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■高学歴インテリ文化に毒されず、生きやすさを作る

 格差が広がる社会は、異なる2つの文化に引き裂かれているような印象を受ける。
 親の所得と子どもの学歴が正比例してしまっている現在の日本では、その二つの文化を「高学歴インテリ文化」と「低学歴ヤンキー(ギャル)文化」と説明しても、あながち間違いではないかもしれない。
 たとえ同じ街で同じ高校生になっても、文化が異なった両者は、交わることより、同質の仲間と群れたがる。

 しかし、社会の仕組みを作ることを担っていく「高学歴インテリ文化」が「低学歴ヤンキー(ギャル)文化」に対して、自分たちの価値基準で見下したり、「混ぜるな、危険」とばかりにコミュニケーションの機会すら作らなければ、結果的に誰にとっても生きづらい社会になっていくだけだ。
 そのエビデンス(証拠)となるような事例が、さまざまなシーンで既に現れている。

 それゆえに民間からソーシャルデザインやソーシャルビジネスがどんどん必要な時代になってきたことは、拙著『よのなかを変える技術』(河出書房新社)で中学生にもわかりやすく解説しておいた。
 今回の記事では、「高学歴インテリ文化」による害悪を乗り越え、彼らの作った「社会の仕組み」の発想から自由になる方が生きやすくなる事例を、以下に3つほど紹介する。
 いずれも「高学歴インテリ文化」の価値基準では生きづらい人にとって、希望を感じる現実かもしれない。

 まず、アウトサイダー・アート(アール・ブリュッセル)。
 アウトサイダー・アートは、子どもや高齢者、障がい者や犯罪者、幻視者やヤンキーなど、「正規の美術教育を受けていない人」によって作り出された作品と、説明されることが多い。

 日本におけるアウトサイダー・アートは、知的障害者の福祉施設で働き、障がい者のアートを紹介してきた櫛野展正(くしの・のぶまさ)さんが、「鞆の津ミュージアム」(広島県福山市)でアウトサイダー・アートを展示するキュレーターを務め、全国各地のアーティストの作品を紹介してきたことで、にわかに注目を集めている。

 よのなかには、廃材をひたすら車につける人や、2万匹の昆虫で千手観音像を作る人など、さまざまなアウトサイダー・アーティストがいる。
 電球を使用した電飾やカーステレオ、カーナビ、ワンセグ、バックモニター、無線機などを全て搭載した豪華なデコチャリを作っている丸尾龍一さんの作品。
 大好きだった祖父の死をきっかけに、学校で手に入れた木材を組み合わせて祖父の「お墓」をつくり始めた藤井柊輔さんの作品。
 ある朝突然に刑務官から執行の告知がなされる死刑囚の描いた絵画…。

 櫛野さんは、そうした作品の展示を通し、障がいの有る無しではなく、あくまで美術品としての評価を観客自身に問いかけてきた。
 彼は今春から、日本初のアウトサイダー・アート専門ギャラリー「クシノテラス」を運営し始めるが、障がいのある人だけではなく、常識の範囲内では自分たちのやりたいことがなく、社会から断絶しているためにやむにやまれず表現活動を続ける死刑囚やヤンキーや特定の信仰を信じる人などを調査し、彼らの作品を展示していく予定という。

「彼らの作品は世の中から無視されたり、価値がないものとみなされています。
でも、クシノテラスでは、自分が見たことのない唯一無二の表現であり、且つ、長年創作を続けているという2つの魅力を兼ね備えた作品を展示したい。
社会の周縁に置かれているアーティストに会って、ものづくりの動機を聞きたい」(櫛野さん)

 そもそも、美術にとって「正規の教育」とは何なのか?
 二科展や画壇、有名な美術館、美大などで「デビュー」することが、正規なのか?
 それを考えると、従来のアートが美術業界で既得権益な立場にいる「高学歴インテリ文化」の人間がオーソライズ(権威づけ)することによってしか受け入れられないという差別的かつ偏狭なものであったことを思わざるをえない。
そうした「高学歴インテリ文化」の限界をあばき出すだけでも、アウトサイダー・アートには十分な社会的価値がある。



