21世紀は、「当事者」の時代の幕開けとして記録されるだろう。
20世紀では、医者や教師といえば、黙って従う存在だった。
とくに、戦前までは「医者が言うんだから正しい」とか、「先生の言うことは絶対」という言葉に誰もがうなづいた。
科学者も含め、「学者」と名のつく人々は、それだけで尊敬された。
専門家は尊ばれ、社会的な発言力も高く、官僚に招聘されては「専門家の意見」を述べ、社会設計に関わる存在として信頼もされていた。
しかし、2011年3月11日から、すべてが変わった。
いや、正確には、ウソがバレたのだ。
「原発は安全です」と主張していた科学者の権威は地に落ち、原発政策を進めていた政治家や官僚、電力会社に対する市民の信頼感は失われた。
「医者が言うんだから間違いない」と思っていたのも、ただの盲信だった。
被ばくの不安で病院に行く市民の中には、どうしても納得できない気持ちを持て余す人も増えていった。
「先生が言うんだから大丈夫」というのも、ウソだった。
先生を信じて津波から逃げられずに亡くなった子どもたちの親は、それまで学校を安全だと無根拠に信じていた自分自身を責めるしかなかった。
「想定外の原発事故」が起こった後でも、「安全です」と言い続ける科学者がいる。
「原発を動かし、安全管理の技術を外国に売れば、平和維持のカードになる」と主張する政治家がいる。
しかし、彼らは決して「私の住む町に原発を誘致したい」とは言わない。
国会や皇居のある東京にも、誘致しない。
自分たちだけは、被ばくの不安を感じないでいたいのだ。
「被ばくする当事者」には、なりたくないのだ。
だから、よその町に建てた原発を再稼働する際に、彼らにとって都合の良い「専門家」を招いては安全を訴える。
安全保障法案を訴える時も、自民党は自民党にとって都合の良い「専門家」に国会で証言させた。
野党は野党で、彼らに都合の良い「専門家」を召喚した。
「専門家」の対立の構図の前に、取り残されたような気持ちになる国民は珍しくないだろう。
この国の主権者は国民のはずなのに、「代議士」や「専門家」という代理人が、議会でもメディアでも主役より幅を利かせている。
しかし、そうした代理人たちが制度設計を担ってきた結果が、この生きづらい日本社会であることに気づいた人たちも、一部では増えつつある。
官僚も「専門家」を政策立案や公聴会などで召喚するが、たとえば身体障がい者が暮らしやすくなるはずのバリアフリー新法でも、「当事者」である障がい者から不満の声が出ている。
大きなホテルに車いすでチェックインすると、まるで病院のような部屋に案内されるので、いまわしい入院時代の窮屈な記憶を思い出し、べつの部屋に毎度変えてもらうという人すらいる。
内閣府の自殺対策委員にも「専門家」を称する人たちがたくさん召喚されたが、自殺率は依然として高い。
「専門家」に頼るばかりの政治や行政が、市民満足度の高い公共サービスを生み出すのに頭打ちしているシーンは、いくらでもある。
だからこそ、民間では「専門家」だけでなく、社会の仕組みが悪いために苦しんでいる「当事者」の声に耳を澄ませることが必要になってくるのだ。
ところが、NGO(非政府の市民活動団体)でも、「専門家」だけを集め、「当事者」の声を聞かないまま、社会を「専門家」にとってのみ都合の良い社会に変えようとしている人たちもいる。
では、「専門家」による支配を終わらせ、「当事者」と対等な関係でこのよのなかをもっと生きやすものに変えていくには、どうすればいいのか?
