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■支援ポルノを避けるには ~非営利事業の正当性

 民主主義の基本は、市民自身による自治だ。
 市民自身が社会的課題を解決するのを前提に、それが市民の間でどうしても難しい場合、自治体や政府などに収めた税金である公金に頼り、その公金を分配する政治による法制度化で課題解決を図ろうとする。
 それが、民主主義社会の本来の姿であるはずだ。

 しかし、この自治マインドを戦後70年間の義務教育で育ててこられなかった日本では、政府の失策の尻拭いのように市民活動が生まれることになる。
 日本では、NPOやCSRなどの非営利活動法人を作り、市民活動として社会的課題の解決に取り組むことは「第2の政府」の創出を意味し、それゆえにその活動の当初から「公益」を目指すことが求められる。

 公益とは、文字通り、「みんなにとって有益」という意味だ。
 「みんな」とは、活動に携わる人、その活動によって直接に救われる人、そして第三者として活動を評価する人のすべてを含む。
 市民活動そのものが、社会のすべてのステークホルダー(利害関係者)を意識して運営される必要があるってことだ。

 もちろん、みんなにとって役立つだけの活動内容を実現しなくても、取材の甘いマスメディアに持ち上げられる市民活動を行う非営利活動団体も少なからずある。
 だから、NPOなどの非営利の支援活動は、第3者であるメディアによって持ち上げられることだけでは正当化できないし、大企業から助成金をもらっていても必ずしも信頼の担保にはならない。

 支援活動が正義になるのは、たった1つの条件を満たす時だけ。
 それは、活動で助けられたはずの人自身が、感謝の声を社会に発信することだ。

 しかし、とても残念なことに、一部の団体にはその活動における支援する側・支援される側の間のギャップを埋めないまま、ひとりよがりな活動を誇らしくメディアに伝えているところもある。
 それは、助けを求める人たちからの期待のハードルを自分で上げてしまっているようなもの。
 高下駄を履けば、いつかは、高下駄を自ら履いた人だけが転んでしまう。

メサイアコンプレックスの人が克服する為に周囲が出来ること!より


 最近、風俗嬢のセカンドキャリア支援を標榜する一般社団法人 GrowAsPeople(代表・角間惇一郎)に対して、同団体へ相談と支援を求めた女性たちが、相次いで不満違和感の声を上げ始めている。
 この問題は、このままこじれ続けると、年を越しそうだ。

 そうした女性たちの一人とSkypeで話した際、彼女は同団体の活動について「助けたいハラスメント」という言葉を造語して説明した。

 
 団体にとって支援対象である当事者のニーズを満足させることができない活動内容は珍しくなく、支援者のできる支援と、被支援者の求める支援の間には必ずギャプがある。
 そのため、両者の思いのギャップを埋めることは、どんな活動団体にとっても常に課題だ。

 このように課題を指摘しただけで、「あの団体をdisってる」などと勘違いする人がいる。
 課題があれば、それを解決するのが、非営利活動団体の通常業務である。
 この通常業務は、営利目的の企業で言えば、消費者にとってより満足度の高い商品を創意工夫と努力で開発・提供するのと同じだ。

 非営利事業では、何かに切実に困っている当事者のニーズを汲み、当事者とのコミュニケーションを深めることで、さらにニーズを掘り下げ、ニーズに合った活動をするのが基本だ。
 これも、企業が消費者の声を聞いて、商品・サービスを洗練させていくのと同じ。

 企業が消費者が互いに仲良くして自社のビジネスを持続可能にしていくのと同様に、非営利事業も団体側が支援を求める当事者から嫌われる活動をするのはバカげているし、当事者と対立の関係を放置するのも、活動の持続可能性を危うくする愚かなことだ。
 支援を求める人から学び、教えていただくという姿勢なしに、市場調査などの定量分析だけで事業がうまくいくと考えていたら、その傲慢さゆえに自滅してしまうだろう。

 このように、問題提起(=課題を指摘)することと、批判(dis)することは、似ているようで、まったく違う。
 課題を明確に指摘することは、その指摘の内容の中に”解決できる仕組み”を示唆している分だけ、指摘された相手に改善の見込みがあると信頼の余地を残しているからだ。

