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■長期化するひきこもり当事者の「その後の人生」

 25年間、僕はフリーライターとして取材の仕事をしてきた。
 前半は児童虐待・家出・自殺・ひきこもり・精神科医療・貧困化などの社会的課題を中心に取材し、後半はそれらの社会的課題の解決を試みるソーシャルデザインやソーシャルビジネスを中心に取材してきた。
 それに伴う相談事業も手がけてきた。

 そうした経験の中で、社会的課題を解決できる仕組みを作るには、その課題によって一番苦しんでいる当事者のニーズを最も優先して知る必要があることを思い知らされた。
 古い考えで解決の仕組みを考えても、結局は当事者の周囲の人間たちを安心させるばかりで、当事者自身にとっては満足度の低い結果しかもたらさないことに気づかされたのだ。

 ここでは、数ある社会的課題の中でも、日々深刻さを増しているものの一つである「長期のひきこもり」について思うところを書いてみよう。
 まず、ひきこもりをめぐる何が、解決を必要とする「課題」なのか?
 そして、その課題を設定しているのは誰なのか?
 それを考えると、従来のひきこもりの「自立支援」の限界が見えてくる。

 ひきこもり当事者の周囲には、ひきこもっていること自体を恥ずかしく思う家族がいる。
 とくに、長期化しているひきこもりには、必ずといっていいほど「ひきこもること」自体を問題視したがる家族と、家族のニーズに応えたがる「支援者」がいる。

 もちろん、ひきこもってる当事者自身が望んでいることに応えられる「支援」なら、当事者自身が思わずその「支援」に飛びつくかもしれない。
 しかし、現実には、当事者が家族や「支援者」に執拗に説得されるのが疎ましく感じられて、もう限界なので仕方なく従うケースが珍しくない。

 だから、古い解決の仕組みに頼ると、悲劇的な結末を迎えざるを得ない。
 たとえば、以下のようなケースだ。
①支援NPOの活動に参加したり、その関連の寮に入って共同生活へ
自傷他害の行為に及んで、警察経由で刑務所か病院へ
③世帯分離し、仕送りか生活保護を受給しながらの一人暮らしへ
④カルト教団のような組織へ出奔か、親の資産を使って外国で外こもり
⑤自殺



 ①は長期化してるといっても、ギリギリ間に合うケース。
 共同生活に慣れていけば、気持ちも落ち着き、人生をやり直せる人もいる。
 もちろん、家族が恥を忍んで家の外に早めに頼んでいれば、ひきこもりの長期化はそもそも起きないので、既に手遅れの場合は、支援団体でも受け入れを拒否されることもある。

 もっとも、長期化したひきこもり当事者にとっては、自分より若いひきこもり当事者の集団に後から参加するのはつらいものだし、多大な勇気を求められれば積極的に参加する気にはなれないだろう。

 そこで、さらに事態が深刻化し、②の段階に及ぶ。
 当事者が親を暴行したり、リストカットやオーバードーズがやめられないなどのケースだ。
 刑務所に入っても、刑期満了時には家に戻ってくるので、問題が先送りされただけ。
 病院に長期入院させても、今の精神科医療はなるだけ病室から出して地域社会になじませる方向に進みつつあるので、やはり問題を先送りするだけになりかねない。

 そこで、改めて考えてほしい。
 ひきこもりの「問題」とは何か?
 当事者自身の精神的な病状が長引いたり、悪化すること、だろうか?
 ひきこもっている期間がいつまでも延長されること、だろうか?

35歳以上の無職者は、ひきこもっていなくても雇われない

 当事者自身が病気を不安に感じているなら、通院・入院も受け入れざるをえないし、早く治したいと望むかもしれないし、医者と相談しながら進めていけばいいだけの話だ。
 また、死ぬまでひきこもっていられるだけの資産が家にあるなら、ひきこもることも当事者にとって選べる人生の選択肢の一つである。

 そう考えると、ひきこもりが当事者にとって「問題」になる条件は、主に以下の2つだろう。
①親が先に死んでしまった時に食えなくなって飢え死にしかねないという経済的事情を先取りした不安がある場合
②他の人と同じように家の外で働くことができない不安で押し潰れそうになっている場合

 ①と②の不安をこじらせ、自分の人生を再設計できないまま苦しんでる当事者は少なくない。
 その不安が寝ても覚めても続くなら、現実逃避したくなるのは当たり前だろう。
 なのに、当事者を取り巻く家族や「支援者」は、「就職できない不安」や「他のみんなと同じようになれない不安」をしつこく突きつけてくる。

 「ひきこもりが続けば、再就職できなくなる。年金も払えず、老後が貧困化する」
 そう心配するばかりで、当事者一人に「なんとかしてくれ」と強いるだけの家族も珍しくない。
 あなたが経営者なら、履歴書の空白期間が10年以上の求職者を、他の優秀な同年代より優先して雇うか?
 35歳以上の無職者は、ひきこもっていなくても雇われないのが現実なのだ。

