オウム真理教を団体の内側から取材したドキュメンタリー映画『A』を監督した森達也さんの新作になる。
ハッキリ言おう。
傑作だ。
日本人が今、観なければならない映画だろう。
耳の聞こえが悪いのにクラシックのヒット曲を生み出していることから、「現代のベートーベン」として持ち上げられていた佐村河内守さんは、ある日突然、マスコミからのバッシングに遭う。
新垣隆さんが記者会見を開き、「18年間、佐村河内さんの代わりにゴーストライターとして作曲していた」と発言し、佐村河内さんの聴覚障害や作曲能力に疑義を唱えたからだ。
その後、佐村河内さんは共作者がいたことを長い間明らかにしなかったことを謝罪する会見を行った。
だが、その記者会見の場では、新垣隆さんの証言を得てインタビュー記事『全聾の作曲家はペテン師だった!』を発表し、第45回大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)受賞した神山典士さんのからかいによって、聴覚障害の程度があいまいに報じられることになってしまった。
映画『FAKE』は、そうした騒動によって「作曲家」としての社会的信頼と仕事を奪われ、自宅にひきこもったまま奥さんとネコと一緒に失意の暮らしを送る佐村河内さんにカメラを向けるところから始まる。
新垣さんの「ゴーストライター」会見以後、新垣さん自身はバラエティ番組やTVCMなどに引っ張りだこになっていったが、佐村河内さんは「本当は耳の聞こえる人」「作曲できないペテン師」と世間からもバッシングされる一方で、ふさぎこんでいた。
この映画は、「本当に耳は聞こえないのか」「本当に作曲できないのか」という2つの命題が常に関心事として提示され続ける。
そんな佐村河内さんの自宅に、某民放のスタッフがバラエティ番組への出演依頼に訪れる。
局側は「佐村河内さんをいじるつもりはありません」と訴えるが、最終的に佐村河内さんは断る。
放送された番組を確かめると、新垣さんが出演し、おもいきりいじられ、笑われていた。
自分の番組を面白く演出できれば、取材したい相手と約束した番組主旨を変えても構わないとするテレビ局側の姿勢がありありとわかる。
このように、取材対象者を簡単に裏切る番組制作は、ニュース報道でも珍しくない。
映画『FAKE』で森監督は、新垣さんや神山さんにも取材を依頼する。
だが、両者とも、取材されることを断った。
新垣さんや神山さんは佐村河内さんを「ペテン師」としてのみ見ているか、少なくとも佐村河内さん側に立つ視点を許容する映像に組み込まれたくないようだ。

演じるとは、「カッコ悪いところは撮られたくない」「自分に都合の悪いことは言いたくない」という心情から、「素のまま」ではいられないということだ。
それでも、佐村河内さんは森監督による撮影・編集を信じ、森監督も「心中する」と言い、佐村河内さんの奥さんも「同じ船に乗ったんだから」と言い、3人のやりとりが映される。
それをネコが不思議そうに見ている。
この映画の予告編に、「誰にも言わないでください。衝撃のラスト12分間」とある。
あらかじめこの宣伝文句を知っていた僕にとっては、予想通りの展開を観ることになった。
しかし、その「12分間」、僕は不覚にも感動した。
想定外の「何か」が、そこにはあった。
それは、実際にこの映画を観なければ、絶対に伝わらない。
だから、ネタばらしなんか、しない。
これが、映画だ。
「何が本当か」を超える真実が、そこにはある。
映画『FAKE』は、日本映画史に残る1本だ。
●耳が聞こえなくても、音楽家としてプロになれる時代
音楽の作り方について知らない人のために、この映画を理解するための補助線のような文章を書いてみよう。
譜面が読めない・書けないことは、作曲や演奏のできる・できないとは、ほぼ関係ない。
20世紀で一番売れた作曲家のポール・マッカートニー(元ビートルズ)をはじめ、美空ひばり、岡林信康、布袋寅泰など、譜面が読めないまま、作曲・演奏しているプロはたくさんいる。
そもそも、黒人が作ったジャズやロックなどのミュージシャンの場合、譜面を書いたり読んだりしないプロは珍しくない。
今日では、楽器の演奏経験がまったくないままパソコンで作曲・編曲・演奏しているプロも増えてきたし、DJにはサンプリング音源をリミックスすることによって新しい音楽を生み出している人たちもいる。
譜面不要の文化は、テクノロジーの進化によって1970年代後半から音楽ファンの間では当たり前になっている常識だ。
最近では、入力・記録した音源データを自動的に譜面に起こすソフトまである。
骨伝導で音を認知できるデバイスもあるし、耳の聞こえない人のための音楽会も開催されている。