●支配関係から、同じ目的を分かち合う対等な協働の関係へ

 美術教育に毒されないアウトサイダー・アートは、極めて人間らしい多様性を示しているが、「高学歴インテリ文化」は長らくアートとしての評価対象にしてこなかった。
 ヤンキーの作品を取り上げる発想自体が、彼ら既得権益層にとって自らの価値基準の見直しを迫られる。
 つまり、自分の立ち位置がゆらぐことが、連中には怖かったからだろう。
 彼らは自らの正当性を権威づけることで、メシを食ってきたんだから。

 でも、特定の人間に権威づけられた正しさとは、正しさを決められる既得権を持つ者の居直りにすぎない。
 その居直りゆえに、アウトサイダー・アーティストたちの多くは、貧困者か、一般市民の所得以下だ。
 だから、櫛野さんは、自ら展示したアーティストの作品を販売したり、出展ギャラを渡すなど、少しでもアーティストへ収益を還元しながら、彼自身の生活も成り立たせる自前のギャラリーを自腹100%で立ち上げることを決意したのだ。
 アウトサイダー・アーティストと櫛野さんとの関係は、一蓮托生と言える。
 そして、「社会の周縁」を生きる人と対等な関係を求めるあり方こそ、「高学歴インテリ文化」の信奉者の視点には無かったものだ。

 この視点を変えるという作法は、異なる文化を理解するために必要なものだ。
 たとえば、東洋経済の記事では、『発達障害の素顔 脳の発達と視覚形成からのアプローチ』(講談社)の著者・山口真美さんが発達障害とは「欠如」ではなく「ずれ」である』と指摘している。


視力がよく生まれた新生児は、顔の細かな部分まで見分けることができるが故に顔の全体を把握することが困難となり、自閉症の特性を示すことになるという。
多くの人と異なる個性的な行動を取る人、誰もが理解できる心の機微を理解できない人を見ると、ついそんな人には何かが欠けているのではないかと考えがちだ。
しかし、それらの人々は単に違う角度から世界を見つめているだけかもしれない。
東洋経済の記事より)

 視点を変えることは、視座を変えることだ。
 同じ現実を見る時に、自分の立ち位置を変えれば、それまで見えなかったものが見えてくる。
 これは、介護にも言える。
 雇われて働く立場と、雇う側に回って働く立場では、介護のやり方を変える視点を持てるのだ。
 それは、雇われている労働者の立場ではなく、お金を払う側の顧客の立場で介護を見直すことでもある。

 神奈川県藤沢市の高齢者向け介護福祉施設「あおいけあ」を利用するお年寄りの多くは元気になり、要介護度が下がるのだそうだ。
 横浜の特別養護老人ホームへ就職し、高齢者を支配・管理する介護現場の実情にショックを受けた加藤忠相(かとうただすけ)さんが、25歳の時に1億円の借金をして起業した事業所だ。
 よその事業所と、どこが違うのか?
 認知症ONLINEの記事によると、加藤さんが雇われて働いていた事業所は、こうだったらしい。

★業務効率が最優先
★オムツを手早く交換できる人は褒められても、お年寄りとお茶を飲んで話すことは許されない雰囲気
★お年寄りたちは1日中施設の中で過ごし、家族が面会に来ない限りはまず外に出られない
★みんな表情が暗くて、毎日息苦しそう
★介護じゃなくて支配
★施設に閉じ込めることでお世話される人を増やしているだけ

 では、経営者として働いている「あおいけあ」は、どうなのか?

☆敷地の塀を取っ払い、敷地内にある一本道は地域の人が誰でも通れる
☆放課後の小学生たちがふらっと遊びに来た
☆手をつないで通る高校生カップルに利用者のお年寄りたちが「昔はあんなことしなかった」とこぼしたり
つくられたものではない自然な「世代を超えた交流」
☆利用者は、近所の掃除や神社の清掃や公園の花植えなど、外へ積極的に出ていく
☆ここに来る前は家族へ暴力をふるったり、道端で排泄してしまったり、周辺症状が強く出ているために他の介護施設では受け入れてもらえず、周りから“困った人”として扱われていた人が、ここで毎日を過ごすうちに段々と落ち着いて、今度は地域貢献をしている
☆ケアマニュアルはなく、トップゴールは「より良い人間関係の構築」
☆スタッフ全員やり方が違っていてよい