それは、自分自身の当事者固有の価値に気づくことから始まるのかもしれない。
●「私」の価値は、社会や歴史の価値と拮抗している
今春公開の映画『抱く[HUG]』(海南友子・監督)は、そのことを教えてくれるかもしれない。
海南(かな)監督は、ドキュメンタリーの映像作家だ。
彼女は震災直後、福島第一原発から4キロの大熊町で取材をしていた。
その取材の後、彼女は妊娠。
連日のようにテレビから伝えられる被ばくの影響に、不安を覚える海南さん。
「どうか無事に産まれてきてください…」
彼女には、祈ることしかできなかった。
僕自身、取材を仕事にしているので、この映画には関心がある。
というのも、取材は「専門家」の仕事になりがちだからだ。
事実を掘り起こし、その事実をどう読み解き、どう伝えるかという作業は、研究対象を観察し、分析し、一定の評価を与えることと似ている。
問題は、どんな評価基準が正当なのかを考えているかどうか、だ。
学者などの「専門家」は、その専門領域における学識をふまえ、その評価基準を参照する。
「うちの学会ではこうした見立てが一般的だ」という評価基準をとりあえず採用し、客観を装うわけだ。
もちろん、評価基準はマルチアングル的にいくらでもあるため、実際の評価は常に一面的なものでしかない。
つまり、観察しているだけではわからないことなど、山ほどあるのだ。
ドキュメンタリー映画の制作も、それと同様だ。
カメラを回した相手を映像として記録する作業と、その映像を特定の意図によって取捨選択して編集して公開する作業の間に、客観的に伝えようにも編集方針は山ほどある。
だから、作り手は他人に見せるまで「何を選べば現実の豊かさを担保できるのか」について何度も葛藤を重ねる。
その観察対象を自分自身に設定するなら、なかなか冷静ではいられない。
しかし、そのとまどいこそ、観察に徹していては見えてこなかった豊かな価値なのだ。
それを僕は「当事者固有の価値」と呼んでいる。
当事者は、学術研究の「専門家」のように何かをはっきりと明言することは難しい。
それは、当事者に「専門家」のような知識が無いからではない。
「専門家」のように既存の評価基準に縛られた正しさだけでは現実の社会が生きづらく、「べつの正しさ」を必要としているものの、その「べつの正しさ」があまりにも豊かにあるために、どの正しさを選べばいいのかについて、ためらいととまどいがあるからだ。
そして、この「ためらい」「とまどい」こそ、「専門家」の言う正しさでは救われない人たちにとって、誰にも簡単に譲り渡すことのできない価値なのだ。
海南監督も、自分自身にカメラを向ける際、妊娠で変わっていく自分の姿や言動をどこまで他人に見せていいのか、見せたくないのかについて、相当悩んだことだろう。
それは、LGBTが性的少数者として自覚した後、いつ自分自身の性のありようを誰にでも言えるようになるかというカムアウトの問題とも通底する。
「専門家」は、歴史と教育によって多数派としての社会的発言力を獲得することによって、正当性を担保してきた。
しかし、それは同時に、歴史が浅く、教育の機会に乏しい社会的少数者の当事者性の価値をないがしろにしてきたのだ。
だからこそ、平和で自由な社会を実現した国では、自分らしく生きようと思えば思うほど、学校で教えられた専門知識では救われず、新たな価値基準を探そうにも、自分と均質なコミュニティの中には見つけられない「文脈難民」のような生きづらさを抱えることになってしまった。
それは、「学校的社会への過剰適応」とか、「良い子症候群」などの言葉で言い表せるのかもしれないが、いずれにせよ、「高学歴のセックスワーカー」や「現役東大生のヌード」などが登場する背景には、学術研究に正当性を担保させる「専門家」では救われない人たちがいるということだ。
精神障害者の集まる北海道の「べてるの家」が注目されたのも、病気が重くなったり、生活や活動に支障が出てくることを「普通」ととらえ、驚いたり、嫌がったりせずに、あるがままを受け入れる作法の大事さに気づかせてくれたからだろう。
人が狂うことは、一時的にせよ、長期的にせよ、「普通」のことだ。
老いれば、心身に不調が出るのも、「普通」のことだ。
そこに、医療や福祉、教育などの「専門家」がしゃしゃり出て「問題」を一方的に決める前に、その人自身が何に困っているかを個別に見ようという構えこそ、「当事者」に重きを置いた発想になる。
「当事者」に重きを置けば、「治すとは何か?」「ケアするとは何か?」「教えるとは何か?」を根本的に疑わざるを得なくなる。
従来の医療・福祉・教育は、その仕事をする「専門家」にとっての「普通」を、金を出す側の人間に一方的に強いてきた面が否めない。
自分はどう治されたのか? 治したくないのか?
自分はどんな教育を受けたいのか? 受けたくないのか?
それは、そもそも当事者自身が決められる余地のあるものではなかったか?
当事者の権利に気づいたならば、自分を困らせる問題が深刻化する前に、自分自身の権利に伴う責任にも思い当たってほしい。
それは、政治や経済にも言える。
国民主権の国では、社会的課題の解決を政治家に丸投げするのではなく、「当事者」である市民自身が自分たちで解決する責任を負う必要はなかったか?
粗悪品を売る企業やブラック企業などの問題に対しても、「当事者」である消費者や労働者が自分の要望を企業にもっと伝える必要があったのではないか?
当事者意識に目覚め、当事者の責任を自らまっとうしようとする時、この社会はもっと生きやすい社会へ劇的に変わる。
すぐれたソーシャルデザインを実現する社会起業家の仕事を見れば、社会的課題の解決の仕組みを作り出すプロセスに必ず「当事者固有の価値」の発見があることがわかる。
それは、社会的少数者を自覚した者だけが知る「べつの正しさ」と言い換えられる。
「私の価値はあらかじめ社会や歴史の価値と拮抗している」という気づきだ。
時代はもう、「専門家」だけでなく、「当事者」の声をふまえる時代へと大きく動きつつある。
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