「耳が聞こえない=音楽を作れない」ではないのだ。
耳が聞こえなくても、キーボードさえあれば、入力した音を譜面として視覚化できるし、和声の基礎知識を学べば、自分の作った音の調律すら確認できる。
少々ピアノの心得がある人なら、自分が指で押した鍵盤がどんな音を出すかをイメージできる。
今日売られている個人向けの音楽機材を使えば、音程・打鍵の強弱・音色・エフェクトなどは自由に設定できるし、それらは数値としてベロシティが視覚化できるので、マニュアルさえ読みこなせば、誰でも作曲できる。
そうした作曲環境を得た今日、むしろ大事なのは、自分らしい音が作れるか、そして自分以外の誰かの心を感動させるだけの高品質な音楽が作れるかということだろう。
つまり、出来上がった曲だけが真実なのだ。
「耳が聞こえる人が作ったのかどうか」は、少なくとも聞き手にとってはどうでもいいはずだ。
キーボードの上の運指を見れば、その人がその音を出しているかどうかは、(少なくともピアノの演奏経験のある人から見れば)一目瞭然だからだ。
映画『FAKE』では、佐村河内さんと他の人との会話に必ず奥さんの手話通訳が映し出される。
とても自然で流暢な手話に見えるし、ときどき佐村河内さんも手話で応じる。
それらの所作を「演技」として見るのも自由だし、彼らにとっての日常風景として受け入れるのも自由だ。
しかし、その真偽の判断が難しいのは、僕ら「観る側」が手話や聴覚障害についての基礎知識が足りないからだ。
そのこと自体が、マイノリティに対する僕らの関心の低さを浮き彫りにする。
佐村河内さんの言い分が正しいとか、新垣さんや神山さんの言い分がウソだとか、そんな真偽を問う前に、「耳が聞こえない」ということや「作曲できる」ということ、そして「佐村河内さんや森監督がどんな人なのか」などについて、僕らはどれも「知らない」に等しいじゃないか。
よくわからないものを、まるですべてわかったかのように「あれは演技だ」「いや、本音だ」などと断じる前に、僕らはまだ佐村河内さんについてほとんど何も知らず、佐村河内さんとの信頼関係を深めてもおらず、自分が信じるに足る何かを獲得していないことに思い当たる必要があるだろう。
「ゴーストライター」という騒動は、「先に言ったもん勝ち」にしかすぎない。
他人を容易に信じない日本人は、なぜ会ったこともないテレビ番組制作者や新聞記者の報じる文脈を安易に信じてしまうのか?
その浅ましい作法に乗っかる形で一方的な文脈作りを平気で続ける日本の報道のあり方や、世間の読解力の無さは、大本営発表に従うしかなかった戦争当時と同様の不自由を温存している。
わからないものについて文脈作りを急ぎたがることによって、余計に何が本当かがわからなくなるという不自由さだ。
映画の冒頭、森監督は佐村河内さんにこう言う。
「僕が描きたいのは、佐村河内さんの(世間からのバッシングに対する)怒りじゃない。
(奥さんを含めて)お二人の哀しみです」
深くつき合わなければ、見えてこない真実がある。
誰だってそうだろう?
自分が負い目に感じていることや、他の人にうかつに相談しにくいことは、腹を割って話せるまで関係が成熟していないうちは、うちあけられないはずだ。
テレビや新聞、雑誌などのメディアが「ゴーストライター」のようなショッキングなネタを扱う場合、断片情報を拾って文脈作りを急ぎたがるが、旬ネタでなくなれば、追わなくなる。
それで本当に何かを「知った」ことになるだろうか?
あなたは信頼関係がない相手から取材されて、自分の言いにくいことをペラペラ話せるか?
「おまえが何を言っても疑ってやるぞ」というまなざしを向けてくる相手に。
なお、この映画の試写には、信田さよ子さんもいらしてた。
上野千鶴子さんもいらしたらしい。
女性の記者も少なからずいた。
佐村河内さんの奥さんの視点で、ゴーストライター騒動後を「夫と心中する覚悟」で共に生きる女性について、どなたか女性視点で書いてほしいと思った。
この映画では、女性が何を担保にパートナーの男を信じるのか、どうして世間を敵に回しても愛し続けられるのかという問いかけが内包され、それが最後の「12分間」の感動の伏線になっているからだ。
映画『FAKE』は、6月4日から渋谷ユーロスペースを皮切りに全国公開される。
友人や恋人、家族など身近な人たちと一緒に観てほしい。
これは、ゴーストライター騒動を描いた映画ではなく、あいまいな現実を共に生きるための「愛の映画」なのかもしれないのだから。
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