すでに多くの方が感想や批評を書いているけれど、夏休み映画で家族や親子で観に行くには、難しい作品かもしれない。
それだけ深くて重い存在として、今回のゴジラは描かれているからだ。
『シン・ゴジラ』は世界に誇れる日本映画の傑作といえるし、特撮映画史の中でも”残る1作”として記録されることになるだろう。
テレビで放送される前に、このロードショー公開の今、ぜひワイドスクーンで観ておいてほしい。
僕は観た直後に興奮しながら、ツイキャス(以下、動画ログ)で1時間も話してしまった(ネタバレ無し)。
その話を、このブログでまとめておこう。
東京湾に突然、これまで誰も観たことがない巨大生物が現れた。
これを察知した日本政府は、閣僚と官僚が会議を重ねながら対処を検討してはTVで経過を発表する。
そうこうしているうちに生物は東京へ上陸し、道路やビル、橋、車などを次々になぎ倒しながら進んでいく。
市民たちは地下鉄や駅でパニックになり、右往左往するばかり。
この巨大生物は、歩いているだけで街と人間をぶっ壊しまくる危険な存在として認知される。
この生物はある変化を遂げると自ら海に消えるが、政府は「駆除」(攻撃による殲滅)あるいは「排除」(領土・領海から外へ出す)の判断を迫られる。
しかし、法律上では、敵国ではない存在への対処がどこにもない。
この巨大生物は、「想定外」であり、超法規的措置でしか対処できないため、総理は自衛隊による無制限の武力の行使を容認するように、閣僚や官僚から詰め寄られる。
こうしたポリティカル・フィクション(政治的な虚構)は人間側のドラマだが、この映画の主人公はゴジラだ。
やがて巨大生物は鎌倉沖から再上陸し、武蔵小杉駅エリアから東京を目指すように歩き出す。
これを阻止しようと、自衛隊の戦闘機や戦車がミサイルをぶちこみ、全弾命中させる。
しかし、この巨大生物はびくともしない。
かすり傷ひとつ負わない。
市街地でドンパチを繰り返せば、そのエリアで住んだり、働いてる人々が次々に死んでしまう。
しかも、この巨大生物が歩いた土地は、すべて被爆している。
日本は、こんなとてつもなく強くて危険な巨大生物をどうすればいいのか?
日本政府の本流は、自衛隊による攻撃で「駆除」か「排除」を急いだ。
他方、この映画の主人公の内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)は、変わり者の官僚や学者などを集めたチームを新設し、「ゴジラとは何なのか?」を科学的に解明しようとする。
つまり、政府はあくまでも「異物」であるゴジラを殺せば問題解決と考えたのに対して、科学班チームはゴジラという未知なる存在が「どういうエネルギーで生きているのか?」を探ろうとするのだった。
この映画で描かれたゴジラとは、いったい何なのか?
●誰かを孤立させ、「異物」に育てた後は、駆除すればOK?
映画の冒頭、ゴジラは「成長」のために大量の血を流す。
それは、生物として、命ある存在としての証だ。
ただの異物としてとらえるなら、駆除・排除すればいい。
しかし、巨大とはいえ「生物」だからこそ、ミサイルで攻撃されたら、その相手に対して自衛的にならざるを得ないし、それは応戦するってことだ。
命ある者は、自分自身の命を守ろうとするからだ。
生物として当たり前のことをしただけなのに、ただ陸上を歩いているだけで人々から恐怖の対象として認知され、敵視され、攻撃の対象にされてしまう。
これまで会ったこともない存在というだけで、「コミュニケーションできない相手」と思われてしまう。
それが「異物」として認知されるってことだ。
周囲の人間たちから徹底して「異物」として駆除・排除されることに対し、ゴジラは街を壊し、戦闘機やヘリを撃ち落とし、東京を大炎上させては数百万人単位の無差別大量殺傷をくりかえす。
もちろん、夏休み映画で家族連れの動員を見込む大メジャーな東宝が配給するわけだから、ゴジラの破壊行動によって首が飛んだり、足がもげたりする被災者は一人も出てこない。
だが、3・11の東北の大地震をふまえて惨状をリアルに描写しているところから、その残酷かつ凄惨な破壊の状況は容易に想像させられる。
一瞬だけビルのワンフロアのオフィスが映るだけで、そこに人がいなくても、市街地でのビルの破壊が阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまうことを、世界中の人々が9・11で知っているからだ。
なぜ今回のゴジラはとんでもない規模の街の破壊と、「おまえら、みーんな死んじまえ!」と言わんばかりの無差別大量殺傷をくり返したのか?
この狂ったようなすさまじく破壊的な行動は、何の比喩なのか?