 記事にあった加藤さんの語録が非常に面白いので、紹介しておこう。

◎地域の中で役割を果たすことで自分が生きる価値を実感できるのは、高齢者だけではない
 近所の人から「ありがとう、ごくろうさま」と言われたら嬉しいですよね。
 これが本当の自立です
僕たちがお年寄りを「守ってあげらなければいけない」存在という前提で捉えていたら、いいケアはできない
◎当初は「認知症の人を連れ出すなんて危ない」という声もありました。
 でも、認知症のあるなしに関係なく、多くの人は「良いことをしたい」「人の役に立ちたい」と考えています

 東北福祉大学 社会福祉学部卒加藤さんは、「高学歴インテリ文化」に毒されることなく、「働きたいと思える場所がないのなら自分で作ってしまおうという発想で」自分の事業所を立ち上げてしまったのだ。
 これは、「低学歴ヤンキー文化」ならではの感性だ。
 「低学歴ヤンキー文化」は、知識に依存せず、むしろ自分流を貫こうとする。
 人それぞれに異なる価値があるのをあたりまえと考えるから、知識量の多さを争わない。
 だから、加藤さんの介護事業のやり方は、従来の横並びのやり方ではなかった。

 従来は、高齢者を要介護者(被支援者)として一方的に支援することを疑わなかった。
 しかし、これでは現場の職員の仕事は忙しくなるばかり。
 職員より数倍多い利用者(高齢者)の面倒を見るという視点で思考停止してしまえば、刑務所がそうであるように一方的に支配する関係にならざるを得ない。
 他方、職員と利用者が一緒に同じ目的を分ち合って動けるようにすれば、各人の仕事における負担は軽減できる。
 これは、単純な算数によるマネジメント術だ。
 この単純な算数に気づけるのは、「高学歴インテリ文化」に毒されてない人だけだ。

 しかし、「高学歴インテリ文化」を疑わない官僚は、古い権威を専門家としてブレーンに迎えて福祉制度を設計する。
 加藤さんのような現場で働く当事者の声を真っ先に聞こうとしない。
 だから、自分たちの作った制度にはないあり方で優れた成果を出している加藤さんの仕事ぶりに驚き、今さら学びに来てるんだそうだ。
 このように、「高学歴インテリ文化」は現場の泥臭い努力の価値を知らないバカなのだ。
 真性のバカには「おまえは本当はバカなんだよ」とわかりやすく言わないと、気づかないらしい。

 バカが社会設計を担うシーンは、政策だけでなく、民間におけるソーシャルデザインや大学の授業などにもいろいろ散見されるが、迷惑この上ない。
 「ホームレス支援」「女性の活躍推進」「障がい者支援」などを考えれば、「高学歴インテリ文化」の考える社会設計が、その恩恵を受けるはずの当事者にとってどれほど満足度の低いものか、いくらでも思い当たるはずだ。

 加藤さんのように、利用者(高齢者)を「何もできない人」などとは考えず、むしろ「高齢者でもできること」という当事者固有の価値を発見しようと試みることは、優れたソーシャルデザインを発想するのに必要不可欠な構えだ。
 精神障害者だからアートができない? だったら、「アート」の枠組みを取っ払えよ。
 ニートだから「支援」しなきゃいけない? ニートの価値を発見して彼らと一緒に仕事を作れよ。

 当事者の視座に立とうとすれば、当事者の望むことをふまえた新しいムーブメントなんて、いくらでも作れる。
 そうした事例は、既にソーシャルデザイン/ソーシャルビジネス(社会起業)のシーンでは、日々続々と増えている。
 AI(人工知能)がどれだけ発達しようと、マニュアルや知識に頼らず、当事者固有の価値を発掘しようとすればこそ、人それぞれに見合った仕事や役割を生み出せるのだ。
(逆に言えば、同じ知識を持ってる人は最小限で十分。ネットや本でいくらでもインプットできるし)

 そうした「低学歴ヤンキー文化」では自明のことが、「高学歴インテリ文化」が作った社会の仕組みでは幸せになれない人たちに、生きやすさを作り出す。
 いつか多くの人たちがそれに気づく頃、「当事者固有の価値」がキーワードになるだろう。
 逆に、「高学歴インテリ文化」に毒されたままで、「低学歴ヤンキー文化」の豊かさにも気づかなければ、いつまでも従来の満足度の低い仕組みに耐え続けるのだろう。

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