選挙権年齢が18歳以上に引き下げられることをふまえ、昨年(2015年)、自民党は民法上の成人年齢を「18歳以上」に改め、飲酒、喫煙の解禁年齢も18歳に引き下げるよう政府に求める方針を固めた。
民法上の政治年齢が18歳に引き下げられるのなら、18歳になった瞬間に親権から解放される希望が出てくる。
親権とは、子どもの利益のために子どもを監督・保護・教育し、子どもの財産を管理する父母の権利義務のことだが、この親権のために虐待され続ける子どもがいるのも現実だ。
子ども自身が稼いだ金も、親権の下では親に取り上げられてしまう(=経済的虐待)。
深刻な性的虐待や宗教入信を強いる親から避難するために家出しても、警察を通じて「保護」者に連れ戻されてしまう(=文化的虐待)。
親自身の横暴を取り締まることが現実的にできない以上、親権は子どもを支配し、服従させる恐ろしい権力でしかないのだ。
そんな恐ろしい力が法制度という形で公式に認められ、世間も親権の良い面しか見てないフシがある。
そして、「親はいつも正しく、子どもは親に従う存在」という構えは、親権の暴走を容易にさせる。
だから親権の行使は、虐待されている自覚のない子どもにとっても危惧すべきことになる。
虐待をしている自覚のない親は多く、子ども側にも自分が不当な虐待を受けていることに鈍感になっている人が少なくない。
こうした文脈の延長線上に、「親を裏切ってはいけない」というおかしな強迫観念が生まれる。
だが、親を裏切ることなく大人になることなんて、できるだろうか?
たとえば、恋愛。
好きな人ができた。
「誰と会うの?」と親に尋ねられて、すぐに名前を言えなかった過去を持つ人は多い。
「何してきたの?」と問われて、本当のことが言えない時代を経たからこそ、好きな人との関係が発展し、結婚にこぎつけたカップルも多い。
大人になるとは、自分の言動の責任を自分でもつことだ。
だから、どれだけ親を心配させようと、何度裏切ろうと、自分の意志を貫くことからしか「自分になる」ことはできない。
親目線で言えば、わが子に自分の言動に対する責任をもたせ、泣こうが、苦しもうが、傷つこうが、その結果責任を負わせることが、子育ての終わりといえる。
親は、たいてい子どもより先に死んでいく。
だから、自分がいなくても子どもが生きていけるように育てることが、子育ての本筋だ。
なのに、「子どもが傷つかないように」と先回りし、子ども自身の幸せの基準を勝手に決め、自分の考えの範囲に子どもの言動を収めたがる親もいる。
そんな親の期待をいつまでも背負っていこうとすれば、生きづらくなるに決まってる。
そもそも、「子どもが傷つかないように」という心配は、子どもが小学生くらいまでしか正当化されない。
中学生にもなれば、何が痛いか、何がつらいかは、自分で判断できるし、判断がつかないことは親以外の友人に相談たり、本を読んでみたりして調べるのも勉強だし、どうしてもわからないことは「自分が体験しないとわからない」と学ぶのも人生だ。
10代は、親の庇護を必要としない自分に自分を育てられることを覚悟する期間なのだから、いつ親を裏切るかを自問する必要が出てくる。
18歳で選挙権をもち、タバコも酒もOKになる(=自己責任が許される)なら、親権による拘束も18歳で解かれる必要がある。
それは、17歳までに親を裏切る覚悟を迫られるということだ。
ところが、現実には「友達親子」のまま、反抗期を奪われたまま大人になる人が増えてるようだ。
これは、親子双方にとって、時限爆弾の爆発を先送りするようなものだ。
なぜか?