この映画に込められた圧倒的な情念・怨念は、「異物としての孤独」から来ているように思う。
周囲から理解されないまま、一方的にいじめられている存在が、コミュニケーションができない「異物」として排除・駆除される社会に僕らは生きている。
たった一人で雄叫びを上げながら街じゅうを焼き尽くし、大きな口を開けて放射する例の武器で戦闘機やヘリをすべて殲滅させ、これでもか、これでもかと無差別大量殺傷を平気でやりまくる狂ったようなゴジラを観て、僕は不覚にも涙ぐんでしまった。
ゴジラが、「俺が俺であるだけで、おまえら攻撃すんなよ、バカヤロウ!」と叫んでるように感じたからだ。
それぐらい、ゴジラに対する爆破もすごければ、ゴジラが応戦のためにやる破壊もすごかった。
「すごい」としか言いようのない映像だった。
その片鱗すら予告編の映像にはない。
映画館のワイドスクリーンで驚いてほしい。
あの爆破シーンの映像は、文学やロックに匹敵する思想そのものだ。
主役であるゴジラからの視点でこの映画を見直せば、「異物にされた孤独」が怨念に変わる恐ろしさこそが、銃火器や放射能熱線よりはるかに本質的な恐怖であり、国難であることを思い知らされる。
日本の自衛隊では、まったくゴジラに歯が立たない。
だから、米軍が出てくるが、アメリカ人だけは大統領も主要閣僚も首から下しか映っていない(※日系人を演じる石原さとみは別。アメリカ人以外は全身が映っている)。
これは、日本を守っているアメリカですら、僕ら日本人の大半にとって関心外の「未知の巨大国家」であり、コミュニケーションできない「異物」として認知している愚かさを指摘しているのだろう。
しかし、変わり者ばかりの科学班だけはゴジラという異物を理解しようとし、駆除でも排除でもない成果をもたらす。
それは、異物との共存の可能性を示唆した「静止」だ。
実際、「異物」は、多くの人がコミュニケーション可能な相手として認知しようとしないかぎり、どこにも行けない。
未知なる存在の言動の動機を知ろうとしない人が多いうちは、移動先のどこでも同じように駆除・排除され続けるからだ。
(これは、自然と人間の共生を探ろうとした宮﨑駿・監督の『もののけ姫』にも通じる)
参院選の前日、安倍総理の演説が終わった秋葉原の駅前広場で、「アベ政治を許さない」というプラカードを黙って掲げただけで、周囲の大勢から小突かれ、倒され、排除され中年女性がいた。
彼女も、「シン・ゴジラ」に育てられてしまうかもしれない。
刺青を入れたのを咎められ、大麻を吸ってはナチスドイツの選民思想にかぶれ、19人もの障害者を殺した26歳の青年がいた。
あいつは、「シン・ゴジラ」になってしまった。
無差別殺傷事件を起こす前に、彼を「異物」として関心外にし、駆除の構えでしか対応してこなかったツケが、彼を「シン・ゴジラ」に育ててしまったとはいえないか?
周囲から孤独に追い詰められた人間の怨念は、すでに現実のものだ。
日本人には、戦争も災害も怪獣も全部「自然現象」だと勘違いしてしまう傾向がある。
でも、戦争は「経済破綻による国際間の軍事的衝突」だし、災害は「同時代の科学では制御できない気象変動」だし、怪獣は「命ある生物」だ。
そして、ゴジラは怪獣だ。
自然現象ではない。
ゴジラ自身の意志で動く。
ゴジラという存在をただの災害=異物として認識できないと、『シン・ゴジラ』を政治映画という陳腐な解釈で済ませてしまう。
しかし、社会の仕組みだけを描写しただけの映画ではないことは、ここまで読まれた方には納得だろう。
「国土」なんて人間が勝手に作った境界線にすぎない。
動植物にとってはどうでもいいものだ。
人間側の一方的な視線しか持ち得ないのは、世界認識が乏しいと自白してるようなもの。
人間社会の歴史は、未知の存在の発見と知ろうとする戦いの歴史であり、その成果としてさまざまな異物との共生を果たしてきた。
日本を守る政府関係者にだけ愛着がわき、ゴジラを敵視するばかりなら、「ゴジラが人間にしたことの罪」だけを考え、「人間がゴジラに何をしたか?」に目を向けないってこと。
それは、貧困や病気などで追い詰められた存在を無関心にした自分の罪は問わず、その人が自殺や犯罪に走れば責めるだけの構図と同じである。
何の敵意もない存在を、みんなが無関心で「未知」にしたまま、よってたかって攻撃したら、返り討ちに遭った。
それが『シン・ゴジラ』が描いた、ひとりよがりな軍事的解決の限界だ。
だが、未知の存在を孤立させず、少しでも知ろうとすれば、残酷な悲劇はいつか収まる。
僕らは誰かを平気で「つきあえないやつ」として異物扱いにしてはいないか?
その人を孤立へ追いつめ、孤独をこじらせ、「シン・ゴジラ」に育てていないか?
異物にされた孤独は、怨念に変わるのだ。
(注:すでに観た方向けのネタバレ編の記事は、コチラ)
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シン・ゴジラとは?(ネタバレ有) ~怨念を鎮める覚悟
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