 だから、このブログ記事では、「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)が起きてしまう条件と、その解決方法を、あくまでも一般論として指摘しておきたい。

既存の救済インフラでは、いつまでも満たせない乾き

 僕はかつて、15年以上も自殺志願者の取材を続けていたことがある。
 そこで思い知ったのは、自殺まで思いつめるほどの当事者は、誰の助けも自分のニーズを満たせないと認知していることだった。

 どんなに愛情をもって接しても、フルマラソンを完走した後にペットボトルの水だけでは乾きを癒せず、飲んだ気がしないように、あるいは、砂漠の熱砂にどれだけ大量の水をまいても瞬時に水蒸気になってしまうように、自分の求めを恒常的に満たせる安心を認知するのが難しい。
 そうした心性を、自殺にまで追いつめられた当事者たちは持っていた。

 自殺にまで追いつめられた背景は、貧困・孤独・人間関係のもつれ・病気の悪化などさまざまだが、共通していたのは「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」に耐え続けていた点だ。
 この乾きに耐えきれなかった時、自殺による死は現実のものとなる。
 僕は友人の葬式でこれを痛感せざるを得なかった。
 そして、自分がどれだけ無力で、ちっぽけな存在なのかを、心底思い知ることになったのだ。

 「救われるより、ここにいたい」とは、90年代末の某マンガのキャッチフレーズだが、「ここ」とは良識派を強いる人たちから批判や心配をされるような、”どす黒く救いようのない環境”のことだ。
 「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」は、その当事者を自殺へと導くものであると同時に、かろうじて今日を生き延びるために必要悪とわかりつつすがった「藁」(わら)である。

 自分を殴る恋人との暮らしも、彼がいない虚無や孤独に比べれば、はるかにマシ。
 ホームレスのまま死ぬ人生でも、生活保護を受給して仲間から外れるよりはマシ。
 そういう考えを「認知のゆがみ」と指摘するのは簡単だし、中学生でも言えることだ。

 「幸せのカタチくらい、私に決めさせて」と望むところに自尊心があることを、忘れてはいないか?
 他人に幸せのカタチを先回りして決められられるのは、誰だって気持ち良いものではないし、幸せのカタチを押しつけることを正義のように語られたら、反論する気すら失せてしまうのでは?

 彼らの自尊心を守ろうとするなら、彼らの認知を否定しないことが、真っ先に当事者である彼ら自身から求められる。
 「死にたい」と訴える人に、「死ぬな」と言うことは、ケンカを売っているようなものだ。
 人にはそれぞれ、自分がいま信じている幸せのカタチがあるのだから、そのカタチに至るまでの履歴や心情を知ろうとすることが、支援活動に携わる人にとって最優先かつ最低限度の仕事だろう。

 ところが、大変困ったことに、支援活動の団体の代表には、自分の幸せのカタチを疑うことなく、そのカタチを平気で被支援対象者に強いてしまっていることが珍しくない。
 たとえば、「がんばって大学に行って就職しようね」と呼びかける若者支援団体もあるが、それを求める被支援者もいれば、どうしても文科省が勝手に決めた科目や勉強内容が嫌な人もいる。

 そもそも、「高学歴にならないと高収入が見込めない」という社会の生きづらい仕組みをそのままにするのは、ソーシャルデザイン(社会設計)ではない。
 「高学歴にならなくても高収入の道が拓ける」という生きやすい仕組みを新たに作り出すのがソーシャルデザインの本質だ。

 そこで、団体側が既存の仕組みを変えようとしないまま、「僕らの助けたいように助けられてくれ」という姿勢に居直れば、ただでさえ「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」を持つ被支援者は、自分の幸せのカタチを否定され、「藁」を奪われる思いがするだろう。
 そして、支援団体に救いを求めた自分の期待が過剰だったことを自嘲・自責し、この社会に新たな失望を覚えるだけだろう。

 被支援者にとって満足度の低い活動を続けていれば、「あの団体は弱者をダシにしてメシを食っている」とか、「支援されている弱みから不満が言えない人たちにつけ込んで稼いでいる」などのそしりを免れない。

 このブログ記事は、支援する側・支援される側の両者にとって良好な関係とは何かを考え、多くの方が非営利事業のあり方について議論するチャンスの一つを作りたくて書いたものだ。
 支援する側が、「当事者の抱える問題を解決したい」という気持ちを、支援を求める側と分かち合えるようになってほしいと思う。

 解決すべき課題は、団体の側がひとりよがりな支援活動の内容を見直すこと。
 では、具体的に何をすればいいのか?
 それを端的に示したい。


●当事者に恨まれても、関係を続ける覚悟はあるか?

