責任を基本的には全部一人で引き受けることだ。
責任を取る覚悟を引き受けるからこそ、自由奔放に生きられるのだ。
その覚悟がカンチにあったなら、リカを手放すこと無かっただろう。
こんなことを書いている僕は、未婚で子なしの50歳独身だ。
性病さえ持ち込まなければ、自分の恋人がどこの誰と寝ようと問題にしない。
むしろ問題にしたいのは、本当に自分に素直に自由に生きたい人間かどうか、だ。
自分の取れる責任の範囲を見積もれないまま暴走するのは、自由ではなく、ただの幼さだ。
自分の人生くらい、自分で責任のとれる範囲を増やすことで自由を拡張し、落とし前をつける。
そういう人に選ばれたいし、そういう人を選びたい。
たぶん結婚には向いてないのだろうが、それを不幸だと感じたことも後悔したこともない。
そういう人も、この社会を生きているってことだ。
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