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■社会の仕組みのダメさが作り出す生きづらさ

 今年に入って、『児童心理』(金子書房)の2016年3月号の特集記事「つらさを抱える子どもたち」の末席に原稿を書いた。
 すると、それを読んだ『こころの科学』(日本評論社)の編集者の方が、同誌の増刊に書いてほしいと依頼メールをくれた。
 どちらも生きづらい若者に向けてのメッセージなので、書くべきことも執筆の要領もわかってる。
 もちろん、快諾した。

 だが、ふだんはサクサクと書けてしまう僕も、今回ばかりは頭を悩ませている。
 こんなに悩むのは、初めてかもしれない。
 そこで、思考の整理をするために書いてみよう。

 生きづらさを抱える若者たちについては、確かに90年代からずっと自殺や家出、売春、少年犯罪などまで書いてきた。
 現実は、虚構のドラマやマンガ、ゲームのようにお話がキレイにまとまってはいない。
 生きづらさは、個人の内面や属性の問題ではなく、社会の仕組みが特定の当事者にとって満足度の低いもの(あるいは有害なもの)ゆえに作られる。
 だから、たとえば自殺志願者に「死ぬな」と言って、「はい、もう自殺未遂しません」なんてことがオチになる単純な物語は、ノンフィクションでは描けない。
 そんな都合の良い展開は、現実にはない。

 それどころか、問題をこじらせている現実の人間は、世間が思うほど救済や解決を望んでいるかどうかすら怪しい。
 「救われるより、このままでいたい」という構えは、決して珍しいものではないのだ。
 自殺志願者に、「とにかく生きて」という言葉は無力だろう。
 ひきこもり当事者に、「家を出ろ」というチカラ任せの強制退出は、ただの恐怖かもしれない。
 家出少年に、「親元へ戻れ」とだけ主張するのは、ケンカを売っていると誤解されかねない。
 売春少女に、「他にも仕事があるだろ」と紹介しても、その仕事に本当に満足するだろうか?

 そうした現実に向かい合う中で、以下の3点に気づかされた。
① メディアでは、既存の救済インフラで満足する文化の価値基準が尊ばれがち
② 当事者から判断の主体性を奪えば、文化の多様性は担保されない
③ 二者択一ではなく、さらに多様な選択肢を作り出す必要性

 テレビや新聞など多くのマスメディアでは、社会的課題を個人の属性の問題にする文脈が平然とまかり通っている。
 社会の仕組みから逸脱する存在をやんわりと包摂できる仕組みがないまま、誰かを孤立させてしまう構図は、まるで社会悪と報道のマッチポンプだ。

 たとえば、少年犯罪にしても、事件が起これば、どんな人物で、どんな学歴で、どんな生い立ちかを真っ先に報道しようとする。
 殺人事件などはその典型で、殺人者がどれだけ特異な人物だったのかについて詳細を掘り下げるが、その人間がどんな社会環境に動機づけられて殺人に至ったかについての関心や情報は、個人の属性に比べれば少ないし、後手に回る。
 「悪人がたまたまそこに暮らしていただけだ」という見方で思考停止してしまいがちなのだ。

 それゆえ、その人を犯罪へと駆り立てた社会環境や社会の仕組みは結果的に問題視されず、犯罪へと動機づけられない仕組みへ変えたり、新たな仕組みを作り出すことが喚起されない。
 しかし、社会の仕組みが変わらなければ、同じ犯罪がまたどこかで起こり続けるだけの話だ。
 そもそも、社会の仕組みのダメさによって生きづらさが募り、犯罪や自殺などを動機づけられる当事者たちにとって、精神科医療・社会福祉・教育などの既存の救済インフラが満足なものだったのかどうかを疑わないのは、なぜなのか?

 「自殺はいけません」「家出はいけません」「犯罪はいけません」と言うのは、カンタンだ。
 そして、自殺や家出、犯罪をしないで済むことを「幸せ」と一方的に言うのも、カンタンだ。
 しかし、それらの行為に追いつめられない暮らしができているのは、社会の仕組みや救済インフラに満足できる人たちの中だけの論理にすぎない。
 それでも、優秀な大学を出た人が牛耳るテレビや新聞の業界では、彼らの価値基準を疑わず、「~してはいけません」という良い子のメッセージを錦の御旗のように訴え続ける。
 その構えこそが、彼らとは縁遠い誰かの生きづらさを作る同調圧力になっているかもしれないことを思い及ぶこともなく。


 世の中は、広い。
 どれだけ便利な時代になろうとも、既存の社会の仕組みや救済インフラでは満足に救われない人たちがいる。
 たとえば、子どもの頃から実の父親による性的虐待に悩まされ続け、高校時代に家出し、世間知を獲得するまでは売春するしか生き延びられなかった10代は、2016年の今なお珍しくない。