① 定性的なフィールドワーク調査を精緻に行う

 被支援者の満足度の低い活動になりがちな支援団体の特徴として、定量的な分析に時間・労力・資金を優先しがちという点がある。
 定量的な分析をすること自体は必要なことだが、それだけでは現実の被支援者の深刻さを十分に把握できない。

 むしろ、同じだけの時間・労力・資金を定性的なフィールドワーク調査にもつぎ込むことで、定量的な分析では見えなかった泥臭い現実を思い知ることができる。
 深刻な現実を直視するには、精神的な強さが求められるが、被支援者にとって満足度の低い活動で批判されがちな団体の代表者ほど、定性的なフィールドワークを怠るために被支援者との関係に問題を生じやすくさせてしまっている。

 その構図は、団体の活動に対する社会的な評価を下げさせることはあっても、上げることにはならず、活動自体の持続可能性も遅かれ早かれ危ぶまれることになる。
 だからこそ、速やかな改善が必要なのだ。

 既存のスタッフには定性的なフィールドワークを得意とする人材がいないなら、団体の外側に広がる社会から社会学者やフリーライターなどに声をかけ、代表者を含め、スタッフのスキルを鍛えてもらい、定量的な分析で見えなかった当事者ニーズを浮き彫りにするといい。

 「何が問題なのか?」を判断する主体は、あくまでも切実に苦しんでいる当事者であり、支援者ではない。
 当事者から判断の主体性を奪うように、当事者の思いを先回りして代弁しても、事情を知らない世間知らずの「良い子ちゃん」にしかほめられない活動しかできない。
 同じ泥にまみれたくない人を、誰が「支援者」と呼ぶだろう?
 支援活動に携わりたいなら、このことを胸に刻んでおいてほしい。

 なお、支援する・支援される上下関係では、支配関係に陥りがちになる。
 最先端の非営利事業では、両者が分かち合える活動理念が設定され、「支援から協働へ」が目指され、対等な関係を築くことが当たり前になりつつある。

② 代表者自身が被支援者と日常的に、深くつき合う

 そもそも定量的な分析には、「何を問題としてとらえるか」を支援者側が一方的に判断する段階で、被支援者のニーズとは別次元の統計しか導けないという難点がある。
 同時に、苦しんできた人にしか持ち得ない「当事者固有の価値」という宝を、当事者からタダで搾取し、独占的に奪略してしまう恐れすらある。

 そこで、どうしても必要になるのが、支援を求める当事者たちから信頼されること。
 それまでうかつには言えなかった本音をうちあけてもらえるまで、日常的に、かつ、深くつき合い続けることだ。

 本音は、浅い関係からは聞き出せない
 支援者に対して「この人ならどんなこともドン引かないで受け止めてくれる」という安心感を覚えない限り、本音を言い出せないのが、深刻な事情を生きてきた人たちかもしれないのだ。

 人によっては、本音や事実を言い出すまでに数年間もかかるかもしれないし、数ヶ月間で済むかもしれず、話を聞く側は常にその心の広さを試されている。



 この画像は、『ホームレス農園』(小島希世子・著/河出書房新社)という本の帯にある本文からの引用だ。
 神奈川にある著者の会社が運営する農園には、農作業をしに、ニートや引きこもり、不登校の当事者たちが集まってくる。

 彼らに向き合う小島さんが書いた上記の文章は、「がんばれば報われる」(祈れば神風が吹く)といったような根性主義(念力主義)ではない。
 被支援者が、どんな属性であろうとも、どれほど深刻な履歴の持ち主だろうと、辛抱強くつき合いを続け、少しずつ少しずつ心を開いてもらうプロセスの大事さを示したものだ。