 それでも、本気でわが子の将来を心配する親なら、わが子が雇用されることに向いてない属性や性格であるシビアな現実を受け入れて、わが子が思わずやってみたくなる仕事を作り出し、一緒に起業して金が回るビジネスに挑戦する程度の覚悟は必要だろう。
 それが、自分自身の子育ての失敗を認めた親の覚悟というものだからだ。

 しかし、わが子のひきこもりを長期化させた親は、その覚悟を持ちにくい。
 自分は一生懸命に育てたつもりでいるし、子どもが20歳をすぎれば「親業は終わった」と世間を味方にして自分の落ち度を免責できるし、35歳以上の就職がどれだけ困難なのかを知らない世代で、「就職さえできれば一生食える」と信じ続けているからだ。

 だから、なぜわが子がひきこもってしまったのかも、わからない。
 なぜ自分とまともに話をしてくれなくなったのかも、わからない。
 ひきこもりという行為は一人ではできず、家族自身が当事者のひきこもり暮らしを温存してきたという図式にすら、気づいていないかもしれない。

 わが子が引きこもっている数ヶ月程度なら、「明日から家族はそれぞれ自分の金で買ったトイレットロールを持って入ることにする」とルールを決めれば、ひきこもりの当事者も自分の所有物を売って金を作るか、コンビニなどで用を済ますなど、外出と知恵をひねるチャンスを得たはずだ。

 ところが、ひきこもりを長期化させる親は、ペットのようにしか子どものことを考えてないので、3食&昼寝付き快適生活を整えてしまう。
 そんな親は、アルコール依存症の患者に酒を飲ませておきながら、「もうその程度にしたら」と飲んでるそばから酒を奪う人と同じで、依存を深刻化させる「イネイブラー」と呼ばれる存在なのだ。

 イネイブラーは、自分自身の弱さや不安、虚無感、承認欲求、自己評価の低さを埋め合わせようと、「自分より弱い」と見込んだ相手を自分の意のままにコントロールしたがる。
 そうすれば、相手は自分を必要としてくれるので、「ほら、私がいないと生きていけないのよね、この子は」と自分自身の存在と言動に満足感と誇りを覚え、弱者をさらに弱くしていく。

 イネイブラーは、自分が支配できる相手の先回りをして世話を焼いては、失敗から学ばせるチャンスや責任感を奪い、判断の主体性を奪い、自尊心や自由まで根こそぎ奪い、徹底的に無力化させるのだ。

 3食&昼寝付きを与えられた側は、最初はその環境の中で静かな時間と自由を満喫するが、やがて「親がいなければ何もできない自分」や「未婚・無職・貧乏・コミュ障の中年である自分」になっている現実を認めるのが怖くなるし、認めざるを得なくなれば、「なぜ自分がこんなにも無力になってしまったのか」にいらだち始めるだろう。

 それでも、3食&昼寝付きの快適生活を与えてくれる親をにわかには責められない。
 その暮らしを奪われたら、生きていけないからだ。
 しかし、頭では「こんなダメな自分を養ってくれる親に恩義を感じなきゃ」とわかっている一方、心のどこかで「何かが違う。この暮らしは自分が望んだものでない」といういらだちも同時に覚える。

 頭と体が180度べつの方向を向いているのだから、当然、精神に負担をかける。
 それでも、親と争っても親はいつまでも変わろうとしないので、結局は「何もできない自分だけが悪い」と自分だけを責め、成果が出ないとわかっているのに求人情報をネットで探したり、それもつらくて遊びに興じ、また無為徒食の1日が過ぎる。
 出口なし、だ。


●親が自分の命の使い道を考え直せば、すべてが変わる

 そんな家庭環境で、当事者やその家族がネットで情報を探しても、「問題」は解決しない。
 ③④⑤の選択肢しか残っていないかのように思い込んでしまうからだ。

 無職歴の長い人にとっては、就職先など「ほぼゼロ」だ。
 それゆえに、せめて③の生活保護の受給者として家を出るのが、とりあえず「イネイブラー」が自殺や家族心中、家族殺人などを導く悲劇を回避する現実的な選択肢になる(※生保の受給者の自殺率は全国平均の自殺率より2倍以上も高い。だから「とりあえず」の選択肢ってこと)。

 家を出るのが自力で難しいほど精神病が重篤だという自覚があるなら、当事者自身が入院手続きを進めてしまえばいいが、それすらも本人ができない場合は、家族が専門業者に金を払って病院に強制搬送するしかない。

 しかし、前述したように、これはあくまで問題の先送りにしかならない。
 親が年老いた頃、再び子どもが帰ってこないとは限らないのだ。
 だから、長期化したひきこもりの当事者がいる家族は、いつわが子が戻ってきても無理なく働けるように、仕事そのものを作り出す必要がある。

 そこで、「起業なんて未経験だから~」なんてことは言い訳にならない。
 生まれた時から障がいをもって生まれた子どもでもできる仕事を作り出している人たちは、すでにたくさんいるし、彼らは「社会起業家」と呼ばれている。