●人生は、親からの期待を捨ててから始まる
人は、子どもを産んだから親になるわけではないし、子育てをしたから親になるのでもない。
子どもが親である自分の言い分を飲んでくれないトラブルが生じてこそ、「親とは何か?」を初めて考える機会を得るのだ。
親子関係を考える上で伏線の一つとなるのが、「ひきこもり」だ。
わが子がひきこもり生活に入っても、親は献身的にわが子の食事を用意する。
わが子がひきこもっていることを世間から隠す親もいれば、誰が見てもひきこもりなのに、認めない親もいる。
そういうイネイブラーの親ゆえにひきこもりライフは長期化するのだが、いくら長期化しても、子どもが親に反抗しない限り、親は何も学ばないまま、自分の脳内だけで心配し、うろたえるだけだ。
そして、ある時、ひきこもっていたわが子が精神科に通い始めたり、暴力を自分に振るうようになったり、自殺未遂を起こして救急車を呼ぶようなことが起きてから、初めて親は耐え切れなくなり、ようやく家の外の誰かに助けを乞う。
支援NPOに連絡したり、警察や福祉職に相談したりする。
そこで初めて自分の子育てが間違っていたことを認めざるを得なくなるわけ。
つまり、子どもが親の期待を裏切りたくない「良い子」のままである場合、子どもが自発的に親を捨てて家を出ることもなければ、「親の期待通りに会社に勤める働き方をするしかない」という思い込みをいつまでも抱き続けることになるのだ。
重要なので何度も書くが、子育てとは、親がいなくても生きられるように仕向けていくことだ。
それができない親の下で、親がいなくては何もできない人になってしまう恐れを、子どもが「ヤバイ」と気づかなければ、20歳を越えようと、30歳を越えようと、いつまでも親を裏切れない人として「良い子」の仮面をとれないまま生きていくことになる。
せっかく結婚できそうな相手を見つけて関係を深めていっても、無断外泊やセックスさえできないまま、関係が終わることもある。
自分がどうしてもワクワクできない公務員の仕事しか親に認められず、転職できないまま労働意欲も持てずに40歳を超える人もいる。
そうしたしなびた人生を歩かせてしまうのは、子育てが何かをわからないまま子どもと「友達」関係になりたがる親と、そんな親によって犬のように飼いならされている自分という構図に恐れを抱くことすらできなくなっている子どもによる「共犯」だ。
物事には、必ず良い面と悪い面がある。
「東大に行けば人生の選択肢が広がるのよ。だから入るまではお勉強以外は最優先課題じゃないの」と親に言い含められ、自分の大事なことさえ先送りするクセがついてしまった人は珍しくない。
今この時にやりたいことを満足にやりきった経験のない人間が、大学に入ってから「真っ白に燃え尽きるまでやりきる」ということの価値に気づくだろうか?
自分の大事なものを探すことを先送りするばかりで、世間並みの体裁を整えるように就職しても、数字は嘘つかない。
新卒者の3割が20代で就活で入った会社をやめてしまってるのだから、「みんなと同じ」の衣はいつか脱がないと、苦しくて仕方がないのだ。
人は誰でも、いつかは死ぬ。
それは明日かもしれないし、60年後かもしれない。
死なないまでも、病気や事故で思うように体や心を動かせないことだって起きる。
地震大国の日本に暮らす以上、突然の震災や水害で勤務先が無くなることだってある。
グローバル経済の市場やアホな政治家によって、突然のリストラを食うことだってある。
それらを「運」と呼ぶのは、カンタンだ。
でもさ、人間は、そのように自分ではどうしようもない環境の中で生きてるからこそ、誰に反対されようと、自分自身が納得できる生き方・働き方を選ぶ自由を行使することによって、自分の人生を少しでも良いものにしようとするんじゃないかな?
今より少しでもマシな明日を作るには、自分の人生の責任を自分以外の誰もとってくれないことに早いうちに気づいた方がいい。
親に期待されたとおりに生きて、つまらん人生になっても、親だけが安心して喜ぶだけだ。
それは、親孝行でも何でもない。
ただの隷属だ。
内心では「親に悪いな」と思っていても、好きな人とは寝ればいいし、親の望まない職種になりたければ、プロとして食えるまで自分自身と戦えばいい。
親を一度は裏切っても、きっちりと落とし前をつけるのが、大人になるってことだろう。
それが怖いのなら、親よりも、自分自身の弱さを認める必要がある。
そのためにも、17歳くらいまでに自分自身に向きあい、自分のやりたいことを進めるのに障害となる弱さを克服することに自覚的になった方がいい。
17歳から「自分の人生に必要なものは何か?」と考え始めれば、それが必ずしも親や世間の言うこととは一致しないことにも気づくはずだ。
なぜなら、人の資質はそれぞれ違うからだ。
みんながみんな公務員やサラリーマンに向いてるわけじゃないし、みんながみんな起業家に向いてるわけでもない。
非営利事業の方がやる気の出る人もいれば、バックパッカーのように世界中を旅していく人生の方が納得できる人もいる。
自分の人生ぐらい、自分で選ぶ勇気をもとう。
親の本来の仕事は、わが子の笑顔を応援することなのだから、イキイキと自分のやりたいことに邁進している姿を見せていけば、たとえ失敗しても、その悔しさを分かち合ってくれるだろう。
まともな親なら。
逆に言えば、子どもの言い分にいつまでも耳を貸さず、世間体ばかりに気にする親は、早めに捨てて、なるだけ早めに家を出ることだ。
自分自身の人生と自尊心を守るために。
家の外の方が、自分を理解してくれる人にたくさん出会えるのだから。
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