 支援者の方が自分の認識を改めるような「目からウロコ」の現実を、当事者たちと年月をかけたつき合いから発見しなければ、当事者ニーズからそれた支援内容しかできないことを、彼女も畑で被支援者と同じ汗を流す泥臭い経験を重ね、思い知ったのだ。

 「既存の救済インフラではいつまでも満たせない乾き」を持つ当事者とつき合えば、「良かれと思って」始めたことであろうと、恨まれ、嫌われ、疎まれることを覚悟しなければならない。

 それまで数々の人から裏切られたという思いを持て余してきた人の中には、活動団体の代表者からも裏切られたと感じれば、夜な夜な「あいつなんか死んでしまえ」とせつない呪いをかける人すらいる。
 そうした当事者の抱える闇の深さを受け止める覚悟に向き合わなければ、当事者と対等な関係を築くのは難しいだろう。

 恨まれるのを覚悟しながらも関係を続けていくことは、とても愚直な作業であり、修行のようなものだが、これを避け続けたままでは、いつまでも当事者満足度の低い活動を続け、取材不足のメディアにしかほめられない。

 LINEやメールなどの便利なツールを使えば、被支援者と深い関係を築けるなんて勘違いを続けている代表者が団体にいれば、その団体はネット市民はもちろん、世間からも知らず知らずのうちに後ろ指を刺されるようになってしまうかもしれない。

 だからこそ、団体の代表者には、支援を求める当事者との関係を築くのに必要な時間・労力・資金をマネジメントできるスキルと能力が求められるのだ。

③ 団体内部に被支援者の「当事者コミュニティ」を作る

 当事者とのつき合いを大事にしようと思えば、団体の活動理念を表す言葉を公開する際に、大風呂敷を広げてはいけない。

 たとえば、「風俗嬢のキャリアを支援する」といっても、風俗のあり方自体がソープ、ヘルス、マッサージ、デリヘル、立ちんぼ、ストリップ、特攻、SMクラブ、ウリセンなど多様にあるため、それらすべての当事者たちを救えるかのような期待を抱かせては、裏切られた思いをする当事者を増やすだけだ。

 当然、支援対象を絞り込むと同時に、現実にどんな支援活動ができているかをふまえて活動理念を公言せざるを得ないはずだ。

 たとえば、「デリヘル嬢をやめたい人向けに広告営業の仕事を提供し、将来設計の一つにしたい」という具合に、等身大の活動だけを理念化しておかないと、「実現してない夢まで売るなよ」と突っ込まれても甘受するしかないだろう。

 逆に、企業から助成金を調達したり、メディアから取材を受ける際に、大風呂敷を広げておく方が歓迎されやすく、可愛がられることに味をしめると、いつまでも「被支援者の方を向いていない」と多方面から睨まれ続ける。

 それは、端的に損なことだし、支援者が被支援者に対等な関係を求めておらず、支援の名の下に支配を求めてしまっていることの証拠になってしまう。

 経営者や業界上層部が徹底した耳障りのいい美辞麗句で介護職員や介護関係者を洗脳して、モチベーションを上げさせて奴隷労働に向かわせる人材マネジメントを、中村淳彦さん「介護ポエム」と呼んだ。

 介護事業者が介護職員を洗脳するように、支援者が被支援者と対等な関係を築こうとしない組織には、「助けたいハラスメント」(支援ポルノ)が生じやすくなるのだ。

 活動理念で大風呂敷を広げれば、ポエムにしかならないのは当然だろう。

 しかし、当事者との関係を深められるなら、支援者はその試行錯誤の中で自分自身が支配的な振る舞いをしていることに気づくし、被支援者との信頼を揺るぎないものにしようと努力を続けていけば、次第に被支援者たちを味方につけ、団体内部で彼らの「当事者コミュニティ」を作れる。

