他方で、学校教育に毒されたまま社会に出た自分の考えを疑うことなく、弱者を平気でdisるのが趣味になってる高学歴層の浅ましさには、黙って見過ごしていられないものがある。
それを説明する前に、昔話をしておこう。
約40年前になる1977年、僕は田舎の公立の小学6年生だった。
当時、今から思えば「バリバリの左翼」の若い担任教師がいた。
彼は教育熱心なあまり、児童に平手打ちをすることがあった。
しかし、その意味を僕らクラスのほとんどの子どもが理解していた。
ある時、クラスでひどいいじめがあった。
放課後、担任教師はクラスメイトを全員残らせ、1人1人にその時の事情を言わせた。
いじめられたのは1人で、いじめていたのは複数の児童。
止めに入ろうとして、揉み合いになっていた一人が僕だった。
その他の児童は、いじめの騒ぎが同じ教室で起こっているのを見ないふりしていた。
やがてラ・サール中学に進学することになる優等生は、騒ぎをよそにひたすら机に向かっていた。
ひと通り事情を尋ねた教師は、クラスの全員を立たせ、1人ずつ平手打ちしていった。
先生は、平手打ちをしていく中で震えながら号泣していた。
泣きながら、一人ずつ頬を打った。
小さな子の頬を打つことが、彼にとって決してやりたいことではないことを、子どもでも理解できた。
人数分の平手打ちを終えた教師は、涙を手の甲で拭きながら言った。
「たった40数人のクラスで、みんながそこにいじめがあると知ってる。
なぜ、止められないんだ?
なぜ、無視するんだ?
この教室は、おまえらが生きてるよのなかそのものなんだよ。
いつか本物のよのなかに出た時、自分がいじめられても、無視されたいか?
それとも、いじめる側に加わって安全でいたいか?
どんな人間になりたいんだ?
どんなよのなかにしたいんだ?
自分の頭で考えろ。
よのなかには、きみたちを殴るような、俺のようなバカはいないんだ」
その日からしばらく、教師から笑顔が消えた。
いつもは本当にやさしい教師だったから、自分の頭で考えようとしない子にしてしまったことを彼自身が悩んでいることは明白だった。
「大人は悩まない」と思っていた僕には、ショックだった。
大人も悩むのだ。
とまどうのだ。
自分の仕事ぶりを疑うからこそ、自分の知らない社会の広さに気づくのだ。
自分の幸せが「ただ既存の仕組みに乗っかっただけにすぎない」と気づけばこそ、同じ仕組みでは幸せになれない人たちの苦しみにも気付けるのだ。
●そんなに金があるなら、がんばりたい人に教育を
こんなことを書いているのは、あまりにも対照的な文脈をネット上で見たからだ。
一つは、「貧乏人は自分に起きたことを全部人のせいにする」というはあちゅうさんのブログ記事。
もう一つは、「新生児殺害容疑、母親の高校生と男子高校生を逮捕」というニュース記事だ。
後者の記事では、産んだばかりの男児を殺害したとして、10代の女子高校生と交際相手の10代の男子高校生が殺人容疑で逮捕され、2人が「悩んでどうすることもできなかった」と話していることを報じていた。
前者のブログでは、「このつぶやきに超絶同意した」とはあちゅうさんが書いていた。
まさに「勝ち組」の発想だね。
自分にできたことは、他の人もできると、何のためらいもなく思えるんだから。
でもさ、自分だけの幸せや富を追うなら、そんなカンタンな生き方はないし、いくらでも金儲けできることぐらい、小学生の子どもでも知ってることなんだよ。
現実のよのなかには、「他人や政府や制度のせい」によって苦しめられ、不当な生きづらさを強いられている人たちがたくさんいる。
だからこそ、「他人や政府や制度」の間違いを自分の頭で考え、自分らしくがんばれる方法で幸せになれる仕組みを、この社会の中に新たに作り出す必要があるんだ。
それを真っ先にできるのは、高学歴層や金に余裕のある人だろう。
学歴が高ければ、その高さに応じて社会全体の不幸を解消する責任は大きくなる。
