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■当事者性を自覚させない「主権者教育」とSEALDs

 18歳と19歳が参政権を持つことになった。
 そこで、高校や大学などでは、主権者教育が盛んに始められてはいる。
 しかし、それを報じる新聞記事やテレビ番組を観ていると、正直、ピンとこない。
(※写真は、The Japan Timesから)

 何がピンとこないかといえば、18歳や19歳の人が「待機児童問題をどう思うか?」と教師にいきなり尋ねられても、答えに困るだけなのではないか、ということなのだ。


 いや、大人にとってはピンときやすい消費税率アップの問題も、大人だってわかりにくいTPP交渉の問題も、いきなり意見を求められたら、前提となる基礎知識も満足に知らないのだから、多くの大人も腕組みしてしまうだろう。

 そもそも、大幅な歳出カットを上手にやれる政治家が一人もいない現在、日本の財政が借金と増税によって歳入不足を補っている現実を、どれだけの国民が重く受け止めているだろう?

 借金を重ね続ければ、若い世代はさらに重税に苦しむことになる。
 そこで、「保育園を増やそう」とか、「中国や北朝鮮からの防衛に金をかけろ」とか、何でも政治にお願いすれば、税金の支出=国民負担という形で自分自身を苦しめることになる。

 政治で社会的課題を解決することは、解決事業のために税金を使うということだ。

 借金まみれの財政という現実の前で、「主権は国民のきみにある」と言ったところで、「はぁ? おっさんたちが作った借金をどう返済するかまで俺が考えなきゃいけないの?」と反発する声が出てきてもよさそうなものだ。

 気の利いた10代なら、こう怒るだろう。

「おっさんたちが政治にばかり期待してたから歳出が増えるばかりだったわけだろ? てめぇの世代で作った借金を返せない議員ばかり議会に送ってきたことを俺たちに一言謝ってから、主権者意識を教えるのが筋だろうがっ」

 いずれにせよ、特定の社会的課題に関する基礎知識をふまえないまま、「政治に何を望むのか?」を考えさせても、それは机上の空論だ。

 そんな地に足の付かない教育より、18歳や19歳には、その年齢に合った社会的課題に思い当たらせるのが先なのではないか?

 実際、彼らの世代にとって、政治によって解決を望んでいる社会的課題は、関心の高い順に言えば、以下のとおり。


1位 雇用・労働環境

2位 社会保障政策
3位 景気対策

 上記の3つに対するニーズを噛み砕くと、こうだ。


★ブラック企業を駆逐し、俺たちが安定して働ける会社に入れる仕組みを作ってくれ!

★失業手当・年金・子育て手当など、親や祖父母が暮らしに困らない仕組みを作ってくれ!
★俺のバイトの時給が安すぎだから、もう少し高い時給になる仕組みを作ってくれ!

 もちろん、そうした日常的で身近なことも社会的課題だし、大事なことだ。

 しかし、未成年が実際の政策を知り尽くした上でのニーズとは、言いがたい。
 むしろ、18歳-19歳の時点で切実に解決してほしい社会的課題は、彼ら自身が「どうせ俺がダメだからいけないんだ」と個人的な問題としてガマンを続けていたり、「政治によって解決できるなんて思ったことがない」というような種類のものかもしれない。

 たとえば、ある18歳の高校生にとっては、「校則でバイトを学校が許さないばかりに大学進学のためのお金を自分で調達できず、同級生と同じ春に進学できない」ということが、政治によって解決してほしいことかもしれない。

 あるいは、19歳の女子大生にとっては、「シングルマザーとして生きたいのに結婚しなくては親権から解放されず、自分を虐待する親がわが子を奪ってしまう」ということが切実な悩みかもしれない。

 実際、「法制度を変えてくれなくては生きづらくてたまらない」という18-19歳は少なくない。

 たとえば、LGBTの場合、戸籍上が男だと、16歳では結婚できないし、自分の住んでいる自治体ではパートナーシップ条例がないために結婚相当の関係が認知されずに悩んでいる人もいる。
 ずっと親から虐待されてきた18歳なら、家出しても親が追いかけてくる恐怖がつきまとうのに、親権のある親に対してストーカー対策法が適用されないことにはがゆさを噛み締めているかもしれない。

 さらに言うなら、低偏差値の高校生なら「高卒でも大卒の所得並みになるような教育内容にしろよ!」と心の中で思っている子もいるだろう。

 一般的に、高校生の中には、「卒業したら絶対に使わない知識は省いて、もっと社会に出た時に使える知識を学校で習得できるようにしてほしい」と望む人が少なくない。

 しかし、たとえそう切実に望んでいたとしても彼らは思っても口に出さないし、そうしたことを「ただの高望み」と認知してしまっている子も珍しくない。
 なぜか?
 主権者としての権利行使を、単なる知識ではなく、マインドとして学べる主権者教育なんて、日本全国どこの学校でもやってこなかったからだ。