 社会起業家に当事者と一緒に汗を流して協働する喜びを学び、そこから起業してわが子より重篤ではない他の家族のひきこもり当事者を雇い、その人が無理なくできる仕事を試行錯誤の果てに作り出したらいい。

 長期化し、問題をこじらせたひきこもり当事者にとって、彼らが心の底から満足できる仕事を作り出せる事業活動を、既存の支援NPOは十分に作っているとはいえない。
 「支援」である限り、刑務所の刑務作業と同じように、みんなに同じ作業を一律にさせることでしか管理できないからだ。
 「支援」ではなく、少人数の当事者と一緒に汗をかく「協働」のモデルなら、その仕事によって1人ずつ自立していける。

 当事者各自の持っているモチベーションと適性を存分に深掘りすれば、その人固有の価値は見えてくる。
 その価値さえ発掘できれば、その価値を活かした仕事を一緒に作り出せばいいし、そのためには地域の市民やNPO、企業などの協力を取り付ける役割を負うことで「協働」すればいい。
 そのためにも、『よのなかを変える技術』(河出書房新社)が役立つ。
 今日では、中学生や学校教師も読んでいる本なので、何から手を付けていいかわからない人にはピッタリのはずだ。
3歳から15歳までネトゲ廃人としてひきこもったからこそ「起業家」になった小幡和輝くん
 ある当事者は、精神障害者手帳を持ちながら、妄想を活かした絵を描くアーチストとして作品を国内外に売って生きていけるかもしれない。
 べつの当事者は、ひきこもりの長い期間で得た独特の暮らしぶりや感覚をつぶさに記述する作家になるかもしれない。
 それをすることで誰かに喜ばれ、喜ばれた分だけお金として自分の価値を評価してもらえるのが、仕事というものなのだ。

 あるいは、地域で増えている空き物件のオーナーに声をかけ、シェアハウスとして開業し、家賃収入を得られるようにすれば、仕事に慣れていけば、どんどん管理物件数を増やしていける。
 それこそ、国内外のひきこもり当事者が寄り集まって、気軽に話せて、いつでも自室にこもれる自由な空間を作れば、時間をかけてコミュニケーションを育てながら、「元ヒッキー」にやさしい仕事や会社を新たに作り出す拠点にできるかもしれない。

 長くひきこもっても、仕事を作り出して生き直せた経験には、そこまで長くないひきこもり当事者に安心と希望を与えるという価値がある。
 当事者しかもっていない固有の価値は、支援NPOよりも説得力と信頼感がはるかに大きい。
 当事者にとって満足度の高い仕事を作り出すことは、わが子だけでなく、ほかの多くの子を生き直させる新たな仕組みにもなるのだ。

 そのように、自分や家族のためだけでなく、社会に役立つことをするのが本来の「仕事」である。
 だから、地元のNPOも、企業も、市民も、社会性の高い事業には協力してくれる。
 親自身のかつての職場の同僚や友人、学生時代の仲間も、社会性の高い事業をするなら、力を貸してくれるだろう。
 当事者も、当事者の家族も、他のひきこもり当事者も含めて救う「みんなのためになる事業」を始めれば、孤独ではなくなるのだ。

 わが身可愛さで自分の生活だけを安定させればいいと必死になる時代は、とっくの昔に過ぎている。

 それに気づいた親なら、とにかく「できない理由」ばかりあげつらって自分自身の自己評価の低さを見ないふりしてきた愚かさも認めよう。
 起業なんて、いまどき10代や障がい者もやっている。
 初期費用のかからないビジネスモデルも多様にある。

 起業はそもそも弱者の選択肢なのだ。
 実際、自分たちが無理なくできることを仕事にし、当事者がマイペースで少しずつ稼げるようにするには、よその会社や既存のNPOにお願いするより、自分たちで会社を作ってしまった方が自由にやりやすい。
 「起業は難しい」なんて偏見は、起業したことがない人の不安に基づいた妄想にすぎない。

 どんな会社も、最初は小規模の起業家の挑戦で生まれたものだ。
 「無職歴の長い人に起業なんかできるわけないだろ?」というイネイブラーの声に負ければ、出口なしの日常に戻るだけ。
 社会起業は一人でやるもんじゃない。
 地域の多様な人材と一緒に汗を流せば、自分だけで考えてるより、ずっと面白い事業展開ができる。
 人生の意味は、むしろこれから作り出すのだと悟ってほしい。

 年金生活の余生を、自分自身の安心だけ求めて生きていくのか?
 それとも、自分の人生の間違いを教えてくれたわが子のために命を使い果たす覚悟をするか?
 後者を選ぶなら、精神病院から戻ってくるわが子が出刃包丁を買うような悲劇は避けられる。

 わが子を長くひきこもらせた親が、他人のひきこもりの子と一緒に仕事を作り出し、同世代と同じ所得を実現させる頃、わが子はすっかり老けた見た目で帰ってくる。
 その時、雇われていた元ヒッキーの若者は笑顔で言うだろう。
「あなたの両親は、すっかり心を入れ替えてくれましたよ。
 僕やあなたのために、やっと重い腰を上げ、命がけで仕事を作り出してくれたんです」と。

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