資産が大きければ、その大きさに応じて社会的責任も大きくなる。
そのことにピンとこないまま、自分だけの幸せを追う連中が増えれば、生きづらい社会になるのは当然の帰結じゃないか。
教育投資を十分に受けられるだけの資産や所得のある恵まれた家庭で何不自由なく育ち、「高学歴になれば高所得になれる」という既存の仕組みに乗っかっただけで、そうした仕組みの恩恵を受けられない「低学歴ゆえに低所得になる」人たちに必要な学びを提供しないのなら、それは「勝ち組」のおごりなんだ。
自分自身のおごりに気づかず、ビジネスや起業を学べないままでいる人たちが、社会に絶望し、自分自身の能力の低さを自責してパチンコ屋で現実逃避してしまう現実を、自分とは関係のない「そいつの自己責任」にしてしまう発想こそ、「勝ち組」の無責任そのものなんだよ。
その無責任ぶりを自分に問いつめないからこそ、いじめが目の前にあっても見て見ぬふりできるし、可愛い女の子に平気で豪華な食事をおごってあげられるし、成金のバカ男に食事をおごってもらうのを「スーパーかっこいい」なんて思えるんだよ。
バブルの頃に、そういう成金、いっぱいいたさ。
金を余らせて、使い道を知らないまま、連中はどこかへ消えていった。
彼らの仕事が価値あるものだったなら、みんなから助けられていたはずなのに。
自分と似た成金趣味の仲間しかいなかったんだろう。
日本ではまだ2人に1人しか大学に進学していない。
社会全体では、中卒・高卒が過半数だ。
たとえ、全員が大卒者になれても、偏差値の序列によって所得が変わるだけの話だ。
親の資産・所得や本人の学歴とは関係なく「稼ぐ力」を身につけられる教育の機会を社会インフラとして民間で作るなら、がんばれるためのチャンスは均等に保証されるだろう。
だが、それを作ることがないまま、「悪いのはだれだれのせいとか、人のせいばかりにしているヤツの回りには悪いオーラがむんむんとしていて、闇の世界に引きずり込まれる」と公言するなんて、いじめを見て見ぬふりしてやりすごす「いじめ温存派」の浅ましい作法にすぎない。
闇の世界に引き込まれるのは、そういう人たちとのつきあい方を知らない大バカだからだ。
そう思えないとしたら、傲慢さもマックスだよ。
でも、社会には、そういう輩をぶん殴る「バカ」はいない。
おかげで、「悩んでどうすることもできなかった」と子どもを殺すしかなかった10代のカップルが後を絶たない。
10代で子どもを作って、中絶したり、出産後に殺す事件なんて、何十年も前から延々と続いている「貧乏の定番」だ。
彼らに「がんばれば~」と言うだけで、幸せになれるか?
なれるんだったら、今すぐ逮捕された10代カップルの元へ駆けつけてみろよ。
本物のバカは、自分が幸せになれた背景を検証しないまま社会設計をしたがる高学歴層にいる。
自分のバカぶりに無自覚な彼らは、「がんばらない奴が貧困を他人のせいにする」とくりかえす。
がんばって高所得になれる仕組みを学べずに社会に追い出された者の苦悩をふまえずに。
自分とは境遇の異なる人間が、自分と同じ社会の仕組みで幸せになれると考えるのは、傲慢だ。
まともに稼いでる人に豪華な食事をおごる余裕があるなら、成金におごられて手放しで喜んでるヒマがあるなら、自分がどれだけぬくぬくできる小さなコミュニティしか知らないまま生きてきたかを自問してみることだ。
もっとも、すでに自分の頭では考えられないからこそ、成金趣味に浸ってるんだろう。
バカが大手を振って成金自慢できる日本は、本当に平和だ。
しかし、そんな腐った平和の中でも、生きづらくなる仕組みは変えられる。
成金趣味が遊んでいる間に、世界では同時多発的に社会企業家たちが既存の社会の仕組みを疑い、時代状況を一新するために立ち上がっているからね。
(※ちなみに、この話題の続編の記事はコレ)
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