 そうした個々の事情に立ち入ることなく、親から十分な教育投資と安全な関係を与えられた立場の人間が「偏差値の高い大学へ進学すれば、給与の多い会社へ入れる」という勝ち組だけの価値観に居直れば、「高校を中退して貧困化した人」を負け組として見下すだけだろう。

 恵まれた学業成績を持つ彼らは、なぜ「偏差値や学歴とは関係なく貧困化しないで済む社会の仕組み」を生み出そうとしないのか?
 そこが僕には引っかかるのだ。
  人は、自分が不幸の底に落ちないかぎり、社会的弱者の当事者にならないかぎり、自分と同じ痛みを持つ人たちが既にたくさんいることに気づかない、ということなんだろうか?


●課題解決のためにオルタナティブな方法を多様に生み出そう

 自殺や家出、売春や犯罪に無縁な恵まれた人たちは、無菌室のような家庭や学校、メディアなどによる教育に毒されているのかもしれない。
 それなりのストレスを環境から与えられているといっても、なんとか耐えられる範囲だろう。
 たとえ耐えられないほどの環境であっても、周囲におかしなことはおかしいと言えないとしたら、同調圧力に対する過剰適応のようにも見える。

 それは、その人の生きている家庭や学校、地域などの社会環境が、生きづらい個人を「枠外」へと動機づけるありようだ。
 大人は子どもに対して、「教育投資を十分に施し、何不自由なく与えてきた」と思いがちだが、社会の仕組みの良い面だけを見て、悪い面には目を背けるとしたら、大人側の無責任を問う必要が出てくる。

 物事には必ず良い面と悪い面がある。
 そのどちらかだけを語ろうとすれば、ひとりよがりな発想になりかねない。
 「より高い偏差値の大学へ行けば、より高い所得が得られる会社に入れる」という社会の仕組みを教えるなら、「より低い偏差値の学校に行っても稼ぐのに困らないで済む方法」も教えるのがフェアな教育だと思うが、現実はそうなっていない。

 企業戦士として従順に働く人たちを養成するなら偏差値教育で構わないが、従順さより自由に生きたい子には早くから起業教育を施す方がいいはずだ。
 こういうことを書くと、「起業に向いてない子もいる」という反論をよこすバカがいるが、そんなの当たり前じゃないか。
 だからこそ、みんなで起業を学ぶ必要があるんだよ。
 みんなで学べばこそ、いざ「自分は起業に向いてない」と思ったら、起業する周囲の友人たちの仕事を見ながら、自分が面白いと思った友人の作る会社の社員に入る選択肢さえ生まれるんだから。

 それに、既存の社会の仕組みでは生きづらい人たちが、自分たちが働きやすい環境を自由に作り出すという意味で、起業は「社会的弱者の選択肢」である。
 これ、世界の常識だから、起業を「金と学のある人がやること」というバカな思い込みは捨てたほうがいい。

 いずれにせよ、政策立案によって社会や教育の仕組みを作っている官僚の多くは超高学歴層だが、彼らは低学歴文化に関心が薄く、その当事者とのつきあいも無い。
 もっとも、自分の属するコミュニティとは異なる文化に関心を払わないのは、日本人の愚かなところだ。
 それゆえに、ひとりよがりな価値を強いる勝ち組のために割を食う人たちは、生きづらさが最大化した時に自殺や家出、売春や犯罪などに走りがちになる。

 しかし、「あれもいけません」「これもいけません」では、誰にとっても生きづらくてしかたがないだろう。
 人間、そんなに強くない。
 それは、偏差値70超えの大学を出て、世界一の日本企業に就職したつもりが、40代に入って経営不振でリストラされている中高年も同様だ。
 自分自身がオッサンの年齢になって初めて負け組になると、逃げることさえできず、首を吊ってしまう人も珍しくない。

 そんな悲劇が続くのは、先回りして失敗を回避することを良いものだと刷り込んでいる人たちが増えたから、かもしれない。
 先日、児童相談所へ親から虐待を相談しても保護されなかった中学生男子が自殺した。
 これは、救済インフラとしての児童福祉が制度的に限界に来ていることを放置していた問題も大きいが、それ以上に「家出はいけません」と言い続けてきたメディアにも問題があるのだ。


 公的機関には、保護できる人数が決まっている。
 よほどひどい虐待を親から受けていて、しかも小学生以下で緊急を要しないかぎりは、保護されない。
 だから、3・11の東北の震災でも、家族を津波で失い、孤児になった子たちを児童相談所は保護し、その代わりに親のいる子たちは親元へ戻されて、人数を調整された。
 これは、孤児の人数分だけ、ひどい虐待をする親元へ被虐待児を戻したことを意味する。
(被災の話がもちきりの当時、この行政のダメぶりはどこにも報道されなかった)