●主権者意識が乏しい人は、政治性と社会性を区別できない

 そもそも、「主権」とは何か?
 主権とは、国家を統治し、誰からも支配されず、国のあり方を決められる最高の権力のこと。
 戦前まで日本の主権者は、天皇だった。
 終戦後の主権者は、国民になった
 国民の誰もが、日本社会をどうしたいのかを決められる権力を分かち合うことになったのだ。

 この主権をわかりやすく説明する補助線として、絶対王政との比較がある。
 王様一人が何でも勝手に決められる権利を独占していたイギリスやフランスでは、民衆が王様から権力を奪い取り、「自分たち国民こそが主権者だ」と主張し、みんなの社会のありようはみんなで決めることにした。
 それが、民主主義の成り立ちだ。

 もちろん、老若男女の全員が政策や憲法などを毎日議論していたら、食べ物を作ったり、家を建てたり、学校で生徒に社会を教える人がいなくなる。
 そこで、仕方なく自分たちの代表者を選んで、あくまでも「自分の代わり」(代議士)を議会に送ることで、議決されたものに従う義務を負うことにした。
 それが、国民主権による政治の成り立ちだ。

 しかし、政治家はあくまでも「代理人」にすぎない。
 社会のありようを決めるのは、あくまでも国民一人一人。
 だから、国民はそれぞれ自分の仕事を通じて、自分たちが満足できる社会のありようを作り出すことになった。
 代理人はあくまでも代理だから、必ずしも自分の望む社会を作ってくれるとは限らないから。

 政治家という「必要悪」による政治に支配されないよう、自分自身が直接社会をより生きやすいものへ変えられる主権者として振る舞う義務を負うことになったのだ。
 つまり、主権者意識とは、「自分自身こそが自分の望むように社会を変えられる主人公」という意識なのだ。
 政治家に権力を渡さず、国民自身が権力を振る舞えるようにするには、政治でなく民間で社会的課題を解決し、税金を使わずに済むように動くのが当然のはずだ。

 ところが、今なお日本人は「日本社会をどうするか決めるのは政治家だろ? 国民の自分には1票を投じるくらいしかできないよ」と考え、自分自身の毎日の仕事が社会を変えている営みであることにピンとこない。
 それもそのはず。
 僕ら日本人には、君主だった天皇を民衆の手で殺し、国民主権を奪いとった歴史はなく、戦争に負けて民主主義という洋服を着せられたまま、70年間も経ってしまったからだ。

 そのため、学校の教室で揉め事があった時、誰かがトラブル処理に動こうとしても、「お前、クラス委員長でもないのにでしゃばるなよ」といさめる声が当たり前に支持されたり、会社で若い平社員がワークライフバランスの導入を提案しようにも、「そういうのは君が偉くなってからやれば?」と上司や同僚から冷笑されることが珍しくない。
 現代でも日本人は、まるで大地主に隷属するしかなかった戦前の小作農と同じように、「自分も社会を変えられる権利を持っている主人公」なんて思ったことすらないのがふつうなのだ。

 国民主権は、戦後70年間の民主主義教育において、知識としては教えられても、マインドとしては根付かせられることはなかった。
 国民が主権者意識に目覚めて多様な意見を持ってしまえば、政治家や官僚にとって、国民を統治しにくくなるからだ。
 社会科の先生の中でも、授業で生徒たちを主権者意識に目覚めさせる教え方のできる人材は、極めてまれだったろう。
 それどころか、主権者意識が乏しい教師も珍しくなかった。

 しかし、主権者意識が理解できているなら、この社会のありようを決めるのは、民間の仕事と政治の仕事の両輪であることにピンとくるはずだ。
 これを理解できるなら、なぜフジロックにSEALDsが参加することで、一部のフジロックファンが違和感を覚えたのかも納得できる。

 音楽が不特定多数に向けて発せられる表現行為である以上、それはすべて社会的なメッセージとして受け取れる。
 どういう社会だったらステキだと思うのか?
 すべての表現はそれに答えるものだ。
 だから、その社会観(世界観)に魅せられて、それぞれファンがつく。
 フジロックでも、同じアーチストのファンは、そこで出会い、交流を楽しむ。
 この平和な場所に、お互いを分断する文脈を持ち込まれたくないと望むのは当然のことだ。