 実は、最初から当事者たちが集まって立ち上げた非営利活動団体は、どんなことを優先的に解決すべきなのかが具体的にわかっている。
 だから、当事者満足度を上げていくための努力を惜しまないし、その努力の必要を日頃から実感している。
 そのため、活動理念を明文化する際も大風呂敷を広げないし、活動を継続していっても理念がブレにくい。

 もっとも、団体を立ち上げた後でも、「当事者コミュニティ」を作るのは遅くない。
 当事者たち自身によるコミュニティを団体が内部に抱えておけば、当事者が日常的に団体の事務所を訪れ、ニーズを伝えるチャンスが増える。
 おかげで、支援側の代表やスタッフと対等な関係を築くのも容易になるし、そこで団体と当事者コミュニティの間に風通しの良い「交渉の余地のある関係」が築ける。

 そして、結果的に当事者の声を担保にした活動に育ち、社会的な正当性を付与しやすくなる。
 当事者の中には、メディアに顔や名前を出したい人もいるだろうから、取材を受ける時も「当事者の声」に信頼を裏打ちされた活動団体として胸を張れる。
 当事者たちが団体の活動内容に対して感謝の声を自発的に上げているなら、世間も一応はその活動に納得するのだから。

 支援活動を標榜する団体のスタッフは、そこで初めて自分たちがやってきた活動内容に誇りを持てるのではないか?



 浅い取材ではない、本物のジャーナリストが取材時点で求めているのは、「支援を求める当事者ニーズに裏付けられた活動なのか?」に十分に応えられるだけの信憑性だ。
 非営利活動団体の代表者が一方的に言うキレイゴトを、検証することなく鵜呑みにして報じるメディアも一部に根強くある。

 だが、取材経費や執筆ギャラがカットされるばかりの現状では、そんな上っ面な報道しかできないメディアは、遅かれ早かれ、読者・視聴者からそっぽを向かれるだろう。
 そして、浅い報道によって、支援を期待する当事者(とその予備軍)たちから不信感を持たれた支援活動は、ネットの世界でアーカイブとしていつまでも不審がられ続けるだろう。
 とくに映像は、ディレクターが凡庸だと、伝えたいこと以上の意味までうっかり伝えてしまう。

 NHKの番組私たちは買われた ―少女たちの企画展―』を観ても、さまよえる女子高生たちを支援する団体に対する被支援者の感謝が、礼儀や挨拶程度だとよくわかった。
 それは、団体の提供する支援内容が、被支援者にとって大いに満足するほどには足りてないことを示す決定的な証拠だった。

 今日、誰かを「弱者」と見込んで動き出したいメサイヤコンプレクスに無自覚な人は少なからずいて、彼らの言う大風呂敷によって社会に対する失望を深める人も増えている。

 誰かを本気で「助けたい」と思うなら、「支援される側に十分満足してもらえるだけの活動内容を作れるかどうか?」「なぜ自分は誰かを一方的に弱者とみなし、助けようとしているのか?」を、真摯に自問してみてほしい。
 自分の能力・経験・スキルの不足に居直ることで、被支援者からの怒りまで買うような愚かさを犯す前に。


 人と人とは、気持ちを通じ合わせようとしない限り、関係悪化のトラブルがあらぬ方向へ飛び火することもある。
 それは、とてもつまらないことだ。

 人は誰でも、きれいに生きてるつもりでも、知らない間にいろいろホコリがついている。
 カッコ良いところだけ見せようとすればするだけ、ボロやホコリが見えてしまう。
 そういうことに気づかず、愚かな選択をしてしまうことは、若い頃には誰にでもある。
 僕にもあったし、えばってるおじいさんたちにもあったろうし、成長のチャンスにすればいい。

 たかが人間じゃないか。
 神じゃない。
 高下駄を履いて、どうするよ?

 遠回りでも、恐れずに、自分の無力を徹底的に思い知る経験に飛び込んでみてほしい。
 自分よりはるかに深い知見や重い経験を持つさまざまな人材に声をかけ、自分の能力不足を痛感してみてほしい。

 絶望を知る者だけが、絶望を生きのびようとしている当事者の心に届く言葉や課題解決の仕組みを獲得できるのかもしれないのだから。

※この話題でオフ会をします。興味ある方は、コチラ

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