 当時、孤児になった子を引き取り、血縁者でなくても一緒に暮らす大人たちが少なからずいた。
 震災前からあった家族との有害な関係に戻るのが嫌で、仮設住宅に入らずに上京してきた子たちもいる。
 これは、家出人も同様だ。
 他の誰よりも家族が自分にとって有害な当事者にとって、一緒に住む相手が束縛したがるバカな男だろうが、家族よりマシなのだ。

 一緒に住んでいた相手にほとほと嫌気が差し、そこから逃げても、またバカな男をつかまえることもあるだろう。
 だが、そういうバカを繰り返しているうちに、「自分にとって幸せとは何なのか?」について傷つきながら確信を得ていく道もある。
 誰かの失敗を先回りして回避させようとする人は、「傷つくなんて不幸でしょ」と言うだろう。
 しかし、残念ながら、自分が傷つき、痛みを知って、初めて学べる人もいるのだ。
 そういう形でしか、自分が確かに生きてるという実感をつかめない人もいるのだ。

 それを「愚かだ」と指摘するのはたやすい。
 それでも、心身を通さないまま知識として知っているだけでは得られない実感がそこにはある。
 それは、傷ついてきたからこそ得られた「当事者固有の価値」である。
 その価値を蔑む必要はないし、むしろ新聞や教科書では救われない人たちの文化として尊重しなければ、文化の多様性は損なわれ、大学における「知」を特権的に語るひとりよがりな文化を温存するだけだろう。

 せめて、生きづらさを少しでも減らしたいと思うなら、「~はいけません」で思考停止するのではなく、「~しても大丈夫」なオルタナティブな方法を考え抜くのが、知恵のある人だ。
 「家出はOK」「いや、家出はNG」などというつまらない二者択一の議論ではなく、「家出しても大丈夫な方法とは何か?」に踏み込んでいけば、それだけで救われる人はたくさんいるはずだ。
 そして、「有志一同で同時に家出してみる」という試みがあってもいい。

 たとえば、児童相談所へ相談しても保護されなかった中高生たちが、○月○日正午に全国各地から東京のシェアハウスへ一斉に家出するというプロジェクトを立ち上げてもいいはずだ。
 家出もみんなでやれば怖くない。
 お互いに助け合い、ネット上で知り合いを作り出し、公然と家出し、家出先のシェアハウスに待ち合わせたら、その後はそれぞれべつのシェアハウスへと移住していけばいい。
 親が躍起になって上京してきたら、中高生たちが一斉に記者会見を開き、マスコミを呼んで、自分たちがどれだけ児童相談所へ通報しても救われなかったのかを訴えればいい。
 たった一人で孤立し、自殺してしまうより、その方がずっと良いはずだ。

 そのように、家出ひとつとっても、さらに多様な選択肢を作り出す必要性はある。
 僕が1999年に発表した本『完全家出マニュアル』では、家出は単に自分を害する親から避難することではなく、定職・定住先・家出後の目標の3点を満たして自立することだと定義している。
 この3条件は、家出に限らない。
 つまらない人間関係から避難し、自由に人生を楽しもうと思えば、必要になってくることなのだ。

 ただし、そうした生きやすくなる基本的な考え方を生み出すだけの環境を、家庭や学校などが若い世代へ提供してこれたのかを考えると、お寒い限り。
 少しのいいかげんさも許さないような生い立ちのままでは、生きづらさは当事者の自己責任にされやすくなる。
 例の千葉大生による少女監禁事件でも、「たまたま千葉大生だっただけ」とか、「もともと変な奴がやらかしただけ」で思考停止してしまう人は珍しくない。

 どんな悪人も、赤ちゃんとして生まれ出た瞬間から、悪人になるわけではない。
 どんな人も、社会の仕組みの「枠外」へ追いつめる社会環境やダメな仕組みによって、孤立をこじらせ、耐えられない生きづらさへと導かれ、犯罪や自殺を動機づけられるのだ。
 誰かを生きづらさの最大化へと追いつめる社会の仕組みを問題視しないまま、特定の個人を社会の外側へ葬り去ってしまうのでは、同じ悲劇がいつまでも続くし、新たな被害者も増えるだけだ。

 ここまで書いてきて、モヤモヤとした気持ちが晴れてきた。
 やっぱり、生きづらさ若者の心理的な属性よりも、彼らを生きづらくする社会の仕組みを変えられる事例を書きたいのだ。
 生きづらい若者が、自分自身を必要以上に責めないで済むように。
 大人が、生きづらさを作り出す社会の仕組みのダメさに気づき、より生きやすい仕組みへと変えられるように。

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