人によっては、泣けてしまう映画だ。
だが、登場人物である佐村河内守さん・彼の奥さん・森監督らの言動について「何が本当なのか」を疑わせる作りになっている。
それがこの「ドキュメンタリー映画」の魅力でもあるので、観る側にある程度の教養や映画表現への関心などを問うものが多少ある。
そこで、この映画をより深く読み解き、より深く楽しむために、これから観る人のための参考資料をまとめておく。
まず、映画評論家の町山智浩さんによるわかりやすい解説を聞いてみよう。
この町山智浩さんの解説に出てくる映画『オーソン・ウェルズのフェイク』(1975年制作。原題は『F FOR FAKE』)は、Youtubeにフルでアップされていたので、引用しておく。
森監督の『FAKE』には、「フィクションとノンフィクションでは違いがあるのか?」という問いかけが内包されている。
その主題を宙吊りにさせるための「描き方」について、解説が施されている。
この映画からは、ゴーストライター騒動をめぐる謎を解決して終わるカタルシスは得られない。
むしろ、新たな謎が無限に広がる形で終わる。
そのため、試写会では招かれた知識人たちがモヤモヤする気持ちを持て余しながら、席を立つしか無かった。
既に、ネット上ではこの映画を試写会で観た方々による感想が上がっているので、リンクしておこう。
★森達也監督の『FAKE』(茂木健一郎さんのブログ)
★「FAKE」の前に絶対に読め!「淋しいのはアンタだけじゃない」
★映画「FAKE」の感想と期待の声まとめ
★日本人が今、観なければならない映画(今一生のブログ)
★映画『FAKE』 公式Twitter(上映館情報)
★映画『FAKE』 公式Facebok(上映館情報)
★映画『FAKE』 公式サイト
●人間をもっと知りたいと思える点で「愛の映画」
映画『FAKE』については、前のブログで書いた。
それ以外に感想を足すのなら、やはり「愛について考えさせられる映画」である点は強調しておく必要がありそうだ。
表向きはメディア論的な体裁を取りながら、この映画は「佐村河内VS世間(新垣・神山・テレビ局など)」よりも、「佐村河内☓奥さん☓森達也(☓ネコ)」をメイン・キャストとして描かれている。
それをふまえて言うならば、僕らはあまりにも自分以外の人間に対する関心を深めないまま、他人との関係に時間や労力、心理的な負荷を払っていない状態を放置し、強度の足りないつきあいに甘んじてはいないだろうか?
そう問いかけられている気がする映画なのだ。
恋愛でも、友人づきあいでも、あるいは日常の仕事の取引や挨拶にしても、1970年代と比べれば、ケンカも減ったし、日常的に怒号を聞くこともなくなった。
気がつけば、深い付き合いを売り渡し、僕らは「平和と安全」を買ったつもりでいないだろうか?
僕は、僕自身の中学時代を思い出している。
校内暴力がピークの頃で、暴走族が深夜にブルンブルンとバイクの音を響かせていた。
それが、1970年代の終わりの日本だった。
中学校は、金八先生のドラマと同様、教職員自身の要請で警察の介入を歓迎し、校内暴力は減っていった。
その代わり、支配的な管理を是とする風潮を、10代の頃から当たり前のように受け入れ、反抗すること自体が無力感を招くようになった。
人間関係は希薄化し、「友だち大事」と言う同じ口で「よそものは知らない」「知らない奴は怖い」「怖い奴はいなくなればいい」という排斥的な作法や言動を生存戦略のように採用する人たちが増えたように思う。
でも、僕は、僕の知らない人を知りたい。
好きな人間なら、もっと知りたい。
知らないことは、自分の幻想メガネで相手を見誤ることになるだけでなく、築けるはずの信頼関係も築きにくくし、それは結果的にお互いを孤立化させ、誰も幸せにしないだろう。
あなたを知りたい。
あなたをもっと知りたい。
たとえ相手がためらおうとも、少しだけ踏み込んでいく試行錯誤でしか、信頼関係は確かなものに育たないし、育てなければ、誰の言葉も信用に足るものではなくなり、アノミー(無連帯)を社会に蔓延させていくだろう。
このよのなかを、もっと生きやすいものに変えられるなら、それは少しの勇気で相手の胸に踏み込んでいくことなんじゃないかな?
土足でなく、ちゃんと靴を脱いで、挨拶さえしておけば、あとはほんの少しの勇気を出せばいいだけなんだ。
僕らはもっと愛し合えるはずだよ。
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