 フジロックに限らず、ロックフェスでは社会的なメッセージを常に発信してきた。
 戦争反対、環境を守れ、原発はイヤだ…。
 これらは自分自身が支持する社会観(世界観)そのものの表明であって、「だから共産党に一票を入れろ」とか、「野党は連合せよ」というような政治的なメッセージではない。
 どんな政党が政権与党になろうと、「戦争には反対」「環境は守りたい」「原発はイヤだ」と主張するのは、あくまでも社会的な言動なのだ。

 SEALDsは、野党連合を呼びかけて政局に深くコミットし、安倍政権による強行採決に対して政治的な解決だけを求めてきた。
 SEALDsがもし政治を介さず、たとえば「日本のホームレスを飢え死にさせない仕組みを民間から作ろう!」と標榜し、解決の仕組みを作り出して成果を上げたのなら、フジロックに招かれても、ファンや国内外の多くのミュージシャンから疑問の声を上げられることなく歓迎されたはずだ。
 「ホームレスを飢え死にさせたくない」という思いは、政治思想の右・左に関係なく分かち合えるメッセージだし、民間でやる以上、いくら社会性が高くても、政治色がつかないからだ。

 しかし、SEALDsははっきりと政治的解決の誘導だけを行い、特定の政党への支持を煽った。
 僕だって安倍政権は嫌いだし、安保関連法なんて白紙に戻したいと願うけれど、音楽というものはもっと豊かなものなのだ。
 極左のようなパンクもあれば、極右のようなオイパンクもある。
 それらがそれぞれの場所で声を上げられることこそが、音楽の豊かさを保証する。

 なのに、特定の政党への誘導で名を上げた団体がフジロックにいれば、同じアーチストのファンどうしをイデオロギーで分断するようなバツの悪さを与えないだろうか?
 そういう懸念から違和感を持つ人が一部に出てきてしまうのは、当然なのだ。

 もっとも、フジロックの主催者が誰を招こうと、僕自身はさほど関心はない。
 たとえヒトラーのような安倍総理を正式に招こうと、社会にとっては無害だからだ。
 SEALDsが招かれたのも、彼らが8月に解散するので今年しか出演の機会がないのと、集客増のための話題作りとして格好の材料だったというビジネス上の事情以外に無いだろう。
iRONNAより

 ついでに書いておくと、SEALDsが社会参加を政治参加だけのように喧伝してきた罪は重い。
 とくに、若い世代の間に「声を上げれば現実をなんとかできそうだ」というとんでもない妄想を与えてきたことは、勘違いも甚だしい。
 それは、「念じれば神風が吹く」といった根性主義(念力主義)に他ならないからだ。
 もっとも、彼らは学生ゆえに、自分の毎日の仕事によって民間から社会を変えるという試みを知らずにいたのだから、その若さゆえの過ちをことさら責めるつもりもない。

 解散後、就職してもなお、彼らは数年に一度の選挙の政治活動にのみ関心をもち続けるのか?
 それとも、彼らと同じ世代が全国各地の学校で同時多発的に学び、試みているソーシャルデザインソーシャルビジネスを真摯に見つめ、自分の通う職場で社会の仕組みを少しでも生きやすいものへ変えるための試みを始めるのか?
 あるいは、社会変革の夢やデモ活動を「青春の思い出」として胸にしまい、自分の家族を守るだけで思考停止しては社会にある多くの生きづらさに目をつむっていくのか…?

 どんな人生も結構だと思うが、多くの日本人が主権者意識に目覚めない限り、無党派層や政治的無関心層へ投票を動機づけることも難しいし、政権交代の成果を出す仕組みなど作れない。
 自分の毎日の仕事で社会変革を生み出せないままなら、政治思想の右や左にとらわれるばかりで、左右どちらも共感できる社会変革のアクションを発見することなく老いてゆくだけだ。

 政治や選挙も大事だが、毎日の自分の仕事を通じて社会を変える仕組みを作っていかなければ、主権者としての当事者性は育たない。
 遠回りのように見えるかもしれないが、日常的な社会変革の試みこそが主権者としての確かな誇りを育み、投票行動を動機づけていくんだと思わないか?

 この日本社会には、「今日も明日も生きづらくてたまらない」という声も上げられないまま苦しみ続ける人がたくさんいる。
 施しばかり受けて再就職に夢が持てないホームレス、福祉作業所で1万円程度の月収を強いられ続けている障がい者、進学したくても校則でバイトが許されないひとり親の高校生、孤立の中で自殺を思いつめる生活保護の受給者…。
 彼らにとって、右も左も関係ない。
 政治が彼らを救える仕組みをいつまでも作れないなら、民間でやるしかないじゃないか。
 デモで彼らが救